二宮翁夜話 / 巻之二
翁、売卜者の看板に日月を画きたるを見て、曰、彼が看板に日月を画きたると、仏寺にて金箔の仏像を安置すると、同じ思付にて、仏は巧を極め、売卜者は拙を極めたり。夫れ日は丸く赤く、三日月は細く白し、夫れを其儘に画きたるは正直なりといへ共、愚の至り拙の至りなり、故に尊けなし。然るに仏氏は是を人体に写し、尤も人の尊む処の黄金の光をかりて、其尊きを示す。仏氏の工夫の巧妙なる、売卜者の輩の遠く及ばざる処なり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、売卜(ばいぼく)者の看板(かんばん)に日月(じつげつ)を画(えが)きたるを見て曰く、彼が看板に日月を画きたると、仏寺にて金箔(きんぱく)の仏像を安置すると、同じ思付(おもいつき)にて、仏は巧(たくみ)を極め、売卜者は拙(せつ)を極めたり。夫(そ)れ日は丸く赤く、三日月は細く白し、夫れを其儘(そのまま)に画きたるは正直なりといへ共、愚(ぐ)の至り拙の至りなり、故に尊けなし。然(しか)るに仏氏は是を人体に写し、尤(もっと)も人の尊(たっと)む処の黄金の光をかりて、其尊きを示す。仏氏の工夫の巧妙なる、売卜者の輩(ともがら)の遠く及ばざる処なり。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が、占い師の看板に太陽と月が描かれているのを見て言われた。あの看板に日月を描くのも、寺で金箔の仏像を安置するのも、同じ思いつきから出ている。しかし仏像は工夫を極め、占い師の看板は稚拙を極めている。太陽は丸くて赤い、三日月は細くて白い――それをそのまま描いたのは正直ではあるが、愚かさの極み、拙さの極みで、だから尊くも感じられない。ところが仏教では真理を人の姿に写し、しかも人が最も尊ぶ黄金の光を借りて、その尊さを示している。仏の側の工夫の巧妙さは、占い師などの遠く及ぶところではないのだ。
解説
同じ「尊いものを示す」という発想でも、表し方の工夫しだいで人の心に届くかどうかが決まる、と説く一条です。太陽や月をそのまま描くのは正直ですが、稚拙で人を動かしません。真理を人の姿に写し、黄金の光を借りて尊さを表した仏像には、伝える側の深い工夫があります。尊徳が報徳の教えを、歌や身近なたとえ、農作業の実感を通して語り続けたのも同じ姿勢でした。至誠を土台としながら、それをどう表現すれば相手の腑に落ちるかを考え抜く。現代でも、正しさを主張するだけでなく、相手に伝わる工夫を凝らすことの大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳工夫表現の巧拙至誠伝える力
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、一言を聞ても人の勤惰(きんだ)は分る者なり、東京(えど)は水さへ銭が出ると云ふは、懶惰者(らんだもの)なり、水を売(う)りても銭が取れるといふは勉強人なり、夜は未(いま)だ九時なるに十時だと云ふ者は、寝たがる奴(やつ)なり、未だ九時前也と云ふは、勉強心のある奴なり、すべての事、下に目を付け、下に比較(ひこう)する者は、必(かなら)ず下り向(さがりむき)の懶惰者也、たとへば碁を打て遊ぶは酒を飲(の)むよりよろし、酒を呑むは博奕(ばくえき)よりよろしと云ふが如し、上に目を付け上に比較する者は、必ず上り向(あがりむき)なり、古語に、一言以て知とし一言以て不知(ふち)とす、とあり、うべなるかな。