二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、方位を以て禍福を論じ、月日を以て吉凶を説く事、古よりあり、世人之を信ずれども、この道理あるべからず。禍福吉凶は方位日月などの関する所にあらず、之を信ずるは迷ひなり。悟道家は本来無東西とさへ云なり。夫禍福吉凶は己々が心と行ひとの招く所に来るあり、又過去の因縁に依りて来るもあり。或る智識の強盗に遭ひたる時の歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、何れ報いは有とこそしれ」と詠める通りなるべし、必迷ふ事勿れ。夫盗賊は鬼門より入り来らず、悪日にのみ来らず、締りを忘るれば賊は入り来ると思へ。火の用心を怠れば火災起るべし。試に戸を明けて置て見るべし、犬這入りて食物を求むるなり、是眼前なり。古語曰、積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃ありと、是万古を貫きて動かざる真理なり、決して疑ふべからず、之を疑ふを迷と云ふ。夫米を蒔て米実法り、麦を蒔て麦実法るは眼前にて、年々歳々違はず、天理なるが故なり。世に不成日と云へるあり、されど此日になす事随分成就す。吉日なりとて為せし事必しも成就するにあらず、吉日を選んで為せし婚姻も、離縁になる事あり、日を選まずして結婚したるに偕老するもあるなり。かゝる事は決して信ずべからず、信ずべきは積善の家余慶ありの金言なり。されど余慶も余殃も速に回り来ものにあらず、百日にして実法る蕎麦あり、秋蒔て来夏に実のる麦あり、諺に桃栗三年柿八年と云が如し、因果にも応報にも、遅速ある事を忘るゝ事勿れ。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、方位を以て禍福(かふく)を論じ、月日を以て吉凶を説く事、古(いにしえ)よりあり、世人之を信ずれども、この道理あるべからず。禍福吉凶は方位日月などの関する所にあらず、之を信ずるは迷ひなり。悟道家(ごどうか)は本来無東西(ほんらいむとうざい)とさへ云ふなり。夫(そ)れ禍福吉凶は己々(おのおの)が心と行ひとの招く所に来るあり、又過去の因縁に依りて来るもあり。或る智識(ちしき)の強盗に遭ひたる時の歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、何(いず)れ報いは有りとこそしれ」と詠める通りなるべし、必ず迷ふ事勿(なか)れ。夫れ盗賊は鬼門より入り来らず、悪日(あくにち)にのみ来らず、締りを忘るれば賊は入り来ると思へ。火の用心を怠れば火災起るべし。試みに戸を明けて置きて見るべし、犬這入(はい)りて食物を求むるなり、是(これ)眼前なり。古語に曰く、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)ありと、是万古(ばんこ)を貫きて動かざる真理なり、決して疑ふべからず、之を疑ふを迷と云ふ。夫れ米を蒔きて米実法(みの)り、麦を蒔きて麦実法るは眼前にて、年々歳々違はず、天理なるが故なり。世に不成日(ふじょうび)と云へるあり、されど此の日になす事随分成就す。吉日なりとて為せし事必しも成就するにあらず、吉日を選んで為せし婚姻も、離縁になる事あり、日を選まずして結婚したるに偕老(かいろう)するもあるなり。かゝる事は決して信ずべからず、信ずべきは積善の家余慶ありの金言なり。されど余慶も余殃も速(すみやか)に回り来るものにあらず、百日にして実法る蕎麦あり、秋蒔きて来夏に実のる麦あり、諺に桃栗三年柿八年と云ふが如し、因果にも応報にも、遅速ある事を忘るゝ事勿れ。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。方位によって禍福を論じ、月日によって吉凶を説くことは昔からあり、世の人はこれを信じているが、そのような道理はありえない。禍福吉凶は方位や日月に関わるものではなく、これを信じるのは迷いである。悟りを開いた者は「本来東も西もない」とまで言う。そもそも禍福吉凶は、それぞれの人の心と行いが招くところにやって来るものであり、また過去の因縁によって来るものもある。ある知識人が強盗に遭ったときの歌に「前世の借りを返すのか、今貸すのか、いずれ報いは必ずあると知れ」と詠んだとおりであろう。決して迷ってはならない。そもそも盗賊は鬼門から入って来るのでもなく、悪日にだけ来るのでもない。戸締まりを忘れれば賊は入って来ると思え。火の用心を怠れば火事は起こる。試しに戸を開けておいてみるがよい、犬が入り込んで食べ物をあさる。これは目の前の事実だ。古語に「善を積む家には余りある慶びがあり、不善を積む家には余りある災いがある」とある。これは永遠に変わらない真理であり、決して疑ってはならない。これを疑うのを迷いという。そもそも米を蒔けば米が実り、麦を蒔けば麦が実るのは目の前の事実で、年々歳々変わらない。天の理だからである。世に「事の成らぬ日」というものがあるが、この日にしたことも十分に成就する。吉日だからといってしたことが必ず成就するわけでもない。吉日を選んで挙げた婚礼も離縁になることがあり、日を選ばずに結婚しても添い遂げることもある。こうしたことは決して信じてはならない。信じるべきは「善を積む家に余慶あり」の金言である。ただし余慶も余殃もすぐに巡って来るものではない。百日で実る蕎麦もあれば、秋に蒔いて翌夏に実る麦もある。ことわざに「桃栗三年柿八年」というとおりだ。因果にも応報にも遅い早いがあることを、決して忘れてはならない。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、善因(ぜんいん)には善果(ぜんか)あり、悪因(あくいん)には悪果(あっか)を結(むす)ぶ事は、皆人の知る処なれども、目前(もくぜん)に萌(きざ)して、目前に顕(あらわ)るる物なれば、人々能(よく)恐(おそ)れ能謹(つつし)みて、善種(ぜんしゅ)を植(う)え悪種(あくしゅ)を除(のぞ)くべきなれども、如何(いか)せん、今日蒔(まく)種の結果(けっか)は、目前に萌(きざ)さず、目前に現れずして、十年廿年(にじゅうねん)乃至(ないし)四十年五十年の後に現るる物なるが故に、人々迷(まよ)ふて懼(おそ)れず、歎(なげか)はしき事ならずや、其上(そのうえ)に又前世(ぜんせ)の宿縁(しゅくえん)あり、如何ともすべからず、是(これ)世の人の迷(まよい)の元根(がんこん)なり、然(しか)れども、世の中万般(ばんぱん)の事物、元因(げんいん)あらざるはなく、結果あらざるはなし、一国の治乱(ちらん)一家の興廃(こうはい)、一身の禍福(かふく)皆然(しか)り、恐れ慎(つつし)んで、迷ふ事勿(なか)れ
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
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二宮翁夜話・続篇某(それがし)曰(いわ)く、予(われ)薄運(はくうん)か、神明(しんめい)加護(かご)なきか、為す事成らず、思ふ事齟齬(そご)すと。翁(おきな)諭(さと)して曰く、汝(なんじ)過(あやま)てり、薄運なるにあらず、神明加護なきにあらず、是(これ)則(すなわ)ち神明の加護にして則ち厚運(こううん)なるなり。只(ただ)願ふ所と為る所と違へばなり。夫(そ)れ汝が願ふ所は、瓜(うり)を植えて茄子(なす)を欲し、麦を蒔(ま)きて米を欲するなり。願ふ事ならざるに非(あら)ず、成らざる事を願へばなり。然(しか)して神明加護なしといひ、又薄運と云ふ、過にあらずや。夫れ瓜を蒔きて瓜の熟(な)り、米を蒔きて米の実法(みの)るは、天地日月の加護なり。然(しか)らば則ち、悪をなして刑罰来り、不善をなして禍(わざわい)来るは、天地神明の加護、米を蒔きて米を得ると同じ。然るに神明加護なしと云ふ、過ならずや。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、世人運(うん)といふ事に心得違ひあり。譬(たと)へば柿梨子(かきなし)などを籠(かご)より打明(うちあ)くる時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり、此(これ)を運と思へり。運といふ物此の如き物ならば頼(たの)むにたらず。如何となれば、人事を尽(つく)してなるにあらずして、偶然(ぐうぜん)となるなれば、再(ふたた)び入れ直して明くる時はみな前と違(たが)ふべし。是博奕(ばくえき)の類にして運とは異なり。夫(それ)運といふは、運転(うんてん)の運にして所謂(いわゆる)廻り合せといふ物なり。夫(それ)運転は世界の運転に基元(きげん)して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり、幾回(いくたび)旋転(せんてん)するも、此定規に外(はず)れずして廻り合するを云ふなり。能(よく)世の中にある事也。灯燈(ちょうちん)の火の消えたるために、禍(わざわい)を免(まぬが)れ、又履(はき)物の緒(お)の切れたるが為に、災害を逸(のが)るゝ等の事、これ偶(ぐう)然にあらず真の運なり。仏に云ふ処の、因応の道理則(すなわ)ち是なり。儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃(おう)あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。夫(それ)仏に三世(さんぜ)の説あり。此理は三世を観通(かんつう)せざれば、決して疑(うたが)ひなき事あたはず。疑ひの甚(はなは)だしき、天を怨み人を恨むに至る。三世を観通すれば、此疑ひなし。雲霧(くもきり)晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる。故に仏教三世因縁を説く。是儒の及ばざる処なり。今爰(ここ)に一本の草あり、現在若(わか)草なり。其過去を悟れば種なり、其未来を悟れば花咲き実法(みの)りなり。茎(くき)高く延びたるは肥(こえ)多き因縁なり、茎(くき)の短(みじか)きは肥のなき応報なり。其理三世をみる時は明白なり。而(しか)て世人此因果応報の理を、仏説と云へり、是は書物上の論なり。是を我流儀の不書(ふしょ)の経に見る時は、釈氏(しゃくし)未(いま)だ此世に生れざる昔より行はれし、天地間の真理なり。不書の経とは、予が歌に「声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地は書かざる経を繰返(くりかへ)しつゝ」と云へる、四時行はれ、百物成る処の真理を云ふ。此経を見るには、肉眼を閉(と)ぢ、心眼を開きて見るべし。然(しか)らざれば見えず。肉眼に見えざるにはあらねども徹底(てってい)せざるを云ふなり。夫(それ)因報の理は、米を蒔けば米が生(は)へ、瓜の蔓(つる)に茄子(なす)のならざるの理なり。此理天地開闢(かいびゃく)より行はれて、今日に至りて違(たが)はず。皇国のみ然るにあらず、万国皆然り。されば天地の真理なる事、弁を待たずして明なり。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、農家は作物の為とのみ勤めて朝夕力を尽し、心を尽す時は、自然願はずして穀物蔵に満(みつ)るなり。穀物蔵にあれば呼ばずして魚売りも来り、小間物屋(こまものや)も来り、何もかも安楽自在なり。又村里を見るに籬(まがき)丈夫に住居の掃除も届き、積肥(つみごえ)沢山積重ねたるは、何となく福々(ふくぶく)しき。其家の田畑は隅々まで行届き出来、平(たいら)に穂先揃ひて見事なるものなり。又之に反して出来不平(ふびょう)にして穂先揃はず、稗(ひえ)あり艸(くさ)あり、何となく見苦しき田畑の作主(つくりぬし)の家は、籬も破れ、家居(いえい)不潔なるものなり。又一種不精者(ぶしょうもの)の困窮ながらも家居は清潔に住むあり、是は籬其外も行き届きたれど、家に俵(たわら)なく、農具なく、庭に積肥なく、何となくさみしきものなり。又人気(じんき)和せざる村里は四壁の竹木も不揃(ふぞろ)ひにて、道路悪敷(あしく)堰(せき)用水路に笹茂るなど見苦しきものなり、大凡(おおよそ)違はじ。