二宮翁夜話 / 続篇
某曰、予薄運か、神明加護なきか、為す事成らず、思ふ事齟齬すと。翁諭して曰、汝過てり、薄運なるにあらず、神明加護なきにあらず、是則神明の加護にして則厚運なるなり。只願ふ所と為る所と違へばなり。夫汝が願ふ所は瓜を植えて茄子を欲し、麦を蒔て米を欲するなり。願ふ事ならざるに非ず、成らざる事を願へばなり。然して神明加護なしといひ、又薄運と云、過にあらずや。夫瓜を蒔て瓜の熟り、米を蒔て米の実法るは、天地日月の加護なり。然ば則悪をなして刑罰来り、不善をなして禍来るは、天地神明の加護、米を蒔て米を得ると同じ。然るに神明加護なしと云ふ、過ならずや。
書き下し
某(それがし)曰(いわ)く、予(われ)薄運(はくうん)か、神明(しんめい)加護(かご)なきか、為す事成らず、思ふ事齟齬(そご)すと。翁(おきな)諭(さと)して曰く、汝(なんじ)過(あやま)てり、薄運なるにあらず、神明加護なきにあらず、是(これ)則(すなわ)ち神明の加護にして則ち厚運(こううん)なるなり。只(ただ)願ふ所と為る所と違へばなり。夫(そ)れ汝が願ふ所は、瓜(うり)を植えて茄子(なす)を欲し、麦を蒔(ま)きて米を欲するなり。願ふ事ならざるに非(あら)ず、成らざる事を願へばなり。然(しか)して神明加護なしといひ、又薄運と云ふ、過にあらずや。夫れ瓜を蒔きて瓜の熟(な)り、米を蒔きて米の実法(みの)るは、天地日月の加護なり。然(しか)らば則ち、悪をなして刑罰来り、不善をなして禍(わざわい)来るは、天地神明の加護、米を蒔きて米を得ると同じ。然るに神明加護なしと云ふ、過ならずや。
現代語訳
ある者が言った。私は運が薄いのか、神仏の加護がないのか、することが成就せず、思うことがことごとく食い違ってしまう、と。翁(二宮尊徳)が諭して言われた。おまえは間違っている。運が薄いのでもなく、神仏の加護がないのでもない。それはまさに神仏の加護であって、むしろ厚い運なのだ。ただ、願うことと実際にしていることが食い違っているだけだ。そもそもおまえの願いは、瓜を植えて茄子を欲しがり、麦を蒔いて米を欲しがるようなものだ。願いが叶わないのではなく、叶うはずのないことを願っているのだ。それなのに神仏の加護がないと言い、また運が薄いと言う。これは間違いではないか。そもそも瓜を蒔けば瓜がなり、米を蒔けば米が実るのは、天地日月の加護である。だとすれば、悪事をなして刑罰が来て、不善をなして災いが来るのも、天地神明の加護であって、米を蒔いて米を得るのと同じことだ。それなのに神仏の加護がないと言うのは、間違いではないか。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、方位を以て禍福(かふく)を論じ、月日を以て吉凶を説く事、古(いにしえ)よりあり、世人之を信ずれども、この道理あるべからず。禍福吉凶は方位日月などの関する所にあらず、之を信ずるは迷ひなり。悟道家(ごどうか)は本来無東西(ほんらいむとうざい)とさへ云ふなり。夫(そ)れ禍福吉凶は己々(おのおの)が心と行ひとの招く所に来るあり、又過去の因縁に依りて来るもあり。或る智識(ちしき)の強盗に遭ひたる時の歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、何(いず)れ報いは有りとこそしれ」と詠める通りなるべし、必ず迷ふ事勿(なか)れ。夫れ盗賊は鬼門より入り来らず、悪日(あくにち)にのみ来らず、締りを忘るれば賊は入り来ると思へ。火の用心を怠れば火災起るべし。試みに戸を明けて置きて見るべし、犬這入(はい)りて食物を求むるなり、是(これ)眼前なり。古語に曰く、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)ありと、是万古(ばんこ)を貫きて動かざる真理なり、決して疑ふべからず、之を疑ふを迷と云ふ。夫れ米を蒔きて米実法(みの)り、麦を蒔きて麦実法るは眼前にて、年々歳々違はず、天理なるが故なり。世に不成日(ふじょうび)と云へるあり、されど此の日になす事随分成就す。吉日なりとて為せし事必しも成就するにあらず、吉日を選んで為せし婚姻も、離縁になる事あり、日を選まずして結婚したるに偕老(かいろう)するもあるなり。かゝる事は決して信ずべからず、信ずべきは積善の家余慶ありの金言なり。されど余慶も余殃も速(すみやか)に回り来るものにあらず、百日にして実法る蕎麦あり、秋蒔きて来夏に実のる麦あり、諺に桃栗三年柿八年と云ふが如し、因果にも応報にも、遅速ある事を忘るゝ事勿れ。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、善因(ぜんいん)には善果(ぜんか)あり、悪因(あくいん)には悪果(あっか)を結(むす)ぶ事は、皆人の知る処なれども、目前(もくぜん)に萌(きざ)して、目前に顕(あらわ)るる物なれば、人々能(よく)恐(おそ)れ能謹(つつし)みて、善種(ぜんしゅ)を植(う)え悪種(あくしゅ)を除(のぞ)くべきなれども、如何(いか)せん、今日蒔(まく)種の結果(けっか)は、目前に萌(きざ)さず、目前に現れずして、十年廿年(にじゅうねん)乃至(ないし)四十年五十年の後に現るる物なるが故に、人々迷(まよ)ふて懼(おそ)れず、歎(なげか)はしき事ならずや、其上(そのうえ)に又前世(ぜんせ)の宿縁(しゅくえん)あり、如何ともすべからず、是(これ)世の人の迷(まよい)の元根(がんこん)なり、然(しか)れども、世の中万般(ばんぱん)の事物、元因(げんいん)あらざるはなく、結果あらざるはなし、一国の治乱(ちらん)一家の興廃(こうはい)、一身の禍福(かふく)皆然(しか)り、恐れ慎(つつし)んで、迷ふ事勿(なか)れ
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二宮翁夜話・巻之五或(あるひと)問ひて曰(いわ)く、因果(いんが)と天命との差別如何(いかん)、翁(おきな)曰く、因果の道理の尤(もっと)も見易(みやす)きは、蒔種(まくたね)の生(お)ふるなり、故に予(よ)人に諭(さと)すに「米蒔けば米の草はへ米の花咲つゝ米の実(み)のる世の中」の歌を以てす、仏は、種に因(よ)りて生ずる方より見て、因果と云へり、然(しか)りといへども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔くといへども、天気を受けざれば育せず、されば種ありといへ共(ども)、天地の令命(れいめい)に依らざれば生育せず、花咲き実のらざる也、儒(じゅ)は、此方(このほう)より見て天命と云へるなり、夫(それ)天命とは、天の下知(げち)と云ふが如し、悪人の刑を免(まぬか)れたるを見て、仏は因縁未(いま)だ熟せずと云ひ、儒は天命未だ降(くだ)らずと云ふ、皆米を蒔きて未だ実らざるを云ふなり、此悪人捕縛(ほばく)に就(つ)くを見て、仏は因縁熟せりと云ひ、儒は天命到れりと云ふ、而(しか)して之を捕縛する者は上意(じょうい)と云へり、此上意則(すなわ)ち天命と云ふに同じ、夫借りたる物を約定(やくじょう)の通り返すは、世上の通則なり、されば規則の通りふむべきは定理なるを、履(ふ)まざる時は、貸方(かしかた)之を請求して、上命を以て此規則を履ましむ、爰(ここ)に至りて身代限(しんだいかぎ)りとなる、仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云ひ、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云ふなり、共に言語上に聊(いささ)かの違ひあるのみ、其理に於ては違ひなし、又問ふ、因縁とは如何、翁曰く、因は譬(たと)へば蒔きたる種也、之を耕耘培養(こううんばいよう)するは縁なり、種を蒔きたる因と、培養したる縁とに依りて、秋の実のりを得る、之を果と云ふなり。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、世人運(うん)といふ事に心得違ひあり。譬(たと)へば柿梨子(かきなし)などを籠(かご)より打明(うちあ)くる時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり、此(これ)を運と思へり。運といふ物此の如き物ならば頼(たの)むにたらず。如何となれば、人事を尽(つく)してなるにあらずして、偶然(ぐうぜん)となるなれば、再(ふたた)び入れ直して明くる時はみな前と違(たが)ふべし。是博奕(ばくえき)の類にして運とは異なり。夫(それ)運といふは、運転(うんてん)の運にして所謂(いわゆる)廻り合せといふ物なり。夫(それ)運転は世界の運転に基元(きげん)して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり、幾回(いくたび)旋転(せんてん)するも、此定規に外(はず)れずして廻り合するを云ふなり。能(よく)世の中にある事也。灯燈(ちょうちん)の火の消えたるために、禍(わざわい)を免(まぬが)れ、又履(はき)物の緒(お)の切れたるが為に、災害を逸(のが)るゝ等の事、これ偶(ぐう)然にあらず真の運なり。仏に云ふ処の、因応の道理則(すなわ)ち是なり。儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃(おう)あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。夫(それ)仏に三世(さんぜ)の説あり。此理は三世を観通(かんつう)せざれば、決して疑(うたが)ひなき事あたはず。疑ひの甚(はなは)だしき、天を怨み人を恨むに至る。三世を観通すれば、此疑ひなし。雲霧(くもきり)晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる。故に仏教三世因縁を説く。是儒の及ばざる処なり。今爰(ここ)に一本の草あり、現在若(わか)草なり。其過去を悟れば種なり、其未来を悟れば花咲き実法(みの)りなり。茎(くき)高く延びたるは肥(こえ)多き因縁なり、茎(くき)の短(みじか)きは肥のなき応報なり。其理三世をみる時は明白なり。而(しか)て世人此因果応報の理を、仏説と云へり、是は書物上の論なり。是を我流儀の不書(ふしょ)の経に見る時は、釈氏(しゃくし)未(いま)だ此世に生れざる昔より行はれし、天地間の真理なり。不書の経とは、予が歌に「声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地は書かざる経を繰返(くりかへ)しつゝ」と云へる、四時行はれ、百物成る処の真理を云ふ。此経を見るには、肉眼を閉(と)ぢ、心眼を開きて見るべし。然(しか)らざれば見えず。肉眼に見えざるにはあらねども徹底(てってい)せざるを云ふなり。夫(それ)因報の理は、米を蒔けば米が生(は)へ、瓜の蔓(つる)に茄子(なす)のならざるの理なり。此理天地開闢(かいびゃく)より行はれて、今日に至りて違(たが)はず。皇国のみ然るにあらず、万国皆然り。されば天地の真理なる事、弁を待たずして明なり。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、夫(それ)日月(じつげつ)清明(せいめい)、風雨(ふうう)順時(じゅんじ)を祈(いの)るの念(ねん)は、天下の祈願所(きがんじょ)の神官僧侶(そうりょ)は、忘(わす)るる時多かるべし、入作(いりさく)小作(こさく)の作徳(さくとく)を頼(たの)みに、生活(せいかつ)を立(たつ)る、賤女(しずのめ)賤男(しずのお)に至(いた)っては、苗代(なわしろ)の時より刈収(かりおさ)むる日までは、片時(かたとき)も忘るる暇(ひま)あるべからず、其情(そのじょう)、実(じつ)に憐(あわ)れむべし、予(よ)此情を、歌に述(の)べんと思へども、意(い)を尽(つく)す事あたはず、言葉(ことば)足(た)らざれば、聞(きこ)え難(がた)からんか、「諸共(もろとも)に無事(ぶじ)をぞ祈る年毎(としごと)に種(たね)かす里の賤女(しずめ)賤(しず)の男(お)」