二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、「咲ばちりちれば又さき年毎に詠め尽せぬ花の色々」、困窮に陥り、如何ともすべき様なくて、売出す物品を、安ひ物だと悦んで買ひ、又不運極り拠なく、家を売て裏店へ引込めば、表店へ出て目出度と悦ぶ者、絶ずある世の中なり、「増減は器傾く水と見よこちらに増せばあちらへるなり」、物価の騰貴に、大利を得る者あれば、大損の者あり、損をして悲しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽存亡栄辱得失、こちらが増すとあちらの減るとの外になし、皆是自他を見る事能はざる半人足の、寄合ひ仕事なり、「喰へばへり減れば又喰ひいそがしや永き保ちのあらぬ此身ぞ」、屋根は銅板で葺き、蔵は石で築くべけれ共、三度の飯を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒が来るとて、着物を先に着て置くと云事も出来ぬ人身なり、されば長くは生られぬは天命なり、「腹くちく喰ふてつきひく女子等は仏にまさる悟なりけり」、我腹に食満れば寝て居るは、犬猫を始心無き物の常情なり、然るに食事を済ますと、直に明日喰ふべき物を拵らへるは、未来の明日の大切なる事を能悟る故なり、此悟こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫にて事足るべし、是我教、悟道の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其大元を尋れば食ふと着るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事も教法も、皆此二つの安全を計る為のみ、其他は枝葉のみ潤色のみ
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、「咲(さけ)ばちり散(ち)れば又さき年毎(としごと)に詠(なが)め尽(つき)せぬ花の色々(いろいろ)」、困窮(こんきゅう)に陥(おちい)り、如何(いか)ともすべき様(よう)なくて、売出(うりだ)す物品を、安(やす)ひ物だと悦(よろこ)んで買(か)ひ、又不運(ふうん)極(きわま)り拠(よりどころ)なく、家を売て裏店(うらだな)へ引込(ひきこ)めば、表店(おもてだな)へ出て目出度(めでたし)と悦ぶ者、絶(たえ)ずある世の中なり、「増減(ぞうげん)は器(うつわ)傾(かたむ)く水と見よこちらに増(ま)せばあちらへるなり」、物価の騰貴(とうき)に、大利を得る者あれば、大損(たいそん)の者あり、損をして悲(かな)しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽(くらく)存亡(そんぼう)栄辱(えいじょく)得失(とくしつ)、こちらが増(ま)すとあちらの減(へ)るとの外になし、皆是(これ)自他を見る事能(あた)はざる半人足(はんにんそく)の、寄合(よりあ)ひ仕事なり、「喰(く)へばへり減(へ)れば又喰ひいそがしや永(なが)き保(たも)ちのあらぬ此身(このみ)ぞ」、屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵(くら)は石で築(きず)くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒(さむさ)が来るとて、着物を先に着(き)て置(お)くと云ふ事も出来ぬ人身(ひとみ)なり、されば長くは生(いき)られぬは天命なり、「腹(はら)くちく喰ふてつきひく女子(おなご)等は仏(ほとけ)にまさる悟(さとり)なりけり」、我(わが)腹に食(しょく)満(みつ)れば寝(ね)て居るは、犬猫(いぬねこ)を始(はじめ)心無き物の常情(じょうじょう)なり、然るに食事を済(すま)すと、直(ただち)に明日(あす)喰ふべき物を拵(こしら)へるは、未来の明日の大切なる事を能(よく)悟(さと)る故なり、此悟(このさとり)こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫(それ)にて事足るべし、是(これ)我(わが)教、悟道(ごどう)の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟(さとら)ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其(その)大元(おおもと)を尋(たずぬ)れば食(く)ふと着(き)るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事(せいじ)も教法(きょうほう)も、皆此二つの安全を計(はか)る為のみ、其他(そのた)は枝葉(しよう)のみ潤色(じゅんしょく)のみ
現代語訳
翁が言われた。「咲けば散り、散ればまた咲き、年ごとに眺め尽くせない花の色々よ」。困窮に陥ってどうしようもなくなり、売り出される品物を安い物だと喜んで買い、また不運が極まってやむなく家を売り裏長屋へ引っ込んだ者を、表店へ出てめでたいと喜ぶ者が、絶えずいる世の中である。「増減は器の傾く水と見よ、こちらが増せばあちらが減るのだ」。物価の高騰で大利を得る者があれば大損する者があり、損をして悲しむ者があれば利を得て喜ぶ者がある。苦楽・存亡・栄辱・得失は、こちらが増せばあちらが減るというほかにない。みな自分と他人の全体を見ることのできない半人前の寄り合い仕事である。「食えば減り、減ればまた食う、忙しいことだ、長くは保てないこの身よ」。屋根は銅板で葺き、蔵は石で築けるが、三度の飯を一度に食っておくことはできず、やがて寒さが来るからと着物を先に着ておくこともできない人の身だ。だから長くは生きられないのが天命である。「腹いっぱい食べて杵をつく女たちは、仏にまさる悟りなのだ」。自分の腹が満ちれば寝ているのは、犬猫をはじめ心のないものの常の情である。ところが食事を済ませるとすぐに明日食べる物を拵えるのは、未来の明日が大切であることをよく悟るからだ。この悟りこそ人の道に必要な悟りである。この道理をよく悟れば、人間はそれで事足りるはずだ。これが私の教えの、悟道の極意である。悟道者流の悟りは、悟っても悟らなくても、知っても知らなくても、ともに害もなく益もない。「我というその大元を尋ねれば、食うと着るとの二つであった」。人間世界の事は、政治も教えも、みなこの二つの安全をはかるためだけである。その他は枝葉であり飾りにすぎない。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、衣(ころも)は寒(かん)を凌(しの)ぎ、食は飢(うえ)を凌ぐのみにて足(た)れる物なり、其外(そのほか)は皆無用の事なり、官服(かんぷく)は貴賤(きせん)を分つ目印にて、男女の服(ふく)は只(ただ)粧(よそお)ひのみ、婦女子(ふじょし)の紅白粉(べにおしろい)と何ぞ異(こと)ならむ、紅白粉なくとも婦人あれば、結婚(けっこん)に支(つか)へなし、飢を凌ぐ為の食、寒を凌ぐ為の衣は、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、学者(がくしゃ)にても無学者にても、悟(さと)りても迷(まよ)ひても、離(はな)るる事は出来ぬ物なり、是(これ)を備(そな)ふる道こそ人道の大元(おおもと)、政道(せいどう)の本根(ほんこん)なり、予(よ)が歌に「飯と汁木綿着物(もめんぎもの)ぞ身を助く其余(そのよ)は我をせむるのみなり」と詠(よ)めり、是我道(わがみち)の悟門(ごもん)なり、能々(よくよく)徹底(てってい)すべし、予若年(じゃくねん)より食は飢を凌ぎ、衣は寒を凌ぎて足れりとせり、只此(この)覚悟(かくご)一にして今日に及べり、我道を修行し施行(せぎょう)せんと思ふ者は、先(ま)づ能(よ)く此理(このり)を悟るべきなり
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、人生尊(たっと)ぶべき物は、天禄(てんろく)を第一とす、故に武士は天禄の為に、一命を抛(なげう)つなり、天下の政事(まつりごと)も神儒仏(しんじゅぶつ)の教も、其実(そのじつ)衣食住の三つの事のみ、黎民(れいみん)飢(う)ゑず寒(こご)えざるを王道(おうどう)とす、故に人たる者は、慎(つつし)んで天禄を守らずばあるべからず、固く天禄を守る時は、困窮艱難(こんきゅうかんなん)の患(うれ)ひなし、仮初(かりそめ)にも、我が天禄を賤(いや)しむの心出る時は、困窮艱難忽(たちま)ちに至る、夫(それ)天禄の尊き事は云ふ迄もなし、日々の衣食住其他、履(は)き物笠(からかさ)傘(かさ)よりして鼻をかむ紙迄も、皆天禄分内(ぶんない)の物なり、嫁(よめ)は他家より来る者といへ共、云ひもてゆけば、天禄の中より来ると云はんも違(たが)へるにあらず、然(しか)るに我此(この)方法は、天禄なき者に天禄を授け、天禄の破(やぶ)れんとするを補(おぎな)ひ、天禄の衰(おとろ)へたるを盛(さか)んに為し、且(か)つ天禄を分外に増殖し、天禄を永遠に維持(いじ)するの教なれば、尊き事論を俟(ま)たず、古語に、血気ある者、尊信(そんしん)せざる事なし、といへるは、我道(わがみち)の事なり
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、世人の常情(じょうじょう)、明日食ふべき物なき時は、他に借(かり)に行かんとか、救ひを乞(こ)はんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食ふべき物なしと云ふ時は、釜(かま)も膳椀(ぜんわん)も洗ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤(もっと)もの事なれども、此の心は困窮其の身を離れざるの根元なり、如何(いか)となれば、日々釜を洗ひ膳椀を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是(これ)心得違(ちが)ひなり、たとへ明日食ふべき物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(つな)ぎたる、恩あればなり、是恩を思ふの道なり、此の心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔(へだて)あるにあらず、明日助からむ事のみを思ひて、今日までの恩を思はざると、明日助からむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二つのみ、是大切の道理なり、能々(よくよく)心得べし、仏家にては、此の世は仮(かり)の宿、来世こそ大切なれと教ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽んずるは誤(あやま)れり、今一草を以て之を譬(たと)へん、夫(それ)草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好(よ)き実を結ばんには、現世の草の時、芽立(めだち)より出精して、露を吸ひ肥(こやし)を吸ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(しの)ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂(しげ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其の如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(た)ち身を慎(つつし)み道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏(あんのん)なる事を得んや、夫地獄(じごく)は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽(ごくらく)は善事を為したる者の行く処なる事、鏡に掛けて明らかなれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべきなり、先(ま)づ此の身は如何にして生れ出でしやと、跡を振返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(いずく)んぞ死を知らん、と云へり、夫性(せい)は天の令命なり、身体は父母の賜(たまもの)なり、其の元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先づ此の理より窮(きわ)めて、天徳に報ひ、父母の恩に報ゆる行ひを立つべし、性に率(したが)ひて道を蹈むは、人の勤(つとめ)なり、此の勤を励む時は、来世は願はずして、安穏なる事疑ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以(ゆえん)なり、釈氏(しゃくし)の之を捨てて、世外に立ちしは、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんが為なり、世を救はんには、世外に立たざれば、広く救ひ難きが故なり、譬ば己が坐して居る畳を揚げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐべからざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷へるなり、然れども僧侶は其の法を伝へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命(あんじんりゅうめい)は爰(ここ)にあり、惑(まど)ふべからず。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、仏に悟道(ごどう)の論あり、面白しといへ共、人道をば害する事あり、則(すなわ)ち生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)の類(るい)なり、其(そ)の本源を顕(あらわ)して云ふが故なり。悟道は譬(たと)へば、草の根は此(か)くの如き物ぞと、一々顕(あら)はして、人に見(み)するが如し。理は然(しか)りといへども、之(これ)を実地に行ふ時は皆枯るゝなり。儒道(じゅどう)は草の根の事は言(い)はず、草の根は見ずして可なる物と定め、根あるが為に生育する物なれば、根こそ大切なれ、培養(ばいよう)こそ大切なれと教るが如し。夫(そ)れ松の木の青々と見ゆるも、桜(さくら)の花の美(うるわ)しく匂ふも、土中に根あるが故なり。蓮花(れんげ)の馥郁(ふくいく)たるも、花菖蒲(はなしょうぶ)の美麗なるも、泥中に根をさし居(お)ればなり。質屋の蔵の立派なるは、質を置く貧人の多きなり、大名の城の広大なるは、領分に人民多きなり。松の根を伐(き)れば、直(ただ)ちに緑(みどり)の先が弱(よわ)り、二三日立(た)てば、枝葉皆凋(しぼ)む。民窮すれば君も窮し、民富めば君も富む、明々了々、毫末(ごうまつ)も疑ひなき道理なり。
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二宮翁夜話・巻之二或(あるひと)道を論じて条理無し、翁曰(いわ)く、卿(きみ)が説は悟道(ごどう)と人道と混ず、悟道を以て論ずるか、人道を以て論ずるか、悟道は人道に混ずべからず、如何(いかん)となれば、人道の是(ぜ)とする処は、悟道に所謂(いわゆる)三界城なり、悟道を主張すれば、人道蔑如(べつじょ)たり、其の相隔(へだ)つるや、天地と雲泥とのごとし、故に先づ其の居所(いどころ)を定めて、然して後に論ずべし、居所定まらざれば、目のなき秤(はかり)を以て軽重を量るがごとく、終日弁論するといへども、其の当否を知るべからず、夫(そ)れ悟道とは、譬(たと)へば当年は違作ならんと、未(いま)だ耕(たがや)さざるの前に観ずるが如きを云ふ、是を人道に用ひて違作なるべき間(あいだ)、耕作を休まんと云ふは、人道にあらず、田畑は開拓するとも又荒るるは自然の道なりと見るは、悟道なり、而(しか)して荒るればとて開拓せざるは、人道にあらず、川附の田地洪水あれば流失すると云ふ事を平日に見るは、悟道なり、然して耕さず肥(こや)しせざるは、人道にあらず、夫れ悟道は只自然の行く処を見るのみにして、人道は行き当る所まで行くべし、古語に、父母に事(つか)ふる幾(ようや)く諌(いさ)む、志の随はざるを見て、敬して違(たが)はず、労して恨みず、とあり、是れ人道の至極を尽せり、発句(ほっく)にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」と云へり、是れ又其の心なり、故に予常に曰く、親の看病をして、最早覚束(おぼつか)なしなどと見るものは、親子の至情を尽すことあたはじ、魂去り体冷えて後も、未だ全快あらんかと思ふ者にあらざれば、尽すと云ふべからず、故に悟道と人道とは混合すべからず、悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり、夫れ人倫の道とする処は、仏に所謂三界城裏の事なり、十方空を唱ふる時は、人道は滅すべし、知識を尊み娼妓を賎(いや)しむは迷ひなり、左はいへども、此くの如く迷はざれば人倫行はれず、迷ふが故に人倫は立つなり、故に悟道は人倫に益なし、然といへども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能(あた)はず、是れ悟道の妙なり、人倫は譬へば繩(なわ)を索(な)ふが如し、よりのかかるを以てよしとす、悟道は縷(より)を戻すが如し、故によりを戻すを以て善とす、人倫は家を造るなり、故に丸木を削りて角とし、曲れるを揉(た)めて直とし、長を伐りて短とし、短を継ぎて長くし、穴を穿(うが)ち溝(みぞ)を掘り、然して家作を為す、是れ則ち迷故三界城内の仕事也、然るを本来なき家なりと破るは悟道なり、破りて捨つる故に十方空に帰するなり、然りといへども、迷と云ひ悟と云ふは、未だ徹底せざる物なり、其の本源を極(きわ)むれば迷悟ともになし、迷といへば悟と言はざる事を得ず、悟といへば迷と言はざる事を得ず、本来迷悟にて一円なり、譬へば草木の如き、一種よりして、或は根を生じて土中の潤沢をすひ、或は枝葉を発して大虚の空気を吸ひ、花を開き実を結ぶ、是を種より見ば迷と云ふべし、然といへ共、忽(たちま)ち秋風に逢へば枯れ果てて本来の種に帰す、種に帰するといへども、又春陽に逢へば忽ち枝葉花実を発生す、然らば則ち、種となりたるが迷か草となりたるが迷か、草に成りたるが本体か種になりたるが本体か、是に因りて是を観るに、生ずるも生ずるにあらず枯るるも枯るるに非ず、されば、無常も無常にあらず有常も有常にあらず、皆旋転(せんてん)不止の世界に住する物なればなり、予が歌に「咲けばちり散れば又咲く年毎に詠(なが)め尽せぬ花のいろいろ」、一笑すべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、世の中、とかく増減(ぞうげん)の事に付(つ)き、さわがしき事多かれど、世上(せじょう)に云ふ増減と云ふ物は、譬(たと)へば水を入(いれ)たる器(うつわ)の、彼方(かなた)此方(こなた)に傾(かたむ)くが如し、彼方増せば此方(こなた)へり、此方増せば彼方(かなた)減るのみ、水に於(おい)ては増減ある事なし、彼方にて田地(でんち)を買て悦(よろこ)べば、此方に田地を売て歎(なげ)く者あり、只(ただ)、彼方此方の違(たが)ひあるのみ、本来増減なし、予(よ)が歌に「増減は器傾(かたむ)く水と見よ」と云へる通り也(なり)、夫(それ)我道(わがみち)の尊(たっと)む増殖(ぞうしょく)の道は夫(それ)と異(こと)なり、直(ただち)に天地の化育(かいく)を賛成(さんせい)するの大道にして、米五合(ごごう)にても、麦一升(いっしょう)にても、芋(いも)一株(ひとかぶ)にても、天(あま)つ神の積置(つみおか)せらるる無尽蔵(むじんぞう)より、鍬(くわ)鎌(かま)の鍵(かぎ)を以て此世上(このせじょう)に取出(とりいだ)す大道なり、是を真の増殖の道と云ふ、尊むべし務(つと)むべし、「天(あま)つ日の恵(めぐみ)積置(つみおく)無尽蔵鍬(くわ)でほり出せ鎌(かま)でかりとれ」