二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、仏書に、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨といへり、光明とは大陽の光を云、十方とは東西南北乾坤巽艮の八方に、天地を加へて十方と云也、念仏衆生とは、此大陽の徳を念じ慕ふ、一切の生物を云、夫天地間に生育する物、有情蠢動の物は勿論、無情の草木と雖、皆大陽の徳を慕ひて、生々を念とす、此念ある物を仏国故に念仏衆生と云也、神国にては念神衆生と読べし、故に此念ある者は洩さず、生育を遂させて捨玉はずと云事にて、大陽の大徳を述し物也、則我天照大神の事也、此の如く大陽の徳は、広大なりといへども、芽を出さんとする念慮、育んとする気力なき物は仕方なし、芽を出さんとする念慮、育んとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給ふ、是大陽の大徳なり、夫我無利足金貸附の法は、此大陽の徳に象りて、立たるなり、故に如何なる大借といへ共、人情を失はず利足を滞りなく済し居る者、又是非とも皆済して他に損失を掛じ、と云念慮ある者は、譬へば、芽を出したい、育ちたいと云生気ある草木に同じければ、此無利子金を貸して引立べし、無利子の金といへども、人情なく利子も済さず、元金をも蹈倒さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、所謂縁無き衆生なり、之を如何ともすべからず、捨置くの外に道なきなり。
書き下し
翁曰(いわ)く、仏書に、光明遍照(こうみょうへんじょう)十方世界、念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)といへり、光明とは太陽の光を云ふ、十方とは東西南北乾(いぬい)坤(ひつじさる)巽(たつみ)艮(うしとら)の八方に、天地を加へて十方と云ふ也、念仏衆生とは、此の太陽の徳を念じ慕(した)ふ、一切の生物を云ふ、夫(そ)れ天地間に生育する物、有情蠢動(うじょうしゅんどう)の物は勿論、無情の草木と雖(いえど)も、皆太陽の徳を慕ひて、生々を念とす、此の念ある物を仏国故に念仏衆生と云ふ也、神国にては念神衆生と読むべし、故に此の念ある者は洩(もら)さず、生育を遂(と)げさせて捨て玉(たま)はずと云ふ事にて、太陽の大徳を述べし物也、則(すなわ)ち我が天照大神の事也、此の如く太陽の徳は、広大なりといへども、芽を出さんとする念慮、育(そだ)たんとする気力なき物は仕方なし、芽を出さんとする念慮、育たんとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給ふ、是れ太陽の大徳なり、夫れ我が無利足金貸附の法は、此の太陽の徳に象(かたど)りて、立ちたるなり、故に如何なる大借といへ共、人情を失はず利足を滞(とどこお)りなく済(すま)し居る者、又是非とも皆済して他に損失を掛(か)けじ、と云ふ念慮ある者は、譬(たと)へば、芽を出したい、育ちたいと云ふ生気ある草木に同じければ、此の無利子金を貸して引立つべし、無利子の金といへども、人情なく利子も済さず、元金をも蹈倒(ふみたお)さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、所謂(いわゆる)縁無き衆生なり、之を如何ともすべからず、捨置くの外に道なきなり。
現代語訳
翁が言われた。仏書に「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨(光明は十方世界をあまねく照らし、念仏する衆生を摂め取って捨てない)」とある。光明とは太陽の光をいう。十方とは、東西南北と乾・坤・巽・艮の八方に、天と地を加えて十方という。念仏衆生とは、この太陽の徳を念じ慕う一切の生き物のことだ。そもそも天地の間に生き育つもの、心をもち動く生き物はもちろん、心のない草木といえども、みな太陽の徳を慕って、生き続けることを願っている。この願いをもつものを、仏国ゆえに念仏衆生というのだ。神国では念神衆生と読むべきである。だからこの願いをもつ者は一つも漏らさず、生育を遂げさせて捨てないという意味で、太陽の大いなる徳を述べたものだ。すなわち我が天照大神のことである。このように太陽の徳は広大だが、芽を出そうとする思いも育とうとする気力もないものにはどうしようもない。芽を出そう、育とうとする生気あるものなら、みな芽吹かせ、育ててくださる。これが太陽の大徳だ。私の無利息金貸付の法は、この太陽の徳にかたどって立てたものである。だからどんなに大きな借金でも、人情を失わず利息を滞りなく納めている者や、必ず全額返して他人に損をかけまいという思いのある者は、たとえれば芽を出したい育ちたいという生気ある草木と同じだから、この無利息の金を貸して引き立てるのだ。無利息の金であっても、人情がなく利息も納めず、元金までも踏み倒そうとする者は、すでに生気のない草木と同じで、いわゆる縁なき衆生である。これはどうしようもなく、捨て置くよりほかに道はない。