二宮翁夜話 / 続篇
或問、今日中庸の講釈を聞けり、誠に六ヶ敷講釈にて、聞ても分らず、喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と云とは如何なる道理なるや。翁曰、是は尤も六ヶ敷道理なり、されど之を他物に移して説く時は了解出来る物なり。之を艸木にて云はゞ、根幹枝葉未だ発せざる之を種と云と見るべし。之を艸木に移して然る後に中と云の何物たるやを考ふるを近道とす、如何に分りたるや。或人感拝して帰れり。
書き下し
或(ある)ひと問(と)ふ、今日(こんにち)中庸(ちゅうよう)の講釈(こうしゃく)を聞けり、誠(まこと)に六ヶ敷(むつかしき)講釈にて、聞ても分らず、喜怒哀楽(きどあいらく)の未(いま)だ発(はっ)せざる之(これ)を中(ちゅう)と云(い)ふとは如何(いか)なる道理なるや。翁(おきな)曰(いわ)く、是(これ)は尤(もっと)も六ヶ敷道理なり、されど之を他物(たぶつ)に移して説く時は了解(りょうかい)出来る物なり。之を艸木(そうもく)にて云はゞ、根幹枝葉(こんかんしよう)未だ発せざる之を種(たね)と云ふと見るべし。之を艸木に移して然(しか)る後に中と云ふの何物(なにもの)たるやを考ふるを近道とす、如何に分りたるや。或人(あるひと)感拝(かんぱい)して帰れり。
現代語訳
ある人が問うた。「今日『中庸』の講釈を聞きましたが、まことに難しい講義で、聞いてもよく分かりません。喜怒哀楽がまだ現れていない状態、これを『中』と言うとは、どういう道理なのでしょうか」。翁が答えられた。「それはまことに難しい道理だ。しかし、これを別のものに置き換えて説けば理解できるものだ。これを草木で言うなら、根も幹も枝も葉もまだ現れていない状態、これを『種』と言うのだと見ればよい。これを草木に移し替え、そのうえで『中』とは何であるかを考えるのが近道だ。どうだ、分かったか」。その人は深く感じ入って拝礼し、帰っていった。
解説
『中庸』の難解な「喜怒哀楽の未だ発せざるを中と謂ふ」という一節を、尊徳が身近な草木にたとえて解き明かした一条です。感情がまだ動き出す前の静かな根源の状態を、あらゆる可能性を秘めた「種」になぞらえます。抽象的な理屈を、農に生きる者が日々目にする種と草木の姿に置き換えることで、誰もが腑に落ちるよう導く。これは机上の学問より実地から真理をつかむ尊徳の実学の姿勢そのものです。現代でも、難しい概念は身近な具体例に移し替えて考えると理解が早まります。相手の経験に寄り添って説く教え方の妙は、学びや指導の現場に通じる知恵といえます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳中庸喜怒哀楽種たとえ話
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