二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、世界万般皆同く一理なり、予一草を以て万理を究む、儒書に、其書始は一理を言ひ、中は散じて万事となり、末復合して一理となる、之を放てば則六合に弥り、之を巻けば退て密に蔵る、其味ひ窮りなし、とあり、今戯に、一草を以て之を読ん、曰、此草始は一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法れば合して一種となる、之を蒔植れば六合に弥り、之を蔵れば密に蔵る、之を食すれば其味ひ窮りなし、又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある、迷が故に三界城、悟るが故に十方空、とあり、又一草を以て之を読ん、曰、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植るが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々。
書き下し
翁曰(いわ)く、世界万般皆同じく一理なり、予一草を以て万理を究(きわ)む、儒書に、其の書始めは一理を言ひ、中は散じて万事となり、末(すえ)復(また)合して一理となる、之を放(はな)てば則(すなわ)ち六合(りくごう)に弥(わた)り、之を巻けば退(しりぞ)きて密に蔵(かく)る、其の味ひ窮(きわ)まりなし、とあり、今戯(たわむ)れに、一草を以て之を読まん、曰く、此の草始めは一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法(みの)れば合して一種となる、之を蒔植(うう)れば六合に弥り、之を蔵(おさ)むれば密に蔵る、之を食すれば其の味ひ窮まりなし、又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、とあり、又一草を以て之を読まん、曰く、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植うるが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々(かか)。
現代語訳
翁が言われた。世界のあらゆることは、みな同じ一つの理である。私は一本の草をもってあらゆる理を究める。儒書に「その書は初めに一つの理を言い、中ほどで散らばって万事となり、末にはふたたび合して一つの理となる。これを放てば天地四方に広がり、これを巻けば退いて奥深く隠れる。その味わいは尽きることがない」とある。いま戯れに、一本の草でこれを読み替えてみよう。こう言える――この草は初め一粒の種である。蒔けば芽吹いて根や葉となり、実れば合して再び一粒の種となる。これを蒔き植えれば天地四方に広がり、これを蔵に収めれば奥深く隠れる。これを食べればその味わいは尽きない、と。また仏語に「本来東も西もない、どこに南北があろう。迷うがゆえに三界城(迷いの世界)があり、悟るがゆえに十方空(すべては空)である」とある。これもまた一本の草で読み替えてみよう。こう言える――本来根も葉もない、どこに根葉があろう。植えるから根葉の草となり、実れば根も葉も空しくなる、と。ははは。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、凡庸(ぼんよう)の者は、繁多(はんた)なることの記憶は出来兼(か)ぬるものなり。譬(たと)へば此(こ)の茶碗、十や二十は、誰にても数ふる事容易なれども、之を四百五百とする時は中々間違へぬ様に数ふる事は出来ぬものなり。数多き物に番号を付ける時、二十や三十迄は間違ふ事無けれど、三百四百となると知らず知らず間違ふものなり。故に予(われ)は唯(ただ)一理を明かにする事を尊むなり。一理誠に明かなれば、万理に通ず。天地の間、最(もっと)も知り難き道理は、言論強く雄弁の者の勝(かち)となるべし。故に孔子は一以て之を貫くと言はれたり。卿等(けいら)此処に眼を付けて能く思考せば、世界万般の道理おのづから知らるべし。予が歌に「古道(ふるみち)につもる木の葉をかきわけて、天照(あまて)らす神の足跡を見ん」。足跡を見る事を得ば万理一貫すべし。然(しか)せずして徒(いたずら)に仁は云々、義は云々と云ふ時は、之を聴くも之を講ずるも共に無益なり。余(よ)は云ふに足らず、聞くに足らず。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、夫(それ)此(この)世界咲花(さくはな)は必ず散(ち)る、散るといへども、又来る春は必ず花さく、春生ずる草は必ず秋風に枯(か)る、枯るといへども、又春風に逢(あ)へば必ず生ず、万物皆然(しか)り、然れば無常(むじょう)と云ふも無常に非(あら)ず、有常(うじょう)と云ふも有常に非ず、種(たね)と見る間に草と変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に実(み)となり、実と見る間に、元の種となる、然れば種と成りたるが本来か、草と成りたるが本来か、是(これ)を仏に不止不転(ふしふてん)の理(り)と云ひ、儒に循環(じゅんかん)の理と云ふ、万物皆この道理に外(はず)るる事はあらず
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道(しどう)二つあらず、至理(しり)は万国同じかるべし、只理(り)の窮(きわ)めざると尽(つく)さゞるあるのみ、然(しか)るに諸道各々(おのおの)道を異(こと)にして、相争(あらそ)ふは、各(おのおの)区域(くいき)を狭(せば)く垣根(かきね)を結回(ゆいまわ)して、相隔(へだ)つるが故なり、共に三界城内(さんがいじょうない)に立籠(たてこも)りし、迷者(めいしゃ)と云(いい)て可なり、此(この)垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に籠(こも)れる論は、聞(きく)も益なし、説(とく)も益なし。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、心狭く局(かぎ)りては、真の道理を見る事能(あた)はざる物なり。夫(そ)れ世界は広し、故に心をば広く持つべし。されども其の広き世界も己(おのれ)と云ひ、我と云ふ私物(しぶつ)を一つ中に置きて見る時は、世界の道理は其の己に隔てられて、其の見る所は皆半(なかば)になるなり。己と云ふ物にて半分を見る時は、借りたる者は返さぬ方が都合よく、人の物を盗むは尤(もっと)も都合よかるべけれど、此隔てなる己と云ふ物を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云ふ道理が明らかに見え、盗むと云ふ事は悪事なる事も明らかに分るなり。故に此己と云ふ私物を取り捨るの工夫が専一(せんいつ)なり、儒も仏も此取捨方(とりすてかた)を教ふるを専一とす。論語に己に克ちて礼に復(かえ)れと教へたるも、仏にては見性(けんしょう)といひ、悟道(ごどう)といひ、転迷(てんめい)と云ふ、皆此私を取り捨るの修行なり。此私の一物を取捨る時は、万物不生不滅不増不滅の道理も又明かに見ゆるなり。此(かく)の如く明白なる世界なれども、此己を中間(ちゅうかん)に置きて彼と是とを隔つる時は、直(す)ぐ其座に得失損益増減生滅等の種々無量の境界(きょうがい)現出するなり、恐るべし。然れど是又是非無き次第なり、其は豆の艸(くさ)になる時は、豆の実を見る事能はず、豆の実になる時は豆の草は出来ざる世界なる故に、万物の霊なる人といへども免れ難きなり。此免れ難きを免るゝを悟といひ、免れざるを迷と云ふなり。予が戯(たわむ)れに詠める歌に「穀物の夫食(ふじき)となるも味も香も、草より出でゝ艸になるまで」「百艸(ひゃくそう)の根も葉も枝も花も実も、種より出でゝ種になるまで」此理(このことわり)を見るの一つのみ、呵々(かか)。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、世界元(もと)吉凶禍福(きっきょうかふく)苦楽生滅(くらくしょうめつ)なし、予(われ)が示せる一円図(いちえんず)の如し。而(しか)して是(これ)あるは、其(そ)の半(なかば)に己(おのれ)と云ふ者を置きて隔つる故なり。人は云ふ、万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず、眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出づと云ふが如し、其の出京(しゅっきょう)は区々(まちまち)なるなり。艸木(そうもく)の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常(むじょう)といへども、農家にては秋実(じつ)を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常(うじょう)なり。されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、仏説(ぶっせつ)面白し、今近く譬(たとえ)を取て云(い)はば、豆の前世は草なり、草の前世は豆なり、と云ふが如し、故に豆粒に向へば、汝(なんじ)は元(もと)草の化身(けしん)なるぞ、疑(うたが)はしく思はば、汝が過去を説(と)て聞(きか)せん、汝が前世は草にして、某(それの)国某の村某が畑に生れて、雨風を凌(しの)ぎ炎暑(えんしょ)を厭(いと)ひ草に覆(おお)はれ、兄弟を間(ま)引(びか)れ、辛苦(しんく)患難(かんなん)を経(へ)て、豆粒となりたる汝なるぞ、此(この)畑主(はたぬし)の大恩を忘れず、又此草の恩を能(よく)思ひて、早く此豆粒の世を捨て元の草となり、繁茂(はんも)せん事を願へ、此豆粒の世は、仮(かり)の宿りぞ、未来の草の世こそ大事なれと云ふが如し、又草に向へば汝が前世は種なるぞ、此種の大恩に依(よ)て、今草と生れ、枝を発し葉を出し肥(こえ)を吸(す)ひ露(つゆ)を受け、花を開くに至れり、此恩を忘(わす)れず、早く未来の種を願(ねが)へ、此世は苦の世界にして、風雨寒暑の患(うれい)あり、早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の患もなき土蔵(どぞう)の中に、住(じゅう)する身となれと云ふが如し、予(よ)仏道を知らずといへども、大凡(おおよそ)此の如くなるべし、而(しか)して世界の百草(ひゃくそう)、種になれば生ずる萌(きざし)あり、生れば育つ萌あり、育(そだ)てば花咲く萌あり、花さけば実を結ぶ萌あり、実(み)を結(むす)べば落(おつ)る萌あり、落れば又生ずる萌あり、是(これ)を不止不転(ふしふてん)循環(じゅんかん)の理(り)と云ふ