二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、本来東西無し、また過不及無しなど云は、平なる器を見て云ふ語なり、則ち本然の天理なり。既に一器あり、之に己あれば傾かざるを得ず、傾く時は其器の中の水必前後左右に増減す、之を世に某は厚運、某は薄運などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往て復らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此通りなり、縦令蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰に薪を取りて自焚かずして売る者は、賎しきが如しといへども、夫丈けの運を増すなり、此銭にて酒を呑めば、又直に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法多し、此時に則運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作したる者は、秋に至つて取実少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦といへども、此道理は知るなるべし、此道理を知つて能く勤むるは則道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。「本来、東も西もない」「過ぎることも足りないこともない」などというのは、水平に置かれた器を見て言う言葉であり、すなわち本来の天の理である。すでに一つの器があって、そこに「自分」というものがあれば、傾かずにはいられない。傾けば、その器の中の水は必ず前後左右に増えたり減ったりする。これを世間では、あの人は運が厚い、あの人は運が薄いなどと言うのだ。これは「あの人」という自分(我)があるからである。我がないときには東西も遠近も過不足もない。これが本来の天の理だ。古語に「天運は循環して、行って帰らないものはない」とある。これは傾いた器の水が増減することを言うのだ。あの人は厚運、あの人は薄運というのもつまりこれである。私は「増減は器の傾く水と見よ、あちらに増せばこちらは減るのだ」と詠んだ。すべてこのとおりで、たとえ蓋をしても目に見えないだけで、水の増減があるのは疑いない。いまここに、薪を取って自分で焚かずに売る者は、卑しいようでもその分だけ運を増やしている。この金で酒を飲めば、またすぐにその分だけ運を減らすのだ。田畑に肥料をやる者は、目先の利益はないが、秋になれば実りが多い。このとき運を増やしているのだ。遊び怠けて田畑を粗末に耕した者は、秋になって収穫が少ない。ここに至って運が減ることが分かるはずだ。すべて明白で、無学な者であってもこの道理は分かるはずだ。この道理を知ってよく勤めるのは、すなわち道を悟ったのと同じである。これができれば何をしても利益があり、これに反すれば何をしても損失だ。まことに明白な理である。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、世の中、とかく増減(ぞうげん)の事に付(つ)き、さわがしき事多かれど、世上(せじょう)に云ふ増減と云ふ物は、譬(たと)へば水を入(いれ)たる器(うつわ)の、彼方(かなた)此方(こなた)に傾(かたむ)くが如し、彼方増せば此方(こなた)へり、此方増せば彼方(かなた)減るのみ、水に於(おい)ては増減ある事なし、彼方にて田地(でんち)を買て悦(よろこ)べば、此方に田地を売て歎(なげ)く者あり、只(ただ)、彼方此方の違(たが)ひあるのみ、本来増減なし、予(よ)が歌に「増減は器傾(かたむ)く水と見よ」と云へる通り也(なり)、夫(それ)我道(わがみち)の尊(たっと)む増殖(ぞうしょく)の道は夫(それ)と異(こと)なり、直(ただち)に天地の化育(かいく)を賛成(さんせい)するの大道にして、米五合(ごごう)にても、麦一升(いっしょう)にても、芋(いも)一株(ひとかぶ)にても、天(あま)つ神の積置(つみおか)せらるる無尽蔵(むじんぞう)より、鍬(くわ)鎌(かま)の鍵(かぎ)を以て此世上(このせじょう)に取出(とりいだ)す大道なり、是を真の増殖の道と云ふ、尊むべし務(つと)むべし、「天(あま)つ日の恵(めぐみ)積置(つみおく)無尽蔵鍬(くわ)でほり出せ鎌(かま)でかりとれ」
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、貧(ひん)となり富(とみ)となる、偶然(ぐうぜん)にあらず、富も因(よ)て来る処あり、貧も因て来る処あり、人皆貨財(かざい)は富者(ふうしゃ)の処に集ると思へ共(ども)然(しか)らず、節倹(せっけん)なる処と勉強(べんきょう)する処に集るなり、百円の身代(しんだい)の者、百円にて暮す時は、富の来る事なく貧の来る事なし、百円の身代を八十円にて暮し、七十円にて暮す時は、富是(これ)に帰(き)し財是に集る、百円の身代を百廿円(ひゃくにじゅうえん)にて暮し、百三拾円にて暮す時は、貧是に来り財是を去る、只(ただ)分外(ぶんがい)に進むと、分内(ぶんない)に退くとの違ひのみ、或歌(あるうた)に「有といへば有とや人の思ふらむ呼(よ)ば答ふる山彦(やまびこ)の声」と云(いえ)る如し、夫(そ)れ今有る物は今に無くなり、今無きものは今にあり、譬(たと)へば今有し銭のなくなりしは、物を買へば也、今無き銭の今あるは、勤(つと)むればなり、繩(なわ)一房(ひとふさ)なへば五厘(ごりん)手に入り、一日働けば十銭(じっせん)手に入る也、今手に入る十銭も、酒を呑めば直(じき)になし、明白疑(うたが)ひなき世の中なり、中庸(ちゅうよう)に曰く、誠なれば則(すなわ)ち明なり、明なれば則ち誠なりと、繩一房なへば五厘となり、五厘遣(や)れば繩一房来る、晴天白日(せいてんはくじつ)の世の中なり
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二宮翁夜話・続篇某(それがし)曰(いわ)く、予(われ)薄運(はくうん)か、神明(しんめい)加護(かご)なきか、為す事成らず、思ふ事齟齬(そご)すと。翁(おきな)諭(さと)して曰く、汝(なんじ)過(あやま)てり、薄運なるにあらず、神明加護なきにあらず、是(これ)則(すなわ)ち神明の加護にして則ち厚運(こううん)なるなり。只(ただ)願ふ所と為る所と違へばなり。夫(そ)れ汝が願ふ所は、瓜(うり)を植えて茄子(なす)を欲し、麦を蒔(ま)きて米を欲するなり。願ふ事ならざるに非(あら)ず、成らざる事を願へばなり。然(しか)して神明加護なしといひ、又薄運と云ふ、過にあらずや。夫れ瓜を蒔きて瓜の熟(な)り、米を蒔きて米の実法(みの)るは、天地日月の加護なり。然(しか)らば則ち、悪をなして刑罰来り、不善をなして禍(わざわい)来るは、天地神明の加護、米を蒔きて米を得ると同じ。然るに神明加護なしと云ふ、過ならずや。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、夫(それ)入るは出(いで)たる物の帰るなり、来るは押し譲(ゆず)りたる物の入り来るなり。譬(たと)へば、農人田畑の為に尽力し、人糞(こやし)を掛け干鰯(ほしか)を用ひ、作物の為に力を尽せば、秋に至りて実法(みの)りを得る事、必ず多き勿論なり。然るを菜を蒔(まき)て、出るとは芽をつみ、枝が出れば枝を切り、穂を出せば穂をつみ、実がなれば実を取る、此の如くなれば、決して収獲(しゅうかく)なし。商法も又同じ。己が利欲のみを専(もっぱら)として買人の為を思はず、猥(みだ)りに貪(むさぼ)らば、其店の衰微(すいび)、眼前なるべし。古語に、人心は惟(これ)危(あや)うし道心惟(これ)微(かす)かなり、惟(これ)精惟(これ)一、允(まこと)に其中を執(と)れ、四海困窮せば天禄永く終らん、とあり。是舜(しゅん)禹(う)天下を授受(じゅじゅ)するの心法なり。上として下に取る事多く、下困窮すれば、上の天禄も永く終るとあり。終るにはあらず、天より賜(たまわ)りたるを、天に取上げらるゝなり。其理又明白なり。誠に金言(きんげん)といふべし。然(しか)りといへども、儒者(じゅしゃ)の如く講じては、今日の用、何の用にもたゝぬ故、今汝等(なんじら)が為に、分り安く読みて聞かせん。支那(から)の咄(はな)しと思ひて、迂闊(うかつ)に聞かず、能く肝(きも)に銘(めい)ぜよ。人心惟危うし道心惟微かなりとは、身勝手にする事は危き物ぞ、他の為にする事は、いやになる物ぞと云ふ事なり。惟精惟一允に其中を執れとは、能く精力を尽し、一心堅固に二百石の者は、百石にて暮し、百石の者は、五十石にて暮し、其半分を推譲(おしゆず)りて、一村の衰(おとろ)へざる様、一村の益々(ますます)富(と)み益々栄(さか)える様に勉強せよ、と云ふ事なり。四海困窮せば、天禄永く終らんとは、一村困窮する時は、田畑を何程持ち居るとも、決して作徳は取れぬ様になる物ぞ、と云ふ事と心得べし。帝王の咄(はな)しなればこそ、四海と云ひ、天禄と云ふなれ。汝等が為には、四海を一村と読み、天禄は作徳と読むべし。能々(よくよく)肝銘せよ。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、方位を以て禍福(かふく)を論じ、月日を以て吉凶を説く事、古(いにしえ)よりあり、世人之を信ずれども、この道理あるべからず。禍福吉凶は方位日月などの関する所にあらず、之を信ずるは迷ひなり。悟道家(ごどうか)は本来無東西(ほんらいむとうざい)とさへ云ふなり。夫(そ)れ禍福吉凶は己々(おのおの)が心と行ひとの招く所に来るあり、又過去の因縁に依りて来るもあり。或る智識(ちしき)の強盗に遭ひたる時の歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、何(いず)れ報いは有りとこそしれ」と詠める通りなるべし、必ず迷ふ事勿(なか)れ。夫れ盗賊は鬼門より入り来らず、悪日(あくにち)にのみ来らず、締りを忘るれば賊は入り来ると思へ。火の用心を怠れば火災起るべし。試みに戸を明けて置きて見るべし、犬這入(はい)りて食物を求むるなり、是(これ)眼前なり。古語に曰く、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)ありと、是万古(ばんこ)を貫きて動かざる真理なり、決して疑ふべからず、之を疑ふを迷と云ふ。夫れ米を蒔きて米実法(みの)り、麦を蒔きて麦実法るは眼前にて、年々歳々違はず、天理なるが故なり。世に不成日(ふじょうび)と云へるあり、されど此の日になす事随分成就す。吉日なりとて為せし事必しも成就するにあらず、吉日を選んで為せし婚姻も、離縁になる事あり、日を選まずして結婚したるに偕老(かいろう)するもあるなり。かゝる事は決して信ずべからず、信ずべきは積善の家余慶ありの金言なり。されど余慶も余殃も速(すみやか)に回り来るものにあらず、百日にして実法る蕎麦あり、秋蒔きて来夏に実のる麦あり、諺に桃栗三年柿八年と云ふが如し、因果にも応報にも、遅速ある事を忘るゝ事勿れ。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、若き者は、毎日能(よ)く勤めよ、是(これ)我が身に徳を積むなり。怠りなまけるを以て得と思ふは大なる誤なり。徳をつめば天より恵あること眼前なり。今雇人(やといにん)を以て譬(たと)へん、彼の男は能く働きて貞実(ていじつ)なり、来年は我が家に頼むべしといひ、能く勤むれば聟(むこ)に貰ふべしと云ふに至るものなり。是に反する者は、本年は取り極めたれば是非なし、来年は断るべしと云ふ様になるは眼前の事なり。無智短才(むちたんさい)なりとも能く謹み、能く顧み、身に過(あやまち)無き様にすべし。過ちは則(すなわ)ち身の疵(きず)なり。古語に「身体髪膚(しんたいはっぷ)之を父母に受く、敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」とあり。人過てば身の疵となる事を知らず、傷さへせざればよしと思ふは違へり。且(かつ)過ちは身の疵なるのみならず、父母兄弟の顔をも汚すなり。慎まざるべけんや。