驢鞍橋 / 卷上
一日語衆曰く、我此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂けす。乍去今は夫れがよいに成りし也。其儘居たらば能き佛法者に成り、打上りて錯を知らさるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は惡しと思ふは、修行少し上りたると思ふ也。今思ふに山居を好むは、異風ずきのだてな心也。在家にて坪を搆べ座敷を飾ると一つ心也。
新字:一日語衆曰く、我此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂けす。乍去今は夫れがよいに成りし也。其儘居たらば能き仏法者に成り、打上りて錯を知らさるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると思ふ也。今思ふに山居を好むは、異風ずきのだてな心也。在家にて坪を搆べ座敷を飾ると一つ心也。
書き下し
一日語衆曰く、我此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂けす。乍去今は夫れがよいに成りし也。其儘居たらば能き仏法者に成り、打上りて錯を知らさるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると思ふ也。今思ふに山居を好むは、異風ずきのだてな心也。在家にて坪を搆べ座敷を飾ると一つ心也。
現代語訳
ある日、衆に語って言われた。私は以前は山住まいが好きで、少しの森林を見ても庵を結びたい心があったので、たびたび山に住んだけれども、天の道に許されずに遂げられなかった。とはいえ今は、それがよかったと思うようになった。そのままいたら立派な仏法者になり、舞い上がって誤りを知らなかっただろう。以前は山住まいをよいと思ったが、今は悪いと思うのは、修行が少し上がったのだと思う。今思えば、山住まいを好むのは、変わった風を好む伊達な心である。在家の人が庭をしつらえ座敷を飾るのと同じ心である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下又曰く、我山居を遂けることを、此の前は憂く思ひけるか。今は仕合と思ふ也其子細は、その儘居らば、覚えす能き道者に成り居て、非を知るべからす。始終世間に在るに仍て、足らさることを知り、凡夫にてある也。良有て曰く、されども好く成ても居られまじきこと一つ有り、我元より死を忘れぬ性也。どこにありても油断せられまじ。人に勝れて只死ぬかいやな性也。是れに仍て果眼には用ゐたる也。実に臆病故にこそ、是れほど迄もこね来ると也。
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『驢鞍橋』卷下一日、山居を好む者に示して曰く、修行は世間にあつて仕たるか好き也。山中には必ず成仏せば、二十年山にある一角仙人、何として女人を頸に乗せて山を出てたりや。今時の山居者、結句一角仙人程の修行もあるべからす。大略世間の者を非に見下し、我独り能く成り罪を作り居るつれ計なるべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日向衆曰く、我此前より娑婆捨つたと思ひたるか、今思ふにそでも無き事也。さず今のもまだでかうろではあらしと思はるゝ也。
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『驢鞍橋』卷上一日語て曰く、我此前洛陽に有りし時、紫野より僧一人来り、古則抔問ひけるに、我常の如く相接す。後に聞けは我を賺しに来ると云ふ。我本より後に廻る事下手也。此故に人にだまさるゝ事多し。乍去今は功者に成りて、左様の者に相接する事上手に成りたり。若き衆に教へて置くへし、若し左様の者来り法を問はは、如何にも謙つて左様の事は存せぬ也、能き事有らば習ひ申さんと云つて、打上げて置くべしと也。
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『驢鞍橋』卷上夜話の次で、去る者或は行脚し或は山居す抔と、様々我行を自讃す。師呵して曰く、其方左様にして何事を仕出したぞ、むだ辛労して詮無き事を耻ぢず、手柄の様に云ふ。人か大略にも思ふかと思つて云ふと見えたり。汝か事を入札にさせば、一人でも能く入るゝものあるべからす、我を知らぬ者哉。因に向衆曰く、総して若き衆もよう心得めされよ、人は能く思はぬに自ら慢して、人もよう思ふと思つてたわけを尽す者也。自分を顧みて余所の笑ひを知るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る若き僧の志有りて、望を休したるに向て曰く、まだいかなる大難にも逢はんずか、幾年を送らん事大儀也。乍去望を離れよくは仕為し来れり、なにとぞ次第に募らせたし、まだ末しれぬ事也。心元なし。旨少し違ひて志失せれば、娑婆に責められ、忽ち苦を受くる物也。兎角後世願ひの中を離れざるが好き也。亦やゝ有りて自ら身を叩へて曰、扨も何の用にも立たぬ物哉物哉と也。