二宮翁夜話 / 巻之一
翁曰、善悪の論甚だむづかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善と云て分つ故に、悪と云物出来るなり、元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也、故に人は荒蕪を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒すを善とするなるべし、世法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗を善とし是を制する者を悪とするならん、然れば、如何なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ、此理明弁し難し、此理の尤も見安きは遠近なり、遠近と云も善悪と云も理は同じ、譬ば杭二本を作り、一本には遠と記し一本には近と記し、此二本を渡して、此杭を汝が身より遠き所と近き所と、二所に立べしと云付る時は、速に分る也、予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある」と、此歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也、工事に曲直を望むも、余り目に近過る時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり、古語に、遠山木なし、遠海波なし、といへるが如し、故に我身に疎き遠近に移して諭す也、夫れ遠近は己が居処先づ定りて後に遠近ある也、居処定らざれば遠近必なし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆是に同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半を善とすれば、其半は必悪也、然るに其半に悪なからむ事を願ふ、是成難き事を願ふなり、夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随て離れず、咲たる花の必ちるに同じ、生じたる草の必枯るゝにおなじ、涅槃経に此譬あり、或人の家に容貌美麗端正なる婦人入り来る、主人如何なる御人ぞと問、婦人答て曰、我は功徳天なり、我至る所、吉祥福徳無量なり、主人悦んで請じ入る、婦人曰、我に随従の婦一人あり、必跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾す、時に一女来る、容貌醜陋にして至て見悪し、如何なる人ぞと問、此女答て曰、我は黒闇天なり、我至る処、不詳災害ある無限なりと、主人是を聞大に怒り、速に帰り去れといへば、此女曰、前に来れる功徳天は我姉なり、暫くも離るる事あたはず、姉を止めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出せと云、主人暫く考へて、二人ともに出しやりければ、二人連れ立て出行きけり、と云事ありと聞けり、是生者必滅会者定離の譬なり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元禍と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云と遠くてよかりしと云也、是を以てしるべし。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、善悪の論甚(はなは)だむづかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善と云(い)ひて分(わか)つ故に、悪と云(い)ふ物出来(でき)るなり、元(もと)人身(じんしん)の私(わたくし)より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也、故に人は荒蕪(あれち)を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、猪(い)鹿(しか)の方にては、開拓を悪とし荒すを善とするなるべし、世法(せほう)盗(ぬすびと)を悪とすれども、盗中間(なかま)にては、盗を善とし是(これ)を制する者を悪とするならん、然(しか)れば、如何(いか)なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ、此理(このり)明弁し難し、此理の尤(もっと)も見安きは遠近なり、遠近と云ふも善悪と云ふも理は同じ、譬(たと)へば杭(くい)二本を作り、一本には遠(とおし)と記し一本には近(ちかし)と記し、此二本を渡して、此杭を汝(なんじ)が身より遠き所と近き所と、二所に立(た)つべしと云付(いいつ)くる時は、速(すみや)かに分る也、予(よ)が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処(すみど)にぞある」と、此歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也、工事に曲直を望むも、余り目に近過ぐる時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり、古語に、遠山(とおきやま)木なし、遠海(とおきうみ)波なし、といへるが如し、故に我身に疎(うと)き遠近に移して諭す也、夫(そ)れ遠近は己(おの)が居処(いどころ)先(ま)づ定りて後に遠近ある也、居処定らざれば遠近必(かなら)ずなし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆是(これ)に同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半(なか)ばを善とすれば、其半は必悪也、然るに其半に悪なからむ事を願ふ、是成(な)り難き事を願ふなり、夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随(したが)ひて離れず、咲(さ)きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必枯るゝにおなじ、涅槃経(ねはんぎょう)に此譬(たとえ)あり、或人の家に容貌(かおかたち)美麗(うるわし)く端正なる婦人入り来(きた)る、主人如何なる御人ぞと問(と)ふ、婦人答て曰(いわ)く、我は功徳天(くどくてん)なり、我至る所、吉祥(きっしょう)福徳無量なり、主人悦んで請(しょう)じ入る、婦人曰く、我に随従の婦一人あり、必跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾(だく)す、時に一女来る、容貌醜陋(しゅうろう)にして至て見悪(にく)し、如何なる人ぞと問ふ、此女答て曰く、我は黒闇天(こくあんてん)なり、我至る処、不詳(ふしょう)災害ある無限なりと、主人是を聞(き)き大に怒(いか)り、速(すみや)かに帰り去れといへば、此女曰く、前に来れる功徳天は我(わが)姉なり、暫(しばら)くも離(はな)るる事あたはず、姉を止(とど)めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出(いだ)せと云ふ、主人暫く考へて、二人ともに出しやりければ、二人連れ立(だ)ちて出(いで)行きけり、と云事ありと聞けり、是(これ)生者必滅会者定離(しょうじゃひつめつえしゃじょうり)の譬(たとえ)なり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元禍(わざわい)と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云ふと遠くてよかりしと云ふ也、是を以てしるべし。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。善悪の議論はたいそう難しい。本来を論じれば、善もなく悪もない。「善」と呼んで区別するからこそ「悪」というものが生じるのだ。もともと善悪とは人の心の私意から生まれたもので、人の道の上のことである。だから人がいなければ善悪はなく、人がいて初めて善悪がある。ゆえに人は荒れ地を開くのを善とし、田畑を荒らすのを悪とするが、猪や鹿の側からすれば、開拓は悪で荒らすのが善であろう。世間の法では盗人を悪とするが、盗人仲間では盗みを善とし、それを取り締まる者を悪とするだろう。とすれば、何が善で何が悪か、この理は明らかにしにくい。この理が最も分かりやすいのは遠近である。遠近も善悪も、理は同じだ。たとえば杭を二本作り、一本に「遠」、一本に「近」と記し、これを渡して自分の身から遠い所と近い所とに立てよと言えば、たちどころに分かる。私の歌に「見渡せば遠い近いなどというものはない。それぞれ自分の居場所によって決まるのだ」とある。この歌のように善も悪もないと言うと、我が身に切実だから分からない。遠近は我が身に切実でないからよく分かるのだ。工事で曲がり具合を見るにも、目に近すぎると見えないし、遠すぎても目が届かない。古語に「遠い山には木がなく、遠い海には波がない(ように見える)」とあるとおりだ。だから我が身に縁遠い遠近になぞらえて諭すのである。そもそも遠近は、自分の居場所がまず定まって初めてある。居場所が定まらなければ遠近もない。「大坂は遠い」と言えば関東の人であろうし、「関東は遠い」と言えば上方の人であろう。禍福・吉凶・是非・得失もみな同じである。禍福も一つ、善悪も一つ、得失も一つだ。もと一つのものの半分を善とすれば、残る半分は必ず悪である。それなのにその半分に悪がないことを願うのは、成り立たないことを願うのだ。人が生まれたことを喜べば、死の悲しみもついて離れない。咲いた花が必ず散り、生えた草が必ず枯れるのと同じである。涅槃経にこの譬えがある。ある人の家に美しく端正な婦人が入って来た。主人が「どなたですか」と問うと、婦人は「私は功徳天。私が行く所は吉祥と福徳が限りない」と答える。主人は喜んで招き入れた。婦人が「私には従者の女が一人いて、必ず後から来ます。その者も招いてください」と言い、主人は承知した。やがて一人の女が来たが、容貌は醜く見るに耐えない。「どなたか」と問うと「私は黒闇天。私が行く所は災いが限りない」と答える。主人はこれを聞いて大いに怒り「すぐ帰れ」と言うと、この女は「先に来た功徳天は私の姉。片時も離れられません。姉を留めるなら私も留めよ、私を出すなら姉も出せ」と言う。主人はしばらく考え、二人とも追い出したので、二人は連れ立って去って行った――そういう話があると聞いた。これは生者必滅・会者定離の譬えである。生死はもちろん、禍福・吉凶・損益・得失もみな同じ。もともと禍と福は同体で一つの円をなし、吉と凶は兄弟で一つの円をなす。あらゆることが皆そうだ。今もその通りで、通勤するときは(勤め先が)近くてよいと言い、火事だと言えば遠くてよかったと言う。これでよく分かるはずである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、夫(そ)れ世界は旋転(せんてん)してやまず、寒(かん)往けば暑(しょ)来り、暑往けば寒来り、夜明くれば昼となり、昼になれば夜となり、又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず。譬(たと)へば銭を遣(や)れば品が来り、品を遣れば銭が来るに同じ。寝ても醒(さ)めても、居ても歩行(あるい)ても、昨日は今日になり今日は明日になる。田畑も海山も皆その通り。爰(ここ)にて薪をたきへらすほどは、山林にて生木(せいぼく)し、爰で喰(く)ひへらす丈(だけ)の穀物は、田畑にて生育す。野菜にても魚類にても、世の中にて減るほどは、田畑河海山林にて生育し、生れたる子は時々刻々年がより、築(つ)きたる堤は時々刻々に崩れ、掘(ほ)りたる堀は日々夜々に埋(うづ)まり、葺(ふ)きたる屋根は日々夜々に腐る。是(これ)即(すなわ)ち天理の常なり。然(しか)るに人道は是と異なり。如何(いかん)となれば、風雨定めなく、寒暑往来する此世界に、毛羽(もうう)なく鱗介(りんかい)なく、裸体(はだか)にて生れ出(い)で、家がなければ雨露(あめつゆ)が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず。爰に於て、人道と云ふ物を立て、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす。皆人の為に立てたる道なり。依(よ)て人道と云ふ。天理より見る時は善悪はなし。其証(そのしょう)には、天理に任(まか)する時は、皆荒地となりて、開闢(かいびゃく)のむかしに帰るなり。如何となれば、是則ち天理自然の道なればなり。夫れ天に善悪なし、故に稲と莠とを分(わか)たず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ。人道はその天理に順(したが)ふといへども、其内に各(おのおの)区別をなし、稗(ひえ)莠(はぐさ)を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。爰に到(いた)ては天理と異なり。如何となれば、人道は人の立つる処なればなり。人道は譬(たと)へば料理物の如く、三倍酢(さんばいず)の如く、歴代の聖主賢臣料理し塩梅(あんばい)して拵(こしら)へたる物なり。されば、ともすれば破れんとす。故に政(まつりごと)を立て、教(おしえ)を立て、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸(ようや)く人道は立つなり。然るを天理自然の道と思ふは、大なる誤なり。能(よ)く思ふべし。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、世界元(もと)吉凶禍福(きっきょうかふく)苦楽生滅(くらくしょうめつ)なし、予(われ)が示せる一円図(いちえんず)の如し。而(しか)して是(これ)あるは、其(そ)の半(なかば)に己(おのれ)と云ふ者を置きて隔つる故なり。人は云ふ、万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず、眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出づと云ふが如し、其の出京(しゅっきょう)は区々(まちまち)なるなり。艸木(そうもく)の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常(むじょう)といへども、農家にては秋実(じつ)を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常(うじょう)なり。されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、世人の常情(じょうじょう)、明日食ふべき物なき時は、他に借(かり)に行かんとか、救ひを乞(こ)はんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食ふべき物なしと云ふ時は、釜(かま)も膳椀(ぜんわん)も洗ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤(もっと)もの事なれども、此の心は困窮其の身を離れざるの根元なり、如何(いか)となれば、日々釜を洗ひ膳椀を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是(これ)心得違(ちが)ひなり、たとへ明日食ふべき物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(つな)ぎたる、恩あればなり、是恩を思ふの道なり、此の心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔(へだて)あるにあらず、明日助からむ事のみを思ひて、今日までの恩を思はざると、明日助からむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二つのみ、是大切の道理なり、能々(よくよく)心得べし、仏家にては、此の世は仮(かり)の宿、来世こそ大切なれと教ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽んずるは誤(あやま)れり、今一草を以て之を譬(たと)へん、夫(それ)草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好(よ)き実を結ばんには、現世の草の時、芽立(めだち)より出精して、露を吸ひ肥(こやし)を吸ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(しの)ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂(しげ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其の如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(た)ち身を慎(つつし)み道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏(あんのん)なる事を得んや、夫地獄(じごく)は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽(ごくらく)は善事を為したる者の行く処なる事、鏡に掛けて明らかなれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべきなり、先(ま)づ此の身は如何にして生れ出でしやと、跡を振返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(いずく)んぞ死を知らん、と云へり、夫性(せい)は天の令命なり、身体は父母の賜(たまもの)なり、其の元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先づ此の理より窮(きわ)めて、天徳に報ひ、父母の恩に報ゆる行ひを立つべし、性に率(したが)ひて道を蹈むは、人の勤(つとめ)なり、此の勤を励む時は、来世は願はずして、安穏なる事疑ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以(ゆえん)なり、釈氏(しゃくし)の之を捨てて、世外に立ちしは、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんが為なり、世を救はんには、世外に立たざれば、広く救ひ難きが故なり、譬ば己が坐して居る畳を揚げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐべからざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷へるなり、然れども僧侶は其の法を伝へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命(あんじんりゅうめい)は爰(ここ)にあり、惑(まど)ふべからず。
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二宮翁夜話・巻之二或(あるひと)道を論じて条理無し、翁曰(いわ)く、卿(きみ)が説は悟道(ごどう)と人道と混ず、悟道を以て論ずるか、人道を以て論ずるか、悟道は人道に混ずべからず、如何(いかん)となれば、人道の是(ぜ)とする処は、悟道に所謂(いわゆる)三界城なり、悟道を主張すれば、人道蔑如(べつじょ)たり、其の相隔(へだ)つるや、天地と雲泥とのごとし、故に先づ其の居所(いどころ)を定めて、然して後に論ずべし、居所定まらざれば、目のなき秤(はかり)を以て軽重を量るがごとく、終日弁論するといへども、其の当否を知るべからず、夫(そ)れ悟道とは、譬(たと)へば当年は違作ならんと、未(いま)だ耕(たがや)さざるの前に観ずるが如きを云ふ、是を人道に用ひて違作なるべき間(あいだ)、耕作を休まんと云ふは、人道にあらず、田畑は開拓するとも又荒るるは自然の道なりと見るは、悟道なり、而(しか)して荒るればとて開拓せざるは、人道にあらず、川附の田地洪水あれば流失すると云ふ事を平日に見るは、悟道なり、然して耕さず肥(こや)しせざるは、人道にあらず、夫れ悟道は只自然の行く処を見るのみにして、人道は行き当る所まで行くべし、古語に、父母に事(つか)ふる幾(ようや)く諌(いさ)む、志の随はざるを見て、敬して違(たが)はず、労して恨みず、とあり、是れ人道の至極を尽せり、発句(ほっく)にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」と云へり、是れ又其の心なり、故に予常に曰く、親の看病をして、最早覚束(おぼつか)なしなどと見るものは、親子の至情を尽すことあたはじ、魂去り体冷えて後も、未だ全快あらんかと思ふ者にあらざれば、尽すと云ふべからず、故に悟道と人道とは混合すべからず、悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり、夫れ人倫の道とする処は、仏に所謂三界城裏の事なり、十方空を唱ふる時は、人道は滅すべし、知識を尊み娼妓を賎(いや)しむは迷ひなり、左はいへども、此くの如く迷はざれば人倫行はれず、迷ふが故に人倫は立つなり、故に悟道は人倫に益なし、然といへども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能(あた)はず、是れ悟道の妙なり、人倫は譬へば繩(なわ)を索(な)ふが如し、よりのかかるを以てよしとす、悟道は縷(より)を戻すが如し、故によりを戻すを以て善とす、人倫は家を造るなり、故に丸木を削りて角とし、曲れるを揉(た)めて直とし、長を伐りて短とし、短を継ぎて長くし、穴を穿(うが)ち溝(みぞ)を掘り、然して家作を為す、是れ則ち迷故三界城内の仕事也、然るを本来なき家なりと破るは悟道なり、破りて捨つる故に十方空に帰するなり、然りといへども、迷と云ひ悟と云ふは、未だ徹底せざる物なり、其の本源を極(きわ)むれば迷悟ともになし、迷といへば悟と言はざる事を得ず、悟といへば迷と言はざる事を得ず、本来迷悟にて一円なり、譬へば草木の如き、一種よりして、或は根を生じて土中の潤沢をすひ、或は枝葉を発して大虚の空気を吸ひ、花を開き実を結ぶ、是を種より見ば迷と云ふべし、然といへ共、忽(たちま)ち秋風に逢へば枯れ果てて本来の種に帰す、種に帰するといへども、又春陽に逢へば忽ち枝葉花実を発生す、然らば則ち、種となりたるが迷か草となりたるが迷か、草に成りたるが本体か種になりたるが本体か、是に因りて是を観るに、生ずるも生ずるにあらず枯るるも枯るるに非ず、されば、無常も無常にあらず有常も有常にあらず、皆旋転(せんてん)不止の世界に住する物なればなり、予が歌に「咲けばちり散れば又咲く年毎に詠(なが)め尽せぬ花のいろいろ」、一笑すべし。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、仏は諸行無常(しょぎょうむじょう)と云ふなり。世上(せじょう)に諸(もろもろ)の行はるゝ物は、皆常に無き物なり。然(しか)るを有ると見るは迷(まよい)なり、汝等(なんじら)が命、汝等が体(からだ)皆然り。長短遅速は有りといへども、皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。本来は長短もなし、遅速もなし、遠近もなし、生死もなし、蜉蝣(かげろう)の一時を短しと見、鶴亀(つるかめ)の千年を長しと思ふが如き是皆迷なり。然といへども、此理(このことわり)は見え難し、凡人に之を見(しめ)するは遠近のみ、是は我が悟道(ごどう)の入門なり。「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々(おのおの)が住処(すみか)にぞよる」見渡せば生死生滅無かりけり、見渡せば善きも悪しきもなかりけり、見渡せば憎いかはゆい無かりけり。この歌を感ずる時は其の道理知らるべきなり。夫(そ)れ生と云ふも死と云ふも共に無常にして、頼みにならぬ事は明白なり。氷と水とを見よ、何をか生と云ひ、何をか死と云ふ。水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。今朝寒しといへども、一朝(いっちょう)暖気なれば速(すみやか)に消ゆ、之を如何(いかん)せん、水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何をか生と云はん、何をか死と云はん。諸行無常なる事知らるべし。然して又無常も無常にあらず、有常も有常にあらず、惜しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼も我れも皆迷なり。此の如く迷ふが故に三界城(さんがいじょう)と云ふ堅固な物が出来て人を恨み、人を妬み、人をそねみ、人に憤り、種々の悪果(あっか)を結ぶなり。之を諸行無常と悟る時は、十方空(じっぽうくう)となつて恨むも、妬むも、悪(にく)むも、憤るも馬鹿馬鹿しくなるなり。是の所に至れば自然怨念死霊(おんねんしりょう)も退散す、之を悟りと云ふ、悟るを成仏と云ふなり、玩味(がんみ)して悟門(ごもん)に入るべきなり。