呂氏春秋 / 去私①
天無私覆也,地無私載也,日月無私燭也,四時無私行也,行其德而萬物得遂長焉。
新字:天無私覆也,地無私載也,日月無私燭也,四時無私行也,行其徳而万物得遂長焉。
書き下し
天に私覆無く、地に私載無く、日月に私燭無く、四時に私行無し。其の徳を行いて萬物遂長することを得。
現代語訳
天は特定のものだけを覆うことをせず、地も特定のものだけを載せることをせず、日月もえこひいきして照らすことはなく、四季もひとつのもののために巡るのではありません。天地・日月・四時は、この私心のない徳を行うからこそ、あらゆるものが育ちきることができるのです。
解説
この一段は、呂氏春秋「去私」篇の冒頭で、天地自然を手本に「私心を去ること(公)」を説いています。天は万物を等しく覆い、地は等しく載せ、日月は分け隔てなく照らし、四季はえこひいきなく巡る——だからこそ万物は滞りなく育つのだ、というのです。裏を返せば、もし天地が特定のものだけを利すれば、世界の調和は崩れてしまいます。人の世も同じで、指導者が身内や好き嫌いで判断を曲げれば組織は歪みます。私情を差し挟まず、誰に対しても同じ基準で向き合うこと——それが人を伸ばし、場を長く保たせる「公」の力なのだと、自然の姿を通して教えています。
この章句が説くこと
公無私天地自然四時公平私心を去る
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