二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、世人の常情、明日食ふ可き物なき時は、他に借に行んとか、救ひを乞んとかする心はあれども、弥明日は食ふべき物なしと云時は、釜も膳椀も洗ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤の事なれども、此心は困窮其身を離れざるの根元なり、如何となれば、日々釜を洗ひ膳椀を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是心得違なり、たとへ明日食ふ可き物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋ぎたる、恩あれば也、是恩を思ふの道なり、此心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔あるにあらず、明日助らむ事のみを思ひて、今日までの恩を思ざると、明日助らむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二ッのみ、是大切の道理也、能々心得べし、仏家にては、此世は仮の宿、来世こそ大切なれと教ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽んずるは誤れり、今一草を以て之を譬ん、夫草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好き実を結ばんには、現世の草の時、芽立より出精して、露を吸ひ肥しを吸ひ根を延し葉を開き、風雨を凌ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断ち身を慎み道を蹈み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈ず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏なる事を得んや、夫地獄は悪事を為したる者の、死後に遣らるゝ処、極楽は善事を為したる者の行処なる事、鏡に掛けて明なれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべき也、先此身は如何にして生れ出しやと、跡を振返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉ぞ死を知らん、と云り、夫性は天の令命なり、身体は父母の賜なり、其元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先此理より窮めて、天徳に報ひ、父母の恩に報う行ひを立べし、性に率ひて道を蹈むは、人の勤なり、此勤を励む時は、来世は願はずして、安穏なる事疑ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以なり、釈氏の之を捨て、世外に立しは、衆生を済度せんが為なり、世を救はんには、世外に立ざれば、広く救ひ難きが故なり、譬ば己が坐して居る畳を揚んとする時は、己外に移らざれば、揚ぐ可らざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨るは迷へるなり、然れども僧侶は其法を伝へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我道の安心立命は爰にあり、惑ふべからず。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、世人の常情(じょうじょう)、明日食ふべき物なき時は、他に借(かり)に行かんとか、救ひを乞(こ)はんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食ふべき物なしと云ふ時は、釜(かま)も膳椀(ぜんわん)も洗ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤(もっと)もの事なれども、此の心は困窮其の身を離れざるの根元なり、如何(いか)となれば、日々釜を洗ひ膳椀を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是(これ)心得違(ちが)ひなり、たとへ明日食ふべき物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(つな)ぎたる、恩あればなり、是恩を思ふの道なり、此の心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔(へだて)あるにあらず、明日助からむ事のみを思ひて、今日までの恩を思はざると、明日助からむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二つのみ、是大切の道理なり、能々(よくよく)心得べし、仏家にては、此の世は仮(かり)の宿、来世こそ大切なれと教ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽んずるは誤(あやま)れり、今一草を以て之を譬(たと)へん、夫(それ)草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好(よ)き実を結ばんには、現世の草の時、芽立(めだち)より出精して、露を吸ひ肥(こやし)を吸ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(しの)ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂(しげ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其の如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(た)ち身を慎(つつし)み道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏(あんのん)なる事を得んや、夫地獄(じごく)は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽(ごくらく)は善事を為したる者の行く処なる事、鏡に掛けて明らかなれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべきなり、先(ま)づ此の身は如何にして生れ出でしやと、跡を振返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(いずく)んぞ死を知らん、と云へり、夫性(せい)は天の令命なり、身体は父母の賜(たまもの)なり、其の元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先づ此の理より窮(きわ)めて、天徳に報ひ、父母の恩に報ゆる行ひを立つべし、性に率(したが)ひて道を蹈むは、人の勤(つとめ)なり、此の勤を励む時は、来世は願はずして、安穏なる事疑ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以(ゆえん)なり、釈氏(しゃくし)の之を捨てて、世外に立ちしは、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんが為なり、世を救はんには、世外に立たざれば、広く救ひ難きが故なり、譬ば己が坐して居る畳を揚げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐべからざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷へるなり、然れども僧侶は其の法を伝へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命(あんじんりゅうめい)は爰(ここ)にあり、惑(まど)ふべからず。
現代語訳
翁が言われた。世間の人の常情として、明日食べるものがないときは、他人に借りに行こうとか救いを乞おうとかいう心はあるが、いよいよ明日は食べるものがないというときは、釜も膳も椀も洗う気になれない、という。人情としてまことにもっともで恐ろしいことだが、この心こそ困窮が身を離れない根本である。なぜなら、日々釜を洗い膳椀を洗うのは明日食べるためであって、昨日まで使った恩のために洗うのではない――これが心得違いだ。たとえ明日食べるものがなくとも、釜を洗い膳も椀も洗い上げて餓死すべきである。これは今日まで使い続けて命をつないできた恩があるからだ。これが恩を思う道である。この心のある者は天意にかなうから、長く富を離れることはない。富と貧とは、遠く隔たったものではない。明日助かることばかりを思って今日までの恩を思わないのと、明日助かることを思いつつ昨日までの恩も忘れないのと、この二つの違いだけである。これは大切な道理だ、よくよく心得よ。仏家では、この世は仮の宿、来世こそ大切だと教える。来世が大切なのはもちろんだが、今の世を仮の宿として軽んじるのは誤りだ。今、一本の草でこれを譬えよう。草にとって来世の実が大切なのはもちろんだが、来世よい実を結ぶには、現世の草のとき、芽生えから精を出し、露を吸い肥やしを吸い、根を延ばし葉を開き、風雨をしのぎ、昼夜精気を運んで根を太らせ、枝葉を茂らせ、よい花を開くよう丹精しなければ、来世よい実を結ぶことはできない。だから草の現世こそ大切なのだ。人も同じで、来世のよいことを願うなら、現世で邪念を断ち身を慎み道を踏み、善行に努めることにある。現世で人の道を踏まず悪行をなした者が、どうして来世安穏でいられようか。地獄は悪事をなした者が死後に送られる所、極楽は善事をなした者の行く所であることは、鏡に映すように明らかだから、来世の善悪は現世の行いにある。ゆえに現世を大切にして過去を思うべきだ。まずこの身はどうして生まれ出たのかと、来し方を振り返ってみることである。論語にも「生を知らなければどうして死を知ろう」とある。そもそも性は天の命令であり、身体は父母の賜物である。その根本は天地の命令と父母の丹精から出ている。まずこの理を窮めて、天の徳に報い、父母の恩に報いる行いを立てるべきだ。性に従って道を踏むのは人の務めである。この務めに励むときは、来世は願わずとも安穏であること疑いない。どうして現世を仮の宿と軽んじ、来世だけを大切にしようか。現在に主君があり、父母があり妻子がある。これが現世の大切なゆえんである。釈迦がこれを捨てて世の外に立ったのは、衆生を救済するためである。世を救うには世の外に立たなければ広く救いにくいからだ。譬えば自分が座っている畳を持ち上げようとするとき、自分がその外に移らなければ持ち上げられないようなものだ。それなのに世間で自分一身をよくするために主君や父母、妻子を捨てるのは迷いである。ただし僧侶はその教えを伝える者だから、世外の人であるゆえに別だ、混同してはならない。ここが君子と小人の分かれるところであり、私の道の安心立命はここにある。惑ってはならない。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、「咲(さけ)ばちり散(ち)れば又さき年毎(としごと)に詠(なが)め尽(つき)せぬ花の色々(いろいろ)」、困窮(こんきゅう)に陥(おちい)り、如何(いか)ともすべき様(よう)なくて、売出(うりだ)す物品を、安(やす)ひ物だと悦(よろこ)んで買(か)ひ、又不運(ふうん)極(きわま)り拠(よりどころ)なく、家を売て裏店(うらだな)へ引込(ひきこ)めば、表店(おもてだな)へ出て目出度(めでたし)と悦ぶ者、絶(たえ)ずある世の中なり、「増減(ぞうげん)は器(うつわ)傾(かたむ)く水と見よこちらに増(ま)せばあちらへるなり」、物価の騰貴(とうき)に、大利を得る者あれば、大損(たいそん)の者あり、損をして悲(かな)しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽(くらく)存亡(そんぼう)栄辱(えいじょく)得失(とくしつ)、こちらが増(ま)すとあちらの減(へ)るとの外になし、皆是(これ)自他を見る事能(あた)はざる半人足(はんにんそく)の、寄合(よりあ)ひ仕事なり、「喰(く)へばへり減(へ)れば又喰ひいそがしや永(なが)き保(たも)ちのあらぬ此身(このみ)ぞ」、屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵(くら)は石で築(きず)くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒(さむさ)が来るとて、着物を先に着(き)て置(お)くと云ふ事も出来ぬ人身(ひとみ)なり、されば長くは生(いき)られぬは天命なり、「腹(はら)くちく喰ふてつきひく女子(おなご)等は仏(ほとけ)にまさる悟(さとり)なりけり」、我(わが)腹に食(しょく)満(みつ)れば寝(ね)て居るは、犬猫(いぬねこ)を始(はじめ)心無き物の常情(じょうじょう)なり、然るに食事を済(すま)すと、直(ただち)に明日(あす)喰ふべき物を拵(こしら)へるは、未来の明日の大切なる事を能(よく)悟(さと)る故なり、此悟(このさとり)こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫(それ)にて事足るべし、是(これ)我(わが)教、悟道(ごどう)の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟(さとら)ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其(その)大元(おおもと)を尋(たずぬ)れば食(く)ふと着(き)るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事(せいじ)も教法(きょうほう)も、皆此二つの安全を計(はか)る為のみ、其他(そのた)は枝葉(しよう)のみ潤色(じゅんしょく)のみ
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二宮翁夜話・巻之二翁(おきな)曰(いわ)く、太閤(たいこう)の陣法に、敵を以て敵を防(ふせ)ぎ、敵を以て敵を打つの計(はかりごと)ありと、実に良策(りょうさく)なるべし、水防にも、水を以て水を防ぐの法あり、知らずばあるべからず、町田亘(わたり)曰く、近来富士川に雁がね堤と云を築(きず)けり、是其法なるべし、翁曰く、実ならば、能(よ)く水を治(おさ)むるの法を得たる者なり、夫(それ)我仕法又然り、荒地は、荒地の力を以て開き、借金は、借金の費(ついえ)を以て返済し、金を積(つ)むには、金に積ましむ、教も又然り、仏教にて、此世は僅(わずか)の仮の宿、来世こそ大事なれと教ふ、是又、欲を以て欲を制するなり、夫幽世(いうせい)の事は、眼に見えざれば、皆想像説なり、然といへ共、草を以て見る時は、粗(ほぼ)見ゆるなり、今茲(ここ)に一草あらん、此草に向ひて説法せんに、夫汝(なんじ)は現在、草と生れ露(つゆ)を吸ひ肥(こやし)を吸ひ、喜び居るといへ共、是は皆迷(まよ)ひと云物ぞ、夫此世は、春風に催(もよお)されて生出(いでたる)物にて、実に仮の宿ぞ、明朝にも、秋風立(たた)ば、花も散り葉も枯れ、風雨の艱難(かんなん)を凌(しの)ぎて生長せしも、皆無益(むえき)なり、此秋風を、無常の風と云、恐(おそ)るべし、早く、此世は仮の宿なる事を悟(さと)りて、一日も早く実(み)を結び種となりて、火にも焼(や)けざる蔵(くら)の中に入りて、安心せよ、此世にて肥を吸ひ露を吸ひ、葉を出し花を開くは皆迷なり、早く種となり、草の世を捨(す)てよ、其種となりて、ゆく処に、無量斯々(しし)の娯楽(ごらく)あり、と説くが如し、是欲の制し難(がた)きを知て、是を制するに欲を以てして勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の教とせしなり、然るを末世の法師等、此教を以て米金を集(あつ)むるの計策をなす、悲(かな)しからずや
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二宮翁夜話・巻之五翁曰く、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何(いかん)せん、縦令(たとい)出家遁世(とんせい)して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行(さいぎょう)の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(たが)ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々(よくよく)玩味(がんみ)すべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、世人運(うん)といふ事に心得違ひあり。譬(たと)へば柿梨子(かきなし)などを籠(かご)より打明(うちあ)くる時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり、此(これ)を運と思へり。運といふ物此の如き物ならば頼(たの)むにたらず。如何となれば、人事を尽(つく)してなるにあらずして、偶然(ぐうぜん)となるなれば、再(ふたた)び入れ直して明くる時はみな前と違(たが)ふべし。是博奕(ばくえき)の類にして運とは異なり。夫(それ)運といふは、運転(うんてん)の運にして所謂(いわゆる)廻り合せといふ物なり。夫(それ)運転は世界の運転に基元(きげん)して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり、幾回(いくたび)旋転(せんてん)するも、此定規に外(はず)れずして廻り合するを云ふなり。能(よく)世の中にある事也。灯燈(ちょうちん)の火の消えたるために、禍(わざわい)を免(まぬが)れ、又履(はき)物の緒(お)の切れたるが為に、災害を逸(のが)るゝ等の事、これ偶(ぐう)然にあらず真の運なり。仏に云ふ処の、因応の道理則(すなわ)ち是なり。儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃(おう)あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。夫(それ)仏に三世(さんぜ)の説あり。此理は三世を観通(かんつう)せざれば、決して疑(うたが)ひなき事あたはず。疑ひの甚(はなは)だしき、天を怨み人を恨むに至る。三世を観通すれば、此疑ひなし。雲霧(くもきり)晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる。故に仏教三世因縁を説く。是儒の及ばざる処なり。今爰(ここ)に一本の草あり、現在若(わか)草なり。其過去を悟れば種なり、其未来を悟れば花咲き実法(みの)りなり。茎(くき)高く延びたるは肥(こえ)多き因縁なり、茎(くき)の短(みじか)きは肥のなき応報なり。其理三世をみる時は明白なり。而(しか)て世人此因果応報の理を、仏説と云へり、是は書物上の論なり。是を我流儀の不書(ふしょ)の経に見る時は、釈氏(しゃくし)未(いま)だ此世に生れざる昔より行はれし、天地間の真理なり。不書の経とは、予が歌に「声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地は書かざる経を繰返(くりかへ)しつゝ」と云へる、四時行はれ、百物成る処の真理を云ふ。此経を見るには、肉眼を閉(と)ぢ、心眼を開きて見るべし。然(しか)らざれば見えず。肉眼に見えざるにはあらねども徹底(てってい)せざるを云ふなり。夫(それ)因報の理は、米を蒔けば米が生(は)へ、瓜の蔓(つる)に茄子(なす)のならざるの理なり。此理天地開闢(かいびゃく)より行はれて、今日に至りて違(たが)はず。皇国のみ然るにあらず、万国皆然り。されば天地の真理なる事、弁を待たずして明なり。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、親の子における、農の田畑に於(お)ける、我道(わがみち)に同じ。親の子を育(そだ)つる、無頼(ぶらい)となるといへども、養育料を如何(いかん)せん。農の田を作る、凶歳(きょうさい)なれば、肥代(こやしだい)も仕付料(しつけりょう)も皆損なり。夫(そ)れ此道を行はんと欲する者は此理を弁(わきま)ふべし。吾(われ)始めて、小田原より下野(しもつけ)の物井(ものい)の陣屋に至る。己(おのれ)が家を潰して、四千石の興復(こうふく)一途(いちず)に身を委(ゆだ)ねたり。是(これ)則(すなわ)ち此道理に基けるなり。夫れ釈氏(しゃくし)は、生者必滅(しょうじゃひつめつ)の理を悟り、此理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日の如き道を弘(ひろ)めたり。只此一理を悟るのみ。夫れ人、生れ出でたる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり。長生といへども、百年を越(こ)ゆるは稀なり。限りのしれたる事なり。夭(わかじに)と云ふも寿(ながいき)と云ふも、実は毛弗(もうふつ)の論なり。譬(たと)へば蝋燭(ろうそく)に大中小あるに同じ。大蝋(たいろう)といへども、火の付きたる以上は四時間か五時間なるべし。然れば人と生れ出でたるうへは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活(い)くれば則ち一日の儲(もうけ)、一年活くれば一年の益なり。故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり。予(わ)が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」。夫れ此世は、我人(われひと)ともに僅(わず)かの間の仮の世なれば、此身は、かりの身なる事明らかなり。元のあるじとは天を云ふ。このかりの身を我身と思はず、生涯一途に世のため人のためのみを思ひ、国のため天下の為に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免(まぬか)れ富有になり、土地開け道橋(みちはし)整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫れのみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我此身である、といふ心にてよめるなり。是我畢生(ひっせい)の覚悟なり。我道を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず。