驢鞍橋 / 卷上
一日僧曰く、何某殿內の者を集め、共に坐禪を爲し、警策を打たするに、始めは驚き有り、後は驚き休みて只氣味惡く覺え、日久しく功を積みければ、今は其聲に乘りて、□
新字:一日僧曰く、何某殿内の者を集め、共に坐禅を為し、警策を打たするに、始めは驚き有り、後は驚き休みて只気味悪く覚え、日久しく功を積みければ、今は其声に乗りて、□
書き下し
一日僧曰く、何某殿内の者を集め、共に坐禅を為し、警策を打たするに、始めは驚き有り、後は驚き休みて只気味悪く覚え、日久しく功を積みければ、今は其声に乗りて、□
現代語訳
ある日、僧が言った。何某殿が家中の者を集め、ともに坐禅をして警策を打たせたところ、初めは驚きがあり、のちには驚きが収まってただ気味悪く感じ、日を重ねて功を積んだので、今はその音に乗って、□(以下、底本の行が崩れて読めない)。
解説
ある武家の当主が家中の者を集めて坐禅をさせ、警策(坐禅中に肩を打つ棒)を打たせたところ、最初は驚き、やがて気味悪く感じ、功を積むうちにその音に乗るようになった、という報告である。この条は底本の後半が崩れて読めず、正三がどう答えたかは分からない。それでも、刺激への反応が、驚き、不快、慣れて乗る、と変化していく過程の記録として読める。新しい規律に人がどう慣れていくかを示す小さな証言である。
この章句が説くこと
警策坐禅慣れ家中修練欠損
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、何某あまり坐禅の機をえ受けぬに仍て、機を移さん為め、両の手頸をむずと握り、膝元に引寄せ、きつと坐禅しければ、張合なくするすると引入るやうに体もなく覚えたり。扨ても見懸に違て機のへりたる者哉。中々心は打腐りたるやうに思はれたり。あれては頓て病んずよ、不便のこと也。因に曰く、始てこの位を知る也、今迄終に鍛錬せず、是は能きことを知る也。此の後は如是して、人の機の位を知るべし。又坐禅の機を如是してなりとも授けて見んずと也。彼者頓て大に病ひけり。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行と云ふ物、中中上り難き物也。我今十二時中坐禅ならさる事なし。喩へは大勢に交り、上下へかえし、相撲を取り、躍をゝとり、何程はね狂ひたりとも、坐禅の機少しもたじろくへからす。また好く若き時より心つきて自己を守りしが、其時分よりはや念には勝つてばかされざる也。夫れより次第よく修しつめ何たる事にもたじろかぬほどに仕付けたれども、まだ夫れでも生死の為めには不成、中々大儀な物也。
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『驢鞍橋』卷上一日鉄長老問ふて曰く、散乱無き様にと静に坐禅致せば、機沈みて眠る也。如何用心仕るべきや。師示して曰、つゝつくつゝつくと躍つて坐禅めさるべしと也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、我始め空々坐禅を能きことに思ふて久く用ゐけるが、一日、無念無心は釈迦仏に勝るはあるべからす。然るに仏さまざま有念を使つて、一代経を説き給ふは是非を分る上にて無念の道理有るべし。あつかぼうせんとしたることにあらじと思ひ替て、果眼に用ゐて、少し元に合ふては、臆病気退く也。各も是非を分ち、万事を作す上に無念にて居る坐禅をし習ふべし。
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『驢鞍橋』卷上一日去る侍に示して曰く、始めより忙敷中にて坐禅を仕習ふたるが好き也。殊に侍は鯨波の中に用ふる坐禅を仕習はで不叶、鉄鉋をばたばたと打立て、互に鑓先を揃へて、わつわつと云ふて乱れ逢ふ中にて、急度用ひて爰で使ふ事也。なにと静なる処を好む坐禅が、加様の処にて使はれんや。総して侍はなにと好き仏法なりと云ふとも、ときの声の内にて用に立たぬ事ならは、捨たがよき也。然る間常住二王心を守習ふ外なし。扨初心の者二王心の外にて、万事の上に使ふ事成るへからず。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る処にて示して曰く、仏法と云ふは、万事に使ふこと也。殊に武士は鯢波坐禅を用ゆへしと云つて、自ら鯢波を作し給ふ。その座に不三あり、ひしとこの機を受く、師後にその意を聞て肯之。