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二宮翁夜話 / 巻之二

或道を論じて条理無し、翁曰、卿が説は悟道と人道と混ず、悟道を以て論ずるか、人道を以て論ずるか、悟道は人道に混ずべからず、如何となれば、人道の是とする処は、悟道に所謂三界城なり、悟道を主張すれば、人道蔑如たり、其相隔るや、天地と雲泥とのごとし、故に先其居所を定めて、然して後に論ずべし、居所定らざれば、目のなき秤を以て軽重を量るがごとく、終日弁論するといへども、其当否を知るべからず、夫悟道とは、譬ば当年は違作ならんと、未耕さゞるの前に観ずるが如きを云、是を人道に用ひて違作なるべき間、耕作を休んと云は、人道にあらず、田畑は開拓するとも又荒るゝは自然の道なりと見るは、悟道なり、而て荒るればとて開拓せざるは、人道にあらず、川附の田地洪水あれば流失すると云事を平日に見るは、悟道なり、然して耕さず肥しせざるは、人道にあらず、夫悟道は只自然の行処を見るのみにして、人道は行当る所まで行くべし、古語に、父母に事る幾く諌む、志の随はざるをみて、敬して違ず、労して恨ず、とあり、是人道の至極を尽せり、発句にも「いざゝらば雪見にころぶ所まで」と云り、是又其心なり、故に予常に曰、親の看病をして、最早覚束なしなどゝ見るものは、親子の至情を尽すことあたはじ、魂去り体冷て後も、未全快あらんかと思ふ者にあらざれば、尽すと云べからず、故に悟道と人道とは混合すべからず、悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり、夫人倫の道とする処は、仏に所謂三界城裏の事なり、十方空を唱る時は、人道は滅すべし、知識を尊み娼妓を賎しむは迷なり、左はいへども、如此迷はざれば人倫行はれず、迷ふが故に人倫は立なり、故に悟道は人倫に益なし、然といへども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能はず、是悟道の妙なり、人倫は譬ば繩を索ふが如し、よりのかゝるを以てよしとす、悟道は縷を戻すが如し、故によりを戻すを以て善とす、人倫は家を造るなり、故に丸木を削りて角とし、曲れるを揉て直とし、長を伐りて短とし、短を継て長くし、穴を穿ち溝を掘り、然して家作を為す、是則迷故三界城内の仕事也、然るを本来なき家なりと破るは悟道なり、破て捨る故に十方空に帰するなり、然りといへども、迷と云悟と云は、未徹底せざる物なり、其本源を極れば迷悟ともになし、迷といへば悟と言ざる事を得ず、悟といへば迷と言ざる事を得ず、本来迷悟にて一円なり、譬ば草木の如き、一種よりして、或は根を生じて土中の潤沢をすひ、或枝葉を発して大虚の空気を吸ひ、花を開き実を結ぶ、是を種より見ば迷と云べし、然といへ共、忽秋風に逢へば枯果て本来の種に帰す、種に帰するといへども、又春陽に逢へば忽枝葉花実を発生す、然らば則、種となりたるが迷か草となりたるが迷か、草に成りたるが本体か種になりたるが本体か、是に因て是を観るに、生ずるも生ずるにあらず枯るゝも枯るるに非ず、されば、無常も無常にあらず有常も有常にあらず、皆旋転不止の世界に住する物なればなり、予が歌に「咲けばちりちれば又さく年毎に詠め尽せぬ花のいろいろ」、一笑すべし。

書き下し

或(あるひと)道を論じて条理無し、翁曰(いわ)く、卿(きみ)が説は悟道(ごどう)と人道と混ず、悟道を以て論ずるか、人道を以て論ずるか、悟道は人道に混ずべからず、如何(いかん)となれば、人道の是(ぜ)とする処は、悟道に所謂(いわゆる)三界城なり、悟道を主張すれば、人道蔑如(べつじょ)たり、其の相隔(へだ)つるや、天地と雲泥とのごとし、故に先づ其の居所(いどころ)を定めて、然して後に論ずべし、居所定まらざれば、目のなき秤(はかり)を以て軽重を量るがごとく、終日弁論するといへども、其の当否を知るべからず、夫(そ)れ悟道とは、譬(たと)へば当年は違作ならんと、未(いま)だ耕(たがや)さざるの前に観ずるが如きを云ふ、是を人道に用ひて違作なるべき間(あいだ)、耕作を休まんと云ふは、人道にあらず、田畑は開拓するとも又荒るるは自然の道なりと見るは、悟道なり、而(しか)して荒るればとて開拓せざるは、人道にあらず、川附の田地洪水あれば流失すると云ふ事を平日に見るは、悟道なり、然して耕さず肥(こや)しせざるは、人道にあらず、夫れ悟道は只自然の行く処を見るのみにして、人道は行き当る所まで行くべし、古語に、父母に事(つか)ふる幾(ようや)く諌(いさ)む、志の随はざるを見て、敬して違(たが)はず、労して恨みず、とあり、是れ人道の至極を尽せり、発句(ほっく)にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」と云へり、是れ又其の心なり、故に予常に曰く、親の看病をして、最早覚束(おぼつか)なしなどと見るものは、親子の至情を尽すことあたはじ、魂去り体冷えて後も、未だ全快あらんかと思ふ者にあらざれば、尽すと云ふべからず、故に悟道と人道とは混合すべからず、悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり、夫れ人倫の道とする処は、仏に所謂三界城裏の事なり、十方空を唱ふる時は、人道は滅すべし、知識を尊み娼妓を賎(いや)しむは迷ひなり、左はいへども、此くの如く迷はざれば人倫行はれず、迷ふが故に人倫は立つなり、故に悟道は人倫に益なし、然といへども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能(あた)はず、是れ悟道の妙なり、人倫は譬へば繩(なわ)を索(な)ふが如し、よりのかかるを以てよしとす、悟道は縷(より)を戻すが如し、故によりを戻すを以て善とす、人倫は家を造るなり、故に丸木を削りて角とし、曲れるを揉(た)めて直とし、長を伐りて短とし、短を継ぎて長くし、穴を穿(うが)ち溝(みぞ)を掘り、然して家作を為す、是れ則ち迷故三界城内の仕事也、然るを本来なき家なりと破るは悟道なり、破りて捨つる故に十方空に帰するなり、然りといへども、迷と云ひ悟と云ふは、未だ徹底せざる物なり、其の本源を極(きわ)むれば迷悟ともになし、迷といへば悟と言はざる事を得ず、悟といへば迷と言はざる事を得ず、本来迷悟にて一円なり、譬へば草木の如き、一種よりして、或は根を生じて土中の潤沢をすひ、或は枝葉を発して大虚の空気を吸ひ、花を開き実を結ぶ、是を種より見ば迷と云ふべし、然といへ共、忽(たちま)ち秋風に逢へば枯れ果てて本来の種に帰す、種に帰するといへども、又春陽に逢へば忽ち枝葉花実を発生す、然らば則ち、種となりたるが迷か草となりたるが迷か、草に成りたるが本体か種になりたるが本体か、是に因りて是を観るに、生ずるも生ずるにあらず枯るるも枯るるに非ず、されば、無常も無常にあらず有常も有常にあらず、皆旋転(せんてん)不止の世界に住する物なればなり、予が歌に「咲けばちり散れば又咲く年毎に詠(なが)め尽せぬ花のいろいろ」、一笑すべし。

現代語訳

ある人が道を論じたが筋が通らなかった。翁が言われた。あなたの説は悟りの道(悟道)と人の道(人道)とを混同している。悟道で論じているのか、人道で論じているのか。悟道と人道は混同してはならない。なぜなら、人道が是とするところは、悟道でいう三界城(迷いの世界)だからだ。悟道を主張すれば人道は無価値なものになる。その隔たりは天と地、雲と泥ほどの違いだ。だからまず立ち位置を定めてから論じるべきである。立ち位置が定まらなければ、目盛りのない秤で軽重を量るようなもので、一日中議論しても是非は分からない。そもそも悟道とは、たとえば今年は不作になろうと、まだ耕さぬ前に見通すようなことをいう。これを人道に持ち込んで、不作になるだろうから耕作をやめようというのは人道ではない。田畑は開拓してもまた荒れるのが自然の道だと見るのは悟道である。しかし荒れるからといって開拓しないのは人道ではない。川沿いの田地は洪水があれば流されると平生から見通すのは悟道である。しかしそれゆえに耕さず肥もやらぬのは人道ではない。悟道はただ自然のなりゆきを見るだけであり、人道は行き着くところまで力を尽くすべきものだ。古語に「父母に仕えてはそれとなく諫め、その志が従わないのを見ても、敬って背かず、苦労しても恨まない」とある。これは人道を極め尽くした言葉だ。俳句にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」とある。これもまたその心である。だから私はつねに言う。親の看病をして、もう危ないなどと見る者は、親子の情を尽くすことはできない。魂が去り体が冷えた後も、まだ全快するのではないかと思うほどの者でなければ、尽くしたとはいえない。だから悟道と人道を混同してはならない。悟道はただ自然のなりゆきを観るもので、そのうえで努め励むところは人道にある。人倫の道とするところは、仏でいう三界城の内側のことだ。十方空(すべては空)を唱えれば、人道は滅びてしまう。知識を尊び遊女を賤しむのは迷いである。とはいえ、このように迷わなければ人倫は行われない。迷うからこそ人倫が立つのだ。だから悟道は人倫の役には立たない。しかし悟道でなければ執着から脱することはできない。ここに悟道の妙がある。人倫はたとえば縄をなうようなもので、縒りがかかることをよしとする。悟道は縒りを戻すようなもので、縒りを戻すことをよしとする。人倫は家を建てることだ。だから丸木を削って角材とし、曲がったものを矯めてまっすぐにし、長いものを切って短くし、短いものを継いで長くし、穴をうがち溝を掘って、こうして家を建てる。これがすなわち迷いゆえの三界城内の仕事である。それを、本来ない家なのだと壊すのが悟道だ。壊して捨てるから十方空に帰する。とはいえ、迷いといい悟りといっても、まだ徹底したものではない。その本源を究めれば迷いも悟りもない。迷いといえば悟りと言わずにはいられず、悟りといえば迷いと言わずにはいられない。もともと迷いと悟りは一つの円をなしている。たとえば草木のように、一粒の種から、あるいは根を生じて土中の潤いを吸い、あるいは枝葉を出して大空の空気を吸い、花を開き実を結ぶ。これを種から見れば迷いというべきだ。しかしたちまち秋風に逢えば枯れ果てて本来の種に帰る。種に帰るといっても、また春の陽に逢えばたちまち枝葉や花実を生じる。ならば、種となったのが迷いか草となったのが迷いか、草になったのが本体か種になったのが本体か。これによって見れば、生じるも生じるのではなく、枯れるも枯れるのではない。だから無常も無常ではなく有常も有常ではない。みな回り続けてやまない世界に住むものだからだ。私は歌に「咲けば散り、散ればまた咲く。年ごとに眺め尽くせない花の色々よ」と詠んだ。まあ一笑してほしい。

解説

「悟道」と「人道」を峻別せよと説く、尊徳の実践思想の核心を示す長い一条です。悟道は自然のなりゆきをありのままに見通す観照であり、人道は行き着くところまで力を尽くす実践です。不作を見通すのは悟道だが、それを口実に耕作をやめるのは人道ではない――この対比が繰り返され、両者を混同する議論の空しさを鋭く突きます。親の看病では魂が去った後もなお回復を願うほど尽くしてこそ人道だ、という一節に、至誠を尽くす報徳思想の真骨頂が表れています。荒れると分かっていてもなお開拓し耕し続ける勤労の精神こそが人の道なのです。同時に、執着を脱するには悟道も要ると認める柔軟さも見逃せません。結果を冷静に見通しつつ、なお最後まで手を尽くす――この二重の構えは、努力と諦めの狭間で揺れる現代人にも深い示唆を与えてくれます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳悟道と人道至誠勤労実践

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