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二宮翁夜話 / 巻之一

翁曰、善悪の論甚だむづかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善と云て分つ故に、悪と云物出来るなり、元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也、故に人は荒蕪を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒すを善とするなるべし、世法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗を善とし是を制する者を悪とするならん、然れば、如何なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ、此理明弁し難し、此理の尤も見安きは遠近なり、遠近と云も善悪と云も理は同じ、譬ば杭二本を作り、一本には遠と記し一本には近と記し、此二本を渡して、此杭を汝が身より遠き所と近き所と、二所に立べしと云付る時は、速に分る也、予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある」と、此歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也、工事に曲直を望むも、余り目に近過る時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり、古語に、遠山木なし、遠海波なし、といへるが如し、故に我身に疎き遠近に移して諭す也、夫れ遠近は己が居処先づ定りて後に遠近ある也、居処定らざれば遠近必なし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆是に同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半を善とすれば、其半は必悪也、然るに其半に悪なからむ事を願ふ、是成難き事を願ふなり、夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随て離れず、咲たる花の必ちるに同じ、生じたる草の必枯るゝにおなじ、涅槃経に此譬あり、或人の家に容貌美麗端正なる婦人入り来る、主人如何なる御人ぞと問、婦人答て曰、我は功徳天なり、我至る所、吉祥福徳無量なり、主人悦んで請じ入る、婦人曰、我に随従の婦一人あり、必跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾す、時に一女来る、容貌醜陋にして至て見悪し、如何なる人ぞと問、此女答て曰、我は黒闇天なり、我至る処、不詳災害ある無限なりと、主人是を聞大に怒り、速に帰り去れといへば、此女曰、前に来れる功徳天は我姉なり、暫くも離るる事あたはず、姉を止めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出せと云、主人暫く考へて、二人ともに出しやりければ、二人連れ立て出行きけり、と云事ありと聞けり、是生者必滅会者定離の譬なり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元禍と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云と遠くてよかりしと云也、是を以てしるべし。

書き下し

翁(おきな)曰(いわ)く、善悪の論甚(はなは)だむづかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善と云(い)ひて分(わか)つ故に、悪と云(い)ふ物出来(でき)るなり、元(もと)人身(じんしん)の私(わたくし)より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也、故に人は荒蕪(あれち)を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、猪(い)鹿(しか)の方にては、開拓を悪とし荒すを善とするなるべし、世法(せほう)盗(ぬすびと)を悪とすれども、盗中間(なかま)にては、盗を善とし是(これ)を制する者を悪とするならん、然(しか)れば、如何(いか)なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ、此理(このり)明弁し難し、此理の尤(もっと)も見安きは遠近なり、遠近と云ふも善悪と云ふも理は同じ、譬(たと)へば杭(くい)二本を作り、一本には遠(とおし)と記し一本には近(ちかし)と記し、此二本を渡して、此杭を汝(なんじ)が身より遠き所と近き所と、二所に立(た)つべしと云付(いいつ)くる時は、速(すみや)かに分る也、予(よ)が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処(すみど)にぞある」と、此歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也、工事に曲直を望むも、余り目に近過ぐる時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり、古語に、遠山(とおきやま)木なし、遠海(とおきうみ)波なし、といへるが如し、故に我身に疎(うと)き遠近に移して諭す也、夫(そ)れ遠近は己(おの)が居処(いどころ)先(ま)づ定りて後に遠近ある也、居処定らざれば遠近必(かなら)ずなし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆是(これ)に同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半(なか)ばを善とすれば、其半は必悪也、然るに其半に悪なからむ事を願ふ、是成(な)り難き事を願ふなり、夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随(したが)ひて離れず、咲(さ)きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必枯るゝにおなじ、涅槃経(ねはんぎょう)に此譬(たとえ)あり、或人の家に容貌(かおかたち)美麗(うるわし)く端正なる婦人入り来(きた)る、主人如何なる御人ぞと問(と)ふ、婦人答て曰(いわ)く、我は功徳天(くどくてん)なり、我至る所、吉祥(きっしょう)福徳無量なり、主人悦んで請(しょう)じ入る、婦人曰く、我に随従の婦一人あり、必跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾(だく)す、時に一女来る、容貌醜陋(しゅうろう)にして至て見悪(にく)し、如何なる人ぞと問ふ、此女答て曰く、我は黒闇天(こくあんてん)なり、我至る処、不詳(ふしょう)災害ある無限なりと、主人是を聞(き)き大に怒(いか)り、速(すみや)かに帰り去れといへば、此女曰く、前に来れる功徳天は我(わが)姉なり、暫(しばら)くも離(はな)るる事あたはず、姉を止(とど)めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出(いだ)せと云ふ、主人暫く考へて、二人ともに出しやりければ、二人連れ立(だ)ちて出(いで)行きけり、と云事ありと聞けり、是(これ)生者必滅会者定離(しょうじゃひつめつえしゃじょうり)の譬(たとえ)なり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元禍(わざわい)と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云ふと遠くてよかりしと云ふ也、是を以てしるべし。

現代語訳

翁(二宮尊徳)が言われた。善悪の議論はたいそう難しい。本来を論じれば、善もなく悪もない。「善」と呼んで区別するからこそ「悪」というものが生じるのだ。もともと善悪とは人の心の私意から生まれたもので、人の道の上のことである。だから人がいなければ善悪はなく、人がいて初めて善悪がある。ゆえに人は荒れ地を開くのを善とし、田畑を荒らすのを悪とするが、猪や鹿の側からすれば、開拓は悪で荒らすのが善であろう。世間の法では盗人を悪とするが、盗人仲間では盗みを善とし、それを取り締まる者を悪とするだろう。とすれば、何が善で何が悪か、この理は明らかにしにくい。この理が最も分かりやすいのは遠近である。遠近も善悪も、理は同じだ。たとえば杭を二本作り、一本に「遠」、一本に「近」と記し、これを渡して自分の身から遠い所と近い所とに立てよと言えば、たちどころに分かる。私の歌に「見渡せば遠い近いなどというものはない。それぞれ自分の居場所によって決まるのだ」とある。この歌のように善も悪もないと言うと、我が身に切実だから分からない。遠近は我が身に切実でないからよく分かるのだ。工事で曲がり具合を見るにも、目に近すぎると見えないし、遠すぎても目が届かない。古語に「遠い山には木がなく、遠い海には波がない(ように見える)」とあるとおりだ。だから我が身に縁遠い遠近になぞらえて諭すのである。そもそも遠近は、自分の居場所がまず定まって初めてある。居場所が定まらなければ遠近もない。「大坂は遠い」と言えば関東の人であろうし、「関東は遠い」と言えば上方の人であろう。禍福・吉凶・是非・得失もみな同じである。禍福も一つ、善悪も一つ、得失も一つだ。もと一つのものの半分を善とすれば、残る半分は必ず悪である。それなのにその半分に悪がないことを願うのは、成り立たないことを願うのだ。人が生まれたことを喜べば、死の悲しみもついて離れない。咲いた花が必ず散り、生えた草が必ず枯れるのと同じである。涅槃経にこの譬えがある。ある人の家に美しく端正な婦人が入って来た。主人が「どなたですか」と問うと、婦人は「私は功徳天。私が行く所は吉祥と福徳が限りない」と答える。主人は喜んで招き入れた。婦人が「私には従者の女が一人いて、必ず後から来ます。その者も招いてください」と言い、主人は承知した。やがて一人の女が来たが、容貌は醜く見るに耐えない。「どなたか」と問うと「私は黒闇天。私が行く所は災いが限りない」と答える。主人はこれを聞いて大いに怒り「すぐ帰れ」と言うと、この女は「先に来た功徳天は私の姉。片時も離れられません。姉を留めるなら私も留めよ、私を出すなら姉も出せ」と言う。主人はしばらく考え、二人とも追い出したので、二人は連れ立って去って行った――そういう話があると聞いた。これは生者必滅・会者定離の譬えである。生死はもちろん、禍福・吉凶・損益・得失もみな同じ。もともと禍と福は同体で一つの円をなし、吉と凶は兄弟で一つの円をなす。あらゆることが皆そうだ。今もその通りで、通勤するときは(勤め先が)近くてよいと言い、火事だと言えば遠くてよかったと言う。これでよく分かるはずである。

解説

尊徳は、善悪や禍福は絶対的なものではなく、見る者の立場と心の私意によって生じる相対的なものだと説きます。人には善でも猪鹿には悪であり、世間には悪でも盗人仲間には善である――立場が変われば評価は逆転します。遠近も居場所が定まって初めて生じるように、価値判断もまた基準となる自分の位置次第なのです。さらに涅槃経の功徳天と黒闇天の逸話を引き、幸福と災いは姉妹のように離れず、一つの円の表裏だと諭します。生あれば死があり、花咲けば散る。この達観は、目先の禍福に一喜一憂せず、至誠をもって淡々と己の務めを尽くす報徳の生き方へと通じます。現代でも、出来事の良し悪しを決めつけず、立場を変えて物事を眺める視点は、感情に振り回されない判断を助けてくれます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳善悪相対禍福一円至誠涅槃経

この一句を、あなたの毎日に。

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