驢鞍橋 / 卷上
一日去る人弘法大師の念佛の釋を持し來り、是れ佛法の至極と承はると、秘して師に呈す。師見終はて有難き物也と讃めて、彼者を歸し給ふ。後に一僧あり云ふ、何某殿のやうなる風こそよけれ、あのやうなる愚癡なる者には挨拶も仕度なし。師聞て曰、能き人に比へて捨てば、取る者有るへからす、あれは尊き心にて佛道に入る也。あの心無けれは引入れへき處なし。あれはあのなりに進め入れたるがよき也。夫れこそ應機說法なるべしと也。
新字:一日去る人弘法大師の念仏の釈を持し来り、是れ仏法の至極と承はると、秘して師に呈す。師見終はて有難き物也と讃めて、彼者を帰し給ふ。後に一僧あり云ふ、何某殿のやうなる風こそよけれ、あのやうなる愚癡なる者には挨拶も仕度なし。師聞て曰、能き人に比へて捨てば、取る者有るへからす、あれは尊き心にて仏道に入る也。あの心無けれは引入れへき処なし。あれはあのなりに進め入れたるがよき也。夫れこそ応機説法なるべしと也。
書き下し
一日去る人弘法大師の念仏の釈を持し来り、是れ仏法の至極と承はると、秘して師に呈す。師見終はて有難き物也と讃めて、彼者を帰し給ふ。後に一僧あり云ふ、何某殿のやうなる風こそよけれ、あのやうなる愚癡なる者には挨拶も仕度なし。師聞て曰、能き人に比へて捨てば、取る者有るへからす、あれは尊き心にて仏道に入る也。あの心無けれは引入れへき処なし。あれはあのなりに進め入れたるがよき也。夫れこそ応機説法なるべしと也。
現代語訳
ある日、ある人が弘法大師の念仏の解釈を持って来て、これが仏法の極みだと承っております、と大切にして師に差し出した。師は見終わって、ありがたいものだとほめて、その人を帰された。後で一人の僧が言った。何某殿のような風情の人ならよいが、あのような愚かな者には挨拶もしたくありません。師は聞いて言われた。良い人と比べて捨てていけば、取るべき者はいなくなる。あれは尊い心で仏道に入ろうとしているのである。あの心がなければ、引き入れるところがない。あれはあの人なりに進め入れるのがよいのだ。それこそ機に応じた説法というものだろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日去る僧云ふ、何某殿は殊の外利根人也。志も少し有り、教化有るべし。師曰く、あれほど利根にては仏法に入られてこそ。亦僧曰、誠に利根に碍られて聞き得べからす。師曰、其儀にあらず、夫れは随分聞くべし。然れども何と聞きてもあの利根すたるべからす、聞くほと利根增して、利根仏法に成つて果すべし。扨仏法と云ふは鈍をも利根をも打捨つる事也。
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『驢鞍橋』卷下一日去る者曰く、何某和尚は、親切の振あれとも、師を無作法ありと云つて、殊外誹り給ふと云ふ。師聞て曰く、是れ謗するに非ず、彼は始めより出家なれば、何としても作法好し。我は禅門入道なれば悪しと也。又彼者曰く、いや無実を以て謗せらるゝ也。師曰く総而人を悪しく云へば、我好き者に成ると思ふて云ふもの也。彼人左様の初心な処少し有る人と也。
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『驢鞍橋』卷上一日因果の理を破る者に示して曰く、我人を打てば人亦我を打つ、人に能く向へは人亦我によし。是れ眼前の道理なり。其上三時業報の因果歴然の仏説明也。然るに仏説を信せぬは、其方は仏より上なり、近頃珍しき人也。亦彼の者誦経すれば口が成仏仕るやと云ふ。師曰、先づ口なりとも成仏するかよきなり。総して今時勤めは心に有りて業にあらすと云ふ者錯多しと也。
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『驢鞍橋』卷下一僧云ふ、親しく出入仕る何某、師を誹謗すると承る、向後彼が出入を留めんと云ふ。師曰く、何程云はれても、正三は秘蔵也。飽程云はれ度し。是れ吾師也、必ず出入を止むべからすと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人仏法病有る人を伴ひ来て曰く、是人殊の外真実人也、教化あるべし。師見て曰く、あらいやの真実や。我処のをつきり共の真実にさへ飽果たり。牛馬の頸をも切るやうならつは者ならば、何とぞあひしらつて見んと也。
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『驢鞍橋』卷上一日源長老曰く、何某は師の意を得たりと存す、弥方便有るへし。師曰く、よう心得めされよ、あれはくつとぽつ籠んで置く計り也。能き処は我と持て居る也。始終召しあげぬ一つ也。長老は人を損ひめされんず人哉と也。