驢鞍橋 / 卷上
彼人曰、見苦しき物を曝し度くも無しと存す。師曰、其心有らば彌出して人に見せたるか好き也。慙愧懺悔の法と云ふは、我が惡敷處をぶつ曝す事也。亦夫程見苦敷物と知らば、何ぞ今惡み捨て給はぬや、死人は結句きれい也、生身に増したるむさき物有らんや。目汁鼻汁大小便一つとして淸き事無し、内には惡業計りを包み置き、扨もむさい糞袋哉と睨付けて、惡み捨てらるへしと也。
新字:彼人曰、見苦しき物を曝し度くも無しと存す。師曰、其心有らば弥出して人に見せたるか好き也。慚愧懺悔の法と云ふは、我が悪敷処をぶつ曝す事也。亦夫程見苦敷物と知らば、何ぞ今悪み捨て給はぬや、死人は結句きれい也、生身に増したるむさき物有らんや。目汁鼻汁大小便一つとして清き事無し、内には悪業計りを包み置き、扨もむさい糞袋哉と睨付けて、悪み捨てらるへしと也。
書き下し
彼人曰、見苦しき物を曝し度くも無しと存す。師曰、其心有らば弥出して人に見せたるか好き也。慚愧懺悔の法と云ふは、我が悪敷処をぶつ曝す事也。亦夫程見苦敷物と知らば、何ぞ今悪み捨て給はぬや、死人は結句きれい也、生身に増したるむさき物有らんや。目汁鼻汁大小便一つとして清き事無し、内には悪業計りを包み置き、扨もむさい糞袋哉と睨付けて、悪み捨てらるへしと也。
現代語訳
その人は言った。見苦しいものをさらしたくもないと思います。師は言われた。その心があるのなら、いよいよ出して人に見せるのがよい。慙愧懺悔の法というのは、自分の悪いところをさらけ出すことである。また、それほど見苦しいものと知っているなら、どうして今憎んで捨てられないのか。死人はかえってきれいである。生身に増して汚いものがあろうか。目やに、鼻水、大小便、一つとして清らかなものはない。内には悪業ばかりを包み込んでいる。なんと汚い糞袋だ、と睨みつけて、憎み捨てなさい、と。
解説
見苦しい遺体をさらしたくないという人に、正三は、それならなおさら人に見せよと言う。自分の悪いところをさらけ出すのが本当の懺悔だからだ。そして、見苦しいと思うなら、死体よりも生きている今の体のほうがよほど汚い、と畳みかける。体裁を気にして欠点を隠そうとする心を逆手に取り、自分の弱さをさらけ出す勇気を求めている。失敗や弱みを隠す組織ほど腐敗しやすいことを思えば、示唆に富む。
この章句が説くこと
懺悔慚愧体裁不浄観さらけ出す糞袋
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日人来り曰く、我死せは其儘袋に入れて焼くへしと常々申付くる也。師聞て曰く、昔異国に世に知られたる兵有り、彼其方の如く遺言して其儘死骸を埋めしめたり。時の人是れを死ぬる事は得たれ共、からたを捨つる事を得すと、詩に迄作りて批判せし事有り。然る間其方も只捨てらるへし、願くは犬鳥に喰はせたるも好き也。
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『驢鞍橋』卷上一日或る俗来て曰く、承り及ふ故に是れ迄伺候仕る、一句示し給へ。師曰く、一人虚を伝ふれば、万人実と伝ふとて何者かおどけ者有りて、正三こそ名誉者なれ抔といへば、末々に聞き伝へ、扨は空をも翅り、光をも放つか抔と思ひ、正三見物に来り、変も無き老人なるを見て、皆興を醒さるゝ也。誠に我何の変もなき土禅門也。只死度くも無き間、何とぞして殺さるゝ事有りとも、何とも思はす、頸を指出して自由に死ぬ程に成りたさに修する也。されとも死は置いて餓鬼畜生を出でぬ也。是れを出度く思ふ心は、何とも思はず居る者には增さるへき歟。別に人に增りたる事無し。其方も聞かんと思はゝ一向のしろうとに成りめさるへし。彼者、秘し給ふと思ひ弥示し給へと云ふ。師曰く、我仏法の能き事を知らず、只我悪敷事を能く知りたる也。我友に成り、出入めされば、何時も我処に有る餓鬼畜生を懺悔して聞かせ申すべし。実に是の外によき事を知らず、ひげして云ふかと思ひめされんずな。無間に沈むほうぞ知らぬ也。
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『驢鞍橋』卷下去る夜、小用に出て給ふ次で、身を扣て曰く、咳、むさい糞袋哉。大小用の時は、一入髄に徹して不浄の体哉と、いやに思はるゝ也。扨て扨て詮も無き物哉と也。常住坐臥に付て、何の詮もなき物哉詮もなき物哉と也。又時々あゝ大義じやよ大義じやよと大息をつき給ひ、睡眠の中にも吐息有りし也。又僧俗、毎夜床を取廻して坐するに、何として何としてと時々警策有りし也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る者草分を誦み損するを呵して曰く、我文もつゞかされとも、汝等か為めに心の及ぶ程書曲げて置くに、年来左右に乍居、是れを見分けぬと云ふ様な、無道心なる事有らんや。扨もでかい恥不知哉。爰に有るは只我をたらして、飯を心安く喰はん為めか。其面にて我前に好く出づる事也。夫れげな心にて先々にて我を売り回り、我にも耻を与ふる也。乍去我耻はもはや二三年の耻也。汝か永劫閣魔の前の耻を顧みすや。扨々不義至極の者哉。
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心清浄に用ひ、先つ好き体を造り立て、その内に仏法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は悪き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は仏に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。