二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、仏説は誠に妙なり。日輪朝東方に出る時の功徳を薬師と名付け、中天に照す時の功徳を大日といひ、夕陽の功徳を阿弥陀と云へり。然れば薬師、大日、阿弥陀と云へど、其実かゝる仏あるにはあらず、皆太陽の功徳を表せしなり。又大地の功徳を地蔵と云ひ、空中の功徳を虚空蔵と云ひ、世の音づれを観ずる功徳を観世音と云へり。或問ふ、大地の功徳大なり、虚空の功徳も大なるべし、世音を観ずる功徳とは如何。翁曰、商法などの類総て世の音信を能く考へて利益を求むるを観世音の力を念ずると云へるなり。観は目にて見る字にはあらず、心眼に見るを云ふ字なり、能々思ふべし、能々思ふべし。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、仏説は誠に妙なり。日輪(にちりん)朝(あした)東方に出づる時の功徳(くどく)を薬師(やくし)と名付け、中天(ちゅうてん)に照す時の功徳を大日(だいにち)といひ、夕陽(せきよう)の功徳を阿弥陀(あみだ)と云へり。然れば薬師、大日、阿弥陀と云へど、其実(そのじつ)かゝる仏あるにはあらず、皆太陽の功徳を表せしなり。又大地の功徳を地蔵と云ひ、空中の功徳を虚空蔵(こくうぞう)と云ひ、世の音(おと)づれを観ずる功徳を観世音(かんぜおん)と云へり。或(ある)ひと問ふ、大地の功徳大なり、虚空の功徳も大なるべし、世音を観ずる功徳とは如何(いかん)。翁曰く、商法などの類(たぐい)総て世の音信(おとずれ)を能(よ)く考へて利益を求むるを観世音の力を念ずると云へるなり。観は目にて見る字にはあらず、心眼(しんがん)に見るを云ふ字なり、能々(よくよく)思ふべし、能々思ふべし。
現代語訳
翁が言われた。仏の教えはまことに巧みだ。太陽が朝に東から昇るときの功徳を薬師と名づけ、中天に照るときの功徳を大日といい、夕陽の功徳を阿弥陀という。だから薬師・大日・阿弥陀といっても、実際にそういう仏がいるわけではなく、みな太陽の功徳を表したものだ。また大地の功徳を地蔵といい、空中の功徳を虚空蔵といい、世の中の動き(音づれ)を観じ取る功徳を観世音という。ある人が尋ねた。大地の功徳は大きい、虚空の功徳も大きいだろう。だが世の中の音を観じる功徳とはどういうことか。翁は言われた。商売などのすべては、世の中の動きをよく考えて利益を求めるもので、これを観世音の力を念じるというのだ。観という字は目で見るという字ではない、心の眼で見ることをいう字だ。よくよく考えるがよい、よくよく考えるがよい。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之二翁(おきな)曰(いわ)く、売卜(ばいぼく)者の看板(かんばん)に日月(じつげつ)を画(えが)きたるを見て曰く、彼が看板に日月を画きたると、仏寺にて金箔(きんぱく)の仏像を安置すると、同じ思付(おもいつき)にて、仏は巧(たくみ)を極め、売卜者は拙(せつ)を極めたり。夫(そ)れ日は丸く赤く、三日月は細く白し、夫れを其儘(そのまま)に画きたるは正直なりといへ共、愚(ぐ)の至り拙の至りなり、故に尊けなし。然(しか)るに仏氏は是を人体に写し、尤(もっと)も人の尊(たっと)む処の黄金の光をかりて、其尊きを示す。仏氏の工夫の巧妙なる、売卜者の輩(ともがら)の遠く及ばざる処なり。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、仏書に、光明遍照(こうみょうへんじょう)十方世界、念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)といへり、光明とは太陽の光を云ふ、十方とは東西南北乾(いぬい)坤(ひつじさる)巽(たつみ)艮(うしとら)の八方に、天地を加へて十方と云ふ也、念仏衆生とは、此の太陽の徳を念じ慕(した)ふ、一切の生物を云ふ、夫(そ)れ天地間に生育する物、有情蠢動(うじょうしゅんどう)の物は勿論、無情の草木と雖(いえど)も、皆太陽の徳を慕ひて、生々を念とす、此の念ある物を仏国故に念仏衆生と云ふ也、神国にては念神衆生と読むべし、故に此の念ある者は洩(もら)さず、生育を遂(と)げさせて捨て玉(たま)はずと云ふ事にて、太陽の大徳を述べし物也、則(すなわ)ち我が天照大神の事也、此の如く太陽の徳は、広大なりといへども、芽を出さんとする念慮、育(そだ)たんとする気力なき物は仕方なし、芽を出さんとする念慮、育たんとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給ふ、是れ太陽の大徳なり、夫れ我が無利足金貸附の法は、此の太陽の徳に象(かたど)りて、立ちたるなり、故に如何なる大借といへ共、人情を失はず利足を滞(とどこお)りなく済(すま)し居る者、又是非とも皆済して他に損失を掛(か)けじ、と云ふ念慮ある者は、譬(たと)へば、芽を出したい、育ちたいと云ふ生気ある草木に同じければ、此の無利子金を貸して引立つべし、無利子の金といへども、人情なく利子も済さず、元金をも蹈倒(ふみたお)さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、所謂(いわゆる)縁無き衆生なり、之を如何ともすべからず、捨置くの外に道なきなり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、肉眼(にくがん)にて見れば見えざる所あり、心眼(しんがん)を以て見れば見えざる所なし。肉耳(にくじ)にて聞けば聞えざる所あり、心耳(しんじ)にて聞けば聞えざる所なし。これは禅家(ぜんけ)などの主張する所なり。世を治むるも、人を治むるも、徳を以てすると、法を以てするとの差別(しゃべつ)も又此(か)くの如し。
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二宮翁夜話・巻之五翁曰く、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何(いかん)せん、縦令(たとい)出家遁世(とんせい)して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行(さいぎょう)の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(たが)ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々(よくよく)玩味(がんみ)すべし。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、夫(それ)天地の真理は、不書(ふしょ)の経文にあらざれば、見えざる物なり。此不書の経文を見るには、肉眼を以て、一度見渡して、而(しか)て後肉眼を閉(と)ぢ、心眼を開きて能(よく)見るべし。如何なる微細(びさい)の理も見えざる事なし。肉眼の見る処は限(かぎり)あり、心眼の見る処は限なければなりと。大島勇助曰く、師説実に深遠なり、おこがましけれど、一首を詠(よ)めりと云ふ。其歌「眼(め)を閉(と)ぢて世界の内を能見れば晦日(みそか)の夜にも有明の月」。翁曰く、卿(けい)が生涯の上作と云ふべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁曰(いわ)く、夫(それ)世の中に道を説きたる書物、算(かぞ)ふるに暇(いとま)あらずといへども、一として癖(へき)なくして全(まった)きはあらざるなり。如何(いか)となれば、釈迦(しゃか)も孔子も皆人なるが故なり。経書(けいしょ)といひ、経文(きょうもん)と云ふも、皆人の書きたる物なればなり。故に予(よ)は不書の経、則(すなわ)ち物言はずして四時(しいじ)行はれ百物なる処の、天地の経文に引き当てて、違(たが)ひなき物を取りて、違へるは取らず。故に予が説く処は決して違はず。夫(それ)燈皿(とうがい)に油あらば、火は消(き)えざる物と知れ、火消えば油尽(つ)きたりと知れ。大海に水あらば、地球も日輪(にちりん)も変動なしと知れ。万一大海の水尽くる事あらば、世界は夫(それ)までなり、地球も日輪も散乱すべし。其の時までは決して違ひなき我が大道なり。夫れ我が道は、天地を以て経文とすれば、日輪に光明ある内は行はれざる事なく、違ふ事なき大道なり。