驢鞍橋 / 卷上
古來先達の行脚と云ふは、師を尋ね道を求め、身命を不願、千萬里の行脚をなすも有り、或は得法の人、諸方を勘辨に行脚せられたるも有り、或は丈夫底の人、萬緣に觸れ、いよいよ性をためさん爲めの行脚も有り、或は心有る人山水草木に向て、心を磨かん爲めの行脚は有れとも、其方如きの途方無き者の行脚を爲し、德有る事を知らす。在在處處を妄にうろたへ廻り、無作法者と成り、爲方無くは盜をもし、忽ち故なく惡人と成るへし。此つれに行脚して賣僧に成り、氣違ひに成りたる者數を知らす。我彼樣の者にあきはてり、沙汰を聞くもいや也。若し我異見をも聞かば留るべし、左無くは向後出入無益也。今世後世の綠を切ると大に呵し給へは、其者頓て留りぬ。
新字:古来先達の行脚と云ふは、師を尋ね道を求め、身命を不願、千万里の行脚をなすも有り、或は得法の人、諸方を勘弁に行脚せられたるも有り、或は丈夫底の人、万縁に触れ、いよいよ性をためさん為めの行脚も有り、或は心有る人山水草木に向て、心を磨かん為めの行脚は有れとも、其方如きの途方無き者の行脚を為し、徳有る事を知らす。在在処処を妄にうろたへ廻り、無作法者と成り、為方無くは盗をもし、忽ち故なく悪人と成るへし。此つれに行脚して売僧に成り、気違ひに成りたる者数を知らす。我彼様の者にあきはてり、沙汰を聞くもいや也。若し我異見をも聞かば留るべし、左無くは向後出入無益也。今世後世の緑を切ると大に呵し給へは、其者頓て留りぬ。
書き下し
古来先達の行脚と云ふは、師を尋ね道を求め、身命を不願、千万里の行脚をなすも有り、或は得法の人、諸方を勘弁に行脚せられたるも有り、或は丈夫底の人、万縁に触れ、いよいよ性をためさん為めの行脚も有り、或は心有る人山水草木に向て、心を磨かん為めの行脚は有れとも、其方如きの途方無き者の行脚を為し、徳有る事を知らす。在在処処を妄にうろたへ廻り、無作法者と成り、為方無くは盗をもし、忽ち故なく悪人と成るへし。此つれに行脚して売僧に成り、気違ひに成りたる者数を知らす。我彼様の者にあきはてり、沙汰を聞くもいや也。若し我異見をも聞かば留るべし、左無くは向後出入無益也。今世後世の綠を切ると大に呵し給へは、其者頓て留りぬ。
現代語訳
昔から先達の行脚というのは、師を尋ね道を求めて、身命を顧みず千万里を行脚した者もあり、あるいは法を得た人が、諸方の力量を確かめに行脚したこともあり、あるいは優れた人が、さまざまな縁に触れて、いよいよ性根を試すための行脚もあり、あるいは心ある人が山水草木に向かって、心を磨くための行脚はあるけれども、あなたのような途方もない者が行脚をして、徳のあることを私は知らない。あちこちをむやみにうろたえ回り、無作法者となり、どうしようもなくなれば盗みもし、たちまち理由もなく悪人となってしまうだろう。この類で行脚して、売僧となり、気が違ってしまった者は数知れない。私はあのような者に飽き果てた。噂を聞くのも嫌である。もし私の意見を聞くのなら留まりなさい。そうでないなら、今後出入りは無用である。今世も後世も縁を切る、と大いに叱られたので、その者はすぐに留まった。
解説

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『驢鞍橋』卷上一日初入の僧、無縁の僧と成り諸国を乞食し廻らんと云ふて、師を辞す。師呵して曰く、内々聞きし事言語道断無分別なる思ひ立ち也。先づ仏道を修せんと思ふ者は、善き師を求め善き友に交はる事肝要なり。然るに修行昨今の思ひ立ちにて、途方も無くすべをも弁へす、徒に諸国を行脚せんこと我同心なし。
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『驢鞍橋』卷上我処に在らば仏行大形にしてなりとも、先つ我書を見分け不審も有らば問ひ窮め置くへきに、文字さへ見分けさるは余り慚愧の事也。只汝は追出して乞食させたるか慈悲なるべし。思ひ切つて世縁をづんと離れ、身を捨て、乞食し、乞出せば食し、若し乞出ずんば餓死せんと思ひ切つて、天道に任せて行脚せは、楽に居て飮喰し、仏行を為したるよりも增しなるへし。必す無縁乞食修行すへしと也。
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『驢鞍橋』卷中○示同人返書。便り候間、文を越し申し候。行脚に出て申し候はん由、何よりの事に候。此の上は行脚の心遣専一に候。一、行脚は捨身の心第一也。夢幻泡影の理、胸に納め、飛花落葉に付て慥に守り可被申候。又即今臨終の念を忘るへからす。此の三胸になくは、行脚して詮なし。一、同行の人候て、行脚にて悪毒にて候。先つ頼母敷心あるへし、慰心あるへし、悦ふ心あるへし、浮世の事出来すへし。兎にも角にも心の綱ふとく成り、きれはし鈍く候はん事無疑候。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人西国巡礼を思ひ立ち、師を辞して曰く、此中承はる自己を守るの段、心得難し、弥示し給へ。師聞て曰、自己を守る事成るへからず、只念仏申して行脚すへし。又は油断無く咒陀羅尼をくり、何千返何万返と巡礼札に書付け、処々に打巡つて業障を尽すへし。其自己の沙汰先々にてしてくれめさるゝな、ふつゝと無用にめされよ。只乞食し仏行を作して業障を尽さるへし。少し意など移りたると云ふとも、業障を尽さねば何の用にも立たぬ物也。責めて死苦を受けぬ程に勤むべし。大略責められめされんず、愚に思ひめさるゝなと也。
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『驢鞍橋』卷中又行脚の段に、霊仏霊社に参詣して、霊性清浄の機を受け、自己清浄と成り、山水草木に向つても、彼れか清浄の機を受けて自已を浄めと云ふも、機に移りたるに仍て書く也。又願力の段に、自巳の徳益なきのみならす、剰へ万人の心に違て、他人を引て悪道に入るへきこと、かねて知らすんば有るへからすと云ふは我か悪にて我一人沈むはせめて也。万人が無道人の坊主哉、いやどうよくなる入道哉と、さまざま地獄を造て堕る也。行ひ悪しき人の、諸人を引て悪道に入ること如是。大なる咎也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る若き僧の志有りて、望を休したるに向て曰く、まだいかなる大難にも逢はんずか、幾年を送らん事大儀也。乍去望を離れよくは仕為し来れり、なにとぞ次第に募らせたし、まだ末しれぬ事也。心元なし。旨少し違ひて志失せれば、娑婆に責められ、忽ち苦を受くる物也。兎角後世願ひの中を離れざるが好き也。亦やゝ有りて自ら身を叩へて曰、扨も何の用にも立たぬ物哉物哉と也。