二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、世界元吉凶禍福苦楽生滅なし、予が示せる一円図の如し。而して是あるは、其半に己と云者を置て隔つる故なり。人は云ふ、万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず、眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出ると云が如し、其の出京は区々あるなり。艸木の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常といへども、農家にては秋実を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常なり。されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、世界元(もと)吉凶禍福(きっきょうかふく)苦楽生滅(くらくしょうめつ)なし、予(われ)が示せる一円図(いちえんず)の如し。而(しか)して是(これ)あるは、其(そ)の半(なかば)に己(おのれ)と云ふ者を置きて隔つる故なり。人は云ふ、万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず、眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出づと云ふが如し、其の出京(しゅっきょう)は区々(まちまち)なるなり。艸木(そうもく)の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常(むじょう)といへども、農家にては秋実(じつ)を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常(うじょう)なり。されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。世界にはもともと、吉凶も禍福も苦楽も生滅もない。私が示した一円図のとおりである。それなのにこれらがあるように見えるのは、その円の半ばに「自分」というものを置いて仕切ってしまうからだ。人は「万物は土から生じて土に帰る」と言うが、これはまだ言い尽くしておらず、目先だけの議論だ。これは江戸の人が「旅人は品川から出てくる」と言うようなもので、その旅人が江戸を出た先はさまざまなのである。草木が春に生い育ち秋に枯れるのを見て、秋を無常だと言うが、農家では秋に実りを得て喜ぶ。草の側から見れば確かに無常だが、種の側から見れば常がある。だから無常も無常ではなく、有常も有常ではない、と言うべきである。
解説
尊徳の思想を象徴する「一円図」を手がかりに、物事の見方を説いた深い一条です。世界にはもともと吉凶も禍福もなく、それがあるように見えるのは「自分」という仕切りを置いて半分だけを見るからだ、と説きます。草が秋に枯れるのを無常と嘆く者も、種の側から見れば実りであり命の継承なのです。ここには、一面だけにとらわれず全体を円として捉える尊徳の円満な世界観が表れています。禍福や苦楽は見る位置によって姿を変えるのであり、狭い自我を離れれば対立は消えていく。現代の私たちにも、物事を一方向から決めつけず、視点を変えて全体を見ることで、目の前の苦や損失の中に別の意味を見いだす知恵の大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳一円観無常と有常視点を変える推譲
関連する章句
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、夫(それ)此(この)世界咲花(さくはな)は必ず散(ち)る、散るといへども、又来る春は必ず花さく、春生ずる草は必ず秋風に枯(か)る、枯るといへども、又春風に逢(あ)へば必ず生ず、万物皆然(しか)り、然れば無常(むじょう)と云ふも無常に非(あら)ず、有常(うじょう)と云ふも有常に非ず、種(たね)と見る間に草と変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に実(み)となり、実と見る間に、元の種となる、然れば種と成りたるが本来か、草と成りたるが本来か、是(これ)を仏に不止不転(ふしふてん)の理(り)と云ひ、儒に循環(じゅんかん)の理と云ふ、万物皆この道理に外(はず)るる事はあらず
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、凡(およ)そ世の中は陰(いん)々と重(かさな)りても立ず、陽(よう)々と重るも又同じ、陰陽々々と並(なら)び行(おこなわ)るゝを定則とす、譬(たと)へば寒暑昼夜水火男女あるが如し、人の歩行も、右一歩左一歩、尺蠖(しゃくとり)虫も、屈(かが)みては伸(の)び屈ては伸び、蛇(へび)も、左へ曲(まが)り右に曲りて、此の如くに行(おこな)ふなり、畳(たたみ)の表(おもて)や莚(むしろ)の如きも、下へ入ては上に出、上に出ては下に入り、麻布(あさぬの)の麁(あら)きも羽二重(はぶたえ)の細(こまか)なるも皆同じ、天理なるが故なり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、仏は諸行無常(しょぎょうむじょう)と云ふなり。世上(せじょう)に諸(もろもろ)の行はるゝ物は、皆常に無き物なり。然(しか)るを有ると見るは迷(まよい)なり、汝等(なんじら)が命、汝等が体(からだ)皆然り。長短遅速は有りといへども、皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。本来は長短もなし、遅速もなし、遠近もなし、生死もなし、蜉蝣(かげろう)の一時を短しと見、鶴亀(つるかめ)の千年を長しと思ふが如き是皆迷なり。然といへども、此理(このことわり)は見え難し、凡人に之を見(しめ)するは遠近のみ、是は我が悟道(ごどう)の入門なり。「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々(おのおの)が住処(すみか)にぞよる」見渡せば生死生滅無かりけり、見渡せば善きも悪しきもなかりけり、見渡せば憎いかはゆい無かりけり。この歌を感ずる時は其の道理知らるべきなり。夫(そ)れ生と云ふも死と云ふも共に無常にして、頼みにならぬ事は明白なり。氷と水とを見よ、何をか生と云ひ、何をか死と云ふ。水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。今朝寒しといへども、一朝(いっちょう)暖気なれば速(すみやか)に消ゆ、之を如何(いかん)せん、水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何をか生と云はん、何をか死と云はん。諸行無常なる事知らるべし。然して又無常も無常にあらず、有常も有常にあらず、惜しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼も我れも皆迷なり。此の如く迷ふが故に三界城(さんがいじょう)と云ふ堅固な物が出来て人を恨み、人を妬み、人をそねみ、人に憤り、種々の悪果(あっか)を結ぶなり。之を諸行無常と悟る時は、十方空(じっぽうくう)となつて恨むも、妬むも、悪(にく)むも、憤るも馬鹿馬鹿しくなるなり。是の所に至れば自然怨念死霊(おんねんしりょう)も退散す、之を悟りと云ふ、悟るを成仏と云ふなり、玩味(がんみ)して悟門(ごもん)に入るべきなり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、善悪の論甚(はなは)だむづかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善と云(い)ひて分(わか)つ故に、悪と云(い)ふ物出来(でき)るなり、元(もと)人身(じんしん)の私(わたくし)より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也、故に人は荒蕪(あれち)を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、猪(い)鹿(しか)の方にては、開拓を悪とし荒すを善とするなるべし、世法(せほう)盗(ぬすびと)を悪とすれども、盗中間(なかま)にては、盗を善とし是(これ)を制する者を悪とするならん、然(しか)れば、如何(いか)なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ、此理(このり)明弁し難し、此理の尤(もっと)も見安きは遠近なり、遠近と云ふも善悪と云ふも理は同じ、譬(たと)へば杭(くい)二本を作り、一本には遠(とおし)と記し一本には近(ちかし)と記し、此二本を渡して、此杭を汝(なんじ)が身より遠き所と近き所と、二所に立(た)つべしと云付(いいつ)くる時は、速(すみや)かに分る也、予(よ)が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処(すみど)にぞある」と、此歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也、工事に曲直を望むも、余り目に近過ぐる時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり、古語に、遠山(とおきやま)木なし、遠海(とおきうみ)波なし、といへるが如し、故に我身に疎(うと)き遠近に移して諭す也、夫(そ)れ遠近は己(おの)が居処(いどころ)先(ま)づ定りて後に遠近ある也、居処定らざれば遠近必(かなら)ずなし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆是(これ)に同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半(なか)ばを善とすれば、其半は必悪也、然るに其半に悪なからむ事を願ふ、是成(な)り難き事を願ふなり、夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随(したが)ひて離れず、咲(さ)きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必枯るゝにおなじ、涅槃経(ねはんぎょう)に此譬(たとえ)あり、或人の家に容貌(かおかたち)美麗(うるわし)く端正なる婦人入り来(きた)る、主人如何なる御人ぞと問(と)ふ、婦人答て曰(いわ)く、我は功徳天(くどくてん)なり、我至る所、吉祥(きっしょう)福徳無量なり、主人悦んで請(しょう)じ入る、婦人曰く、我に随従の婦一人あり、必跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾(だく)す、時に一女来る、容貌醜陋(しゅうろう)にして至て見悪(にく)し、如何なる人ぞと問ふ、此女答て曰く、我は黒闇天(こくあんてん)なり、我至る処、不詳(ふしょう)災害ある無限なりと、主人是を聞(き)き大に怒(いか)り、速(すみや)かに帰り去れといへば、此女曰く、前に来れる功徳天は我(わが)姉なり、暫(しばら)くも離(はな)るる事あたはず、姉を止(とど)めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出(いだ)せと云ふ、主人暫く考へて、二人ともに出しやりければ、二人連れ立(だ)ちて出(いで)行きけり、と云事ありと聞けり、是(これ)生者必滅会者定離(しょうじゃひつめつえしゃじょうり)の譬(たとえ)なり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元禍(わざわい)と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云ふと遠くてよかりしと云ふ也、是を以てしるべし。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、世界万般皆同じく一理なり、予一草を以て万理を究(きわ)む、儒書に、其の書始めは一理を言ひ、中は散じて万事となり、末(すえ)復(また)合して一理となる、之を放(はな)てば則(すなわ)ち六合(りくごう)に弥(わた)り、之を巻けば退(しりぞ)きて密に蔵(かく)る、其の味ひ窮(きわ)まりなし、とあり、今戯(たわむ)れに、一草を以て之を読まん、曰く、此の草始めは一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法(みの)れば合して一種となる、之を蒔植(うう)れば六合に弥り、之を蔵(おさ)むれば密に蔵る、之を食すれば其の味ひ窮まりなし、又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、とあり、又一草を以て之を読まん、曰く、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植うるが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々(かか)。