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二宮翁夜話 / 巻之五

翁曰、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何せん、縦令出家遁世して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌がれず、船賃がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々玩味すべし。

書き下し

翁曰く、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何(いかん)せん、縦令(たとい)出家遁世(とんせい)して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行(さいぎょう)の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(たが)ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々(よくよく)玩味(がんみ)すべし。

現代語訳

翁が言われた。仏家では、この世は仮の宿であって、来世こそ大切だと言うが、現に主君や親があり、妻子があるのをどうするのか。たとえ出家して世を捨て、主君も親も妻子も捨てても、この身体があるのをどうするのか。身体がある以上、食と衣の二つがなければしのげず、船賃がなければ海も川も渡れない世の中だ。だから西行の歌に「すっかり捨てて身は無いものと思っても、雪の降る日は寒く感じるものだ」とある。これが実情である。儒道では、礼にかなわなければ、見るな、聴くな、言うな、動くな、と教えるが、普通のお前たちの上では、それでは間に合わない。だから私は、自分のためになるか、人のためになるかでなければ、見るな、聴くな、言うな、動くな、と教えるのだ。自分のためにも人のためにもならないことは、経書にあっても経文にあっても、私は取らない。だから私の説くところは、神道にも儒道にも仏道にも食い違うことがあるだろう。しかしそれは私の説が間違っているのではない。よくよく味わってみるべきである。

解説

尊徳の実学精神が明快に表れた一条です。仏教は来世を、儒教は「礼に外れることは見るな聴くな」と説くが、現実には身体があり衣食も船賃も要る――西行の歌を引きながら、観念論では日々の暮らしは立たないと指摘します。そこで尊徳は独自の基準を掲げます。「自分のためになるか、人のためになるか」。これに合わなければ、経典に書いてあっても取らない、というのです。既存の教えを鵜呑みにせず、実生活で役立つかどうかで判断する姿勢は、荒れた村を実際に立て直してきた尊徳ならではの至誠と実践の思想です。権威や前例より、自他の利益になるかを問う。情報や教えがあふれる現代でこそ、この現実的で自立した判断基準は力を持ちます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳実学至誠西行判断基準

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