二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、心狭く局りては、真の道理を見る事能はざる物なり。夫れ世界は広し、故に心をば広く持つべし。されども其の広き世界も己と云ひ、我と云ふ私物を一つ中に置て見る時は、世界の道理は其の己に隔てられて、其の見る所は皆半になるなり。己と云ふ物にて半分を見る時は、借たる者は返さぬ方が都合よく、人の物を盗むは尤も都合よかるべけれど、此隔てなる己と云ふ物を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云ふ道理が明らかに見え、盗むと云ふ事は悪事なる事も明らかに分るなり。故に此己と云ふ私物を取り捨るの工夫が専一なり、儒も仏も此取捨方を教るを専一とす。論語に己に克て礼に復れと教へたるも、仏にては見性といひ、悟道といひ、転迷と云ふ、皆此私を取り捨るの修行なり。此私の一物を取捨る時は、万物不生不滅不増不滅の道理も又明かに見ゆるなり。如此明白なる世界なれども、此己を中間に置て彼と是とを隔つる時は、直ぐ其座に得失損益増減生滅等の種々無量の境界現出するなり、恐るべし。然れど是又是非無き次第なり、其は豆の艸になる時は、豆の実を見る事能はず、豆の実になる時は豆の草は出来ざる世界なる故に、万物の霊なる人といへども免れ難きなり。此免れ難きを免るゝを悟といひ、免れざるを迷と云ふなり。予が戯に詠める歌に「穀物の夫食となるも味も香も、草より出でゝ艸になるまで」「百艸の根も葉も枝も花も実も、種より出でゝ種になるまで」此理を見るの一つのみ、呵々。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、心狭く局(かぎ)りては、真の道理を見る事能(あた)はざる物なり。夫(そ)れ世界は広し、故に心をば広く持つべし。されども其の広き世界も己(おのれ)と云ひ、我と云ふ私物(しぶつ)を一つ中に置きて見る時は、世界の道理は其の己に隔てられて、其の見る所は皆半(なかば)になるなり。己と云ふ物にて半分を見る時は、借りたる者は返さぬ方が都合よく、人の物を盗むは尤(もっと)も都合よかるべけれど、此隔てなる己と云ふ物を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云ふ道理が明らかに見え、盗むと云ふ事は悪事なる事も明らかに分るなり。故に此己と云ふ私物を取り捨るの工夫が専一(せんいつ)なり、儒も仏も此取捨方(とりすてかた)を教ふるを専一とす。論語に己に克ちて礼に復(かえ)れと教へたるも、仏にては見性(けんしょう)といひ、悟道(ごどう)といひ、転迷(てんめい)と云ふ、皆此私を取り捨るの修行なり。此私の一物を取捨る時は、万物不生不滅不増不滅の道理も又明かに見ゆるなり。此(かく)の如く明白なる世界なれども、此己を中間(ちゅうかん)に置きて彼と是とを隔つる時は、直(す)ぐ其座に得失損益増減生滅等の種々無量の境界(きょうがい)現出するなり、恐るべし。然れど是又是非無き次第なり、其は豆の艸(くさ)になる時は、豆の実を見る事能はず、豆の実になる時は豆の草は出来ざる世界なる故に、万物の霊なる人といへども免れ難きなり。此免れ難きを免るゝを悟といひ、免れざるを迷と云ふなり。予が戯(たわむ)れに詠める歌に「穀物の夫食(ふじき)となるも味も香も、草より出でゝ艸になるまで」「百艸(ひゃくそう)の根も葉も枝も花も実も、種より出でゝ種になるまで」此理(このことわり)を見るの一つのみ、呵々(かか)。
現代語訳
翁が言われた。心が狭く凝り固まっていては、真の道理を見ることができない。世界は広い、だから心も広く持つべきだ。しかし、その広い世界も、「己」「我」という私心を一つ真ん中に置いて見ると、世界の道理はその己に遮られて、見えるものはみな半分になってしまう。己という物で半分だけを見ると、借りた物は返さない方が都合よく、人の物を盗むのが最も都合よく思える。だが、この隔てとなる己という物を取り捨てて広く見れば、借りた物は返さねばならぬという道理が明らかに見え、盗みが悪事であることもはっきり分かる。だからこの己という私心を取り捨てる工夫が第一なのだ。儒教も仏教も、この捨て方を教えるのを第一とする。『論語』に「己に克ちて礼に復れ」と教えたのも、仏教で見性・悟道・転迷というのも、みなこの私心を取り捨てる修行である。この私心の一物を取り捨てるとき、万物は生じも滅しもせず増しも減りもしないという道理もまた、はっきり見えてくる。これほど明白な世界でありながら、この己を間に置いて彼と此を隔てると、たちまちその場に、損得・増減・生滅など種々無量の境界が現れてくる。恐ろしいことだ。とはいえ、これもまたやむを得ないことでもある。豆が草であるときは豆の実を見ることができず、豆の実であるときは豆の草はない――そういう世界だから、万物の霊長である人間でも免れがたい。この免れがたいことを免れるのを悟りといい、免れないのを迷いという。私が戯れに詠んだ歌に「穀物が食糧となるのも、その味も香りも、草から生えて草になるまで(の営みによる)」「あらゆる草の根も葉も枝も花も実も、種から出て種になるまで(の巡りの中にある)」――この道理を見るただ一つのことだ。あはは。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』僖公元年 師に私無し元年春、即位を稱せざるは、公出づるが故なり。公出でて復た入るを書せざるは、之を諱むなり。國の惡を諱むは、禮なり。諸侯邢を救ふ。邢人潰え、出でて師に奔る。師遂に狄人を逐ひ、邢の器用を具へて之を遷す。師私無し。夏、邢夷儀に遷る。諸侯之に城くは、患ひを救ふなり。凡そ侯伯、患ひを救ひ、災ひを分かち、罪を討つは、禮なり。秋、楚人鄭を伐つ、鄭齊に即くが故なり。犖に盟ふ、鄭を救はんことを謀るなり。九月、公邾の師を偃に敗る。虛丘の戍の將に歸らんとする者なり。冬、莒人來たりて賂を求む。公子友諸を酈に敗り、莒子の弟拏を獲。卿に非ざるなり、獲たるを嘉するなり。公季友に汶陽の田、及び費を賜ふ。夫人氏の喪齊より至る。君子以へらく、齊人の哀姜を殺すや、已甚しと爲すと。女子は人に從ふ者なり。
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『墨子』兼愛下泰誓に曰く、「文王は日の若く月の若く乍ち照らし、四方に光り、西土に于てす」と。即ち此れ文王の天下を兼愛するの博大なるを言うなり。之を譬うるに日月の兼ねて天下を照らして私有ること無きがごとし。即ち此れ文王の兼なり。子墨子の謂う所の兼なる者と雖も、文王に於て法を取れり。
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「堯・舜は性のままなる者なり。湯・武は之に反るなり。動容周旋、禮に中る者は、盛德の至りなり。死を哭して哀しむは、生者の為に非ざるなり。經德回ならざるは、以て禄を干むるに非ざるなり。言語必ず信なるは、以て行いを正すに非ざるなり。君子は法を行いて、以て命を俟つのみ。」
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説苑・貴德楚王荘辛に問ひて曰く、「君子の行ひは奈何」と。荘辛対へて曰く、「居るに垣牆を為さざるも、人能く毀傷すること莫し。行くに周衛に従はざるも、人能く君を暴すること莫し。此れ君子の行ひなり」と。楚王復た君子の富は奈何と問ふ。対へて曰く、「君子の富は、人に貸すも徳とせず、責めざるなり。其の飲食を人に食はしむるも使はず、役せざるなり。親戚之を愛し、衆人之を喜び、不肖なる者すら之に事ふ。皆其の寿楽にして患に傷まざらんことを欲す。此れ君子の富なり」と。楚王善しと曰ふ。
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