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二宮翁夜話 / 巻之三

翁曰、夫世の中に道を説たる書物、算ふるに暇あらずといへ共、一として癖なくして全きはあらざる也、如何となれば、釈迦も孔子も皆人なるが故也、経書といひ、経文と云も、皆人の書たる物なればなり、故に予は不書の経、則物言ずして四時行れ百物なる処の、天地の経文に引当て、違ひなき物を取て、違へるは取らず、故に予が説く処は決して違はず、夫燈皿に油あらば、火は消ざる物としれ、火消へば油尽たりと知れ、大海に水あらば、地球も日輪も変動なしと知れ、万一大海の水尽る事あらば、世界は夫までなり、地球も日輪も散乱すべし、其時までは決して違ひなき我大道なり、夫我道は、天地を以て経文とすれば、日輪に光明ある内は行れざる事なく、違ふ事なき大道なり。

新字:翁曰、夫世の中に道を説たる書物、算ふるに暇あらずといへ共、一として癖なくして全きはあらざる也、如何となれば、釈迦も孔子も皆人なるが故也、経書といひ、経文と云も、皆人の書たる物なればなり、故に予は不書の経、則物言ずして四時行れ百物なる処の、天地の経文に引当て、違ひなき物を取て、違へるは取らず、故に予が説く処は決して違はず、夫灯皿に油あらば、火は消ざる物としれ、火消へば油尽たりと知れ、大海に水あらば、地球も日輪も変動なしと知れ、万一大海の水尽る事あらば、世界は夫までなり、地球も日輪も散乱すべし、其時までは決して違ひなき我大道なり、夫我道は、天地を以て経文とすれば、日輪に光明ある内は行れざる事なく、違ふ事なき大道なり。

書き下し

翁曰(いわ)く、夫(それ)世の中に道を説きたる書物、算(かぞ)ふるに暇(いとま)あらずといへども、一として癖(へき)なくして全(まった)きはあらざるなり。如何(いか)となれば、釈迦(しゃか)も孔子も皆人なるが故なり。経書(けいしょ)といひ、経文(きょうもん)と云ふも、皆人の書きたる物なればなり。故に予(よ)は不書の経、則(すなわ)ち物言はずして四時(しいじ)行はれ百物なる処の、天地の経文に引き当てて、違(たが)ひなき物を取りて、違へるは取らず。故に予が説く処は決して違はず。夫(それ)燈皿(とうがい)に油あらば、火は消(き)えざる物と知れ、火消えば油尽(つ)きたりと知れ。大海に水あらば、地球も日輪(にちりん)も変動なしと知れ。万一大海の水尽くる事あらば、世界は夫(それ)までなり、地球も日輪も散乱すべし。其の時までは決して違ひなき我が大道なり。夫れ我が道は、天地を以て経文とすれば、日輪に光明ある内は行はれざる事なく、違ふ事なき大道なり。

現代語訳

翁が言われた。そもそも世の中に道を説いた書物は数え切れないほどあるが、どれ一つとして偏りなく完全なものはない。なぜなら、釈迦も孔子もみな人間だからだ。経書といい経文というのも、みな人が書いたものだからである。だから私は、書かれざる経、すなわち何も語らずに四季がめぐり万物が生育する天地の経文に引き当てて、それに違わないものだけを取り、違うものは取らない。だから私の説くところは決して間違わない。灯皿に油があれば火は消えないものと知れ、火が消えれば油が尽きたと知れ。大海に水があるかぎり地球も太陽も変動はないと知れ。万一大海の水が尽きることがあれば、世界はそれまでだ、地球も太陽も砕け散るだろう。その時までは決して間違いのない我が大道である。そもそも我が道は天地を経文とするから、太陽に光があるうちは行われないことがなく、違うことのない大道なのだ。

解説

釈迦も孔子も人である以上、その書き残した経典にも偏りがある――尊徳はそう言い切り、自らの拠り所を人の言葉ではなく「不書の経」、すなわち黙して四季をめぐらせ万物を育てる天地の営みに置きます。天地の理に照らして違わないものだけを採り、違うものは捨てる。だから自分の説は間違えようがない、という確信です。灯皿の油と火、大海の水のたとえは、目に見える自然の因果こそ最も確かな法則だと示すものです。書物や権威をうのみにせず、事実と自然の摂理に照らして判断する実学の姿勢は、情報が氾濫する現代にこそ有効な検証の態度を教えてくれます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳天地の経文実学不書の経自然の摂理

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