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驢鞍橋 / 卷上

是れに付て古き物語を思ひ出す。去る山寺に博士一宿す。明る日其寺に十二三の兒有るを見て曰く、此兒夕まては三日のうちに死すべき相有りけるか、今朝は八十迄の長命の相に成る。一夜の中に七十年の壽延びたる事不思議也。何たる善心を起されたぞ、いかなる善根ばしせられたぞと問ふ。一寺の衆も驚き子細を問ふ。兒曰く、何たる善根もなしたるおぼえなし。夕雪隱へ行きければ、蹈板よごれて暫時がほども居にくかりし時、ふと思ひ當るやうは、片時の間さえかやうに居にくきに、我母は總身屎尿になれども、更に苦と思ふ念なく、只かはゆいと計り思ひ給へる深恩、扨々報じ難き事哉と、此思に報ふと思ひ、手を以て雪隱の板のよこれたるを拂ひ淸む、別に覺えなしと云ふ。人々此功德なりとて感せられたると云ふ。是れ貴き物語りに有らすやと也。

新字:是れに付て古き物語を思ひ出す。去る山寺に博士一宿す。明る日其寺に十二三の児有るを見て曰く、此児夕まては三日のうちに死すべき相有りけるか、今朝は八十迄の長命の相に成る。一夜の中に七十年の寿延びたる事不思議也。何たる善心を起されたぞ、いかなる善根ばしせられたぞと問ふ。一寺の衆も驚き子細を問ふ。児曰く、何たる善根もなしたるおぼえなし。夕雪隠へ行きければ、蹈板よごれて暫時がほども居にくかりし時、ふと思ひ当るやうは、片時の間さえかやうに居にくきに、我母は総身屎尿になれども、更に苦と思ふ念なく、只かはゆいと計り思ひ給へる深恩、扨々報じ難き事哉と、此思に報ふと思ひ、手を以て雪隠の板のよこれたるを払ひ清む、別に覚えなしと云ふ。人々此功徳なりとて感せられたると云ふ。是れ貴き物語りに有らすやと也。

書き下し

是れに付て古き物語を思ひ出す。去る山寺に博士一宿す。明る日其寺に十二三の児有るを見て曰く、此児夕まては三日のうちに死すべき相有りけるか、今朝は八十迄の長命の相に成る。一夜の中に七十年の寿延びたる事不思議也。何たる善心を起されたぞ、いかなる善根ばしせられたぞと問ふ。一寺の衆も驚き子細を問ふ。児曰く、何たる善根もなしたるおぼえなし。夕雪隠へ行きければ、蹈板よごれて暫時がほども居にくかりし時、ふと思ひ当るやうは、片時の間さえかやうに居にくきに、我母は総身屎尿になれども、更に苦と思ふ念なく、只かはゆいと計り思ひ給へる深恩、扨々報じ難き事哉と、此思に報ふと思ひ、手を以て雪隠の板のよこれたるを払ひ清む、別に覚えなしと云ふ。人々此功徳なりとて感せられたると云ふ。是れ貴き物語りに有らすやと也。

現代語訳

これにつけて古い物語を思い出した。ある山寺に占い師が一泊した。翌朝その寺に十二、三歳の稚児がいるのを見て言った。この子は昨夕までは三日のうちに死ぬはずの相があったが、今朝は八十歳までの長命の相になっている。一夜のうちに七十年の寿命が延びたのは不思議だ。どんな善心を起こされたのか、どんな善根をなされたのか、と尋ねた。寺じゅうの者も驚いて事情を尋ねた。稚児は言った。何の善根もした覚えはありません。夕べ便所へ行くと、踏み板が汚れていて、しばらくの間もいにくかったのですが、ふと思い当たりました。わずかの間でさえこのようにいにくいのに、私の母は全身が屎尿まみれになっても、少しも苦と思わず、ただかわいいとばかり思ってくださった深い恩は、なんとも報い難いことだと。この恩に報いようと思い、手で便所の板の汚れを払い清めたほかは、覚えがありません、と。人々は、この功徳によるものだと感じ入ったという。これは尊い物語ではないか、と。

解説

汚れた便所で、自分を育ててくれた母が汚物にまみれても嫌がらなかったことを思い、その恩に報いようと自ら板を清めた稚児が、寿命を延ばしたという説話である。寿命の話は説話だが、要点は、一瞬の不快から親の深い恩に思い至り、すぐに行動に移した心の動きにある。日常の小さな不快を、誰かの恩を思い出すきっかけに変えられるか。感謝を思うだけでなく、手を動かして報いることの尊さを伝える話である。

この章句が説くこと

報恩説話功徳感謝掃除

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