二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、貧となり富となる、偶然にあらず、富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり、人皆貨財は富者の処に集ると思へ共然らず、節倹なる処と勉強する処に集るなり、百円の身代の者、百円にて暮す時は、富の来る事なく貧の来る事なし、百円の身代を八十円にて暮し、七十円にて暮す時は、富是に帰し財是に集る、百円の身代を百廿円にて暮し、百三拾円にて暮す時は、貧是に来り財是を去る、只分外に進むと、分内に退くとの違ひのみ、或歌に「有といへば有とや人の思ふらむ呼ば答ふる山彦の声」と云る如く、世人今有れ共、其有る原因を知らず、「無といへば無しとや人の思ふらんよべば答ふる山彦の声」にて、世人今なきも其無きもとをしらず、夫今有物は今に無くなり、今無きものは今にあり、譬ば今有し銭のなくなりしは、物を買へば也、今無き銭の今あるは、勤ればなり、繩一房なへば五厘手に入、一日働けば十銭手に入る也、今手に入る十銭も、酒を呑めば直になし、明白疑なき世の中なり、中庸曰、誠なれば則明なり、明なれば則誠なりと、繩一房なへば五厘となり、五厘遣れば繩一房来る、晴天白日の世の中なり
新字:翁曰、貧となり富となる、偶然にあらず、富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり、人皆貨財は富者の処に集ると思へ共然らず、節倹なる処と勉強する処に集るなり、百円の身代の者、百円にて暮す時は、富の来る事なく貧の来る事なし、百円の身代を八十円にて暮し、七十円にて暮す時は、富是に帰し財是に集る、百円の身代を百廿円にて暮し、百三拾円にて暮す時は、貧是に来り財是を去る、只分外に進むと、分内に退くとの違ひのみ、或歌に「有といへば有とや人の思ふらむ呼ば答ふる山彦の声」と云る如く、世人今有れ共、其有る原因を知らず、「無といへば無しとや人の思ふらんよべば答ふる山彦の声」にて、世人今なきも其無きもとをしらず、夫今有物は今に無くなり、今無きものは今にあり、譬ば今有し銭のなくなりしは、物を買へば也、今無き銭の今あるは、勤ればなり、縄一房なへば五厘手に入、一日働けば十銭手に入る也、今手に入る十銭も、酒を呑めば直になし、明白疑なき世の中なり、中庸曰、誠なれば則明なり、明なれば則誠なりと、縄一房なへば五厘となり、五厘遣れば縄一房来る、晴天白日の世の中なり
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、貧(ひん)となり富(とみ)となる、偶然(ぐうぜん)にあらず、富も因(よ)て来る処あり、貧も因て来る処あり、人皆貨財(かざい)は富者(ふうしゃ)の処に集ると思へ共(ども)然(しか)らず、節倹(せっけん)なる処と勉強(べんきょう)する処に集るなり、百円の身代(しんだい)の者、百円にて暮す時は、富の来る事なく貧の来る事なし、百円の身代を八十円にて暮し、七十円にて暮す時は、富是(これ)に帰(き)し財是に集る、百円の身代を百廿円(ひゃくにじゅうえん)にて暮し、百三拾円にて暮す時は、貧是に来り財是を去る、只(ただ)分外(ぶんがい)に進むと、分内(ぶんない)に退くとの違ひのみ、或歌(あるうた)に「有といへば有とや人の思ふらむ呼(よ)ば答ふる山彦(やまびこ)の声」と云(いえ)る如し、夫(そ)れ今有る物は今に無くなり、今無きものは今にあり、譬(たと)へば今有し銭のなくなりしは、物を買へば也、今無き銭の今あるは、勤(つと)むればなり、繩(なわ)一房(ひとふさ)なへば五厘(ごりん)手に入り、一日働けば十銭(じっせん)手に入る也、今手に入る十銭も、酒を呑めば直(じき)になし、明白疑(うたが)ひなき世の中なり、中庸(ちゅうよう)に曰く、誠なれば則(すなわ)ち明なり、明なれば則ち誠なりと、繩一房なへば五厘となり、五厘遣(や)れば繩一房来る、晴天白日(せいてんはくじつ)の世の中なり
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。貧しくなるのも富むのも、偶然ではない。富にはそれが来る理由があり、貧にもそれが来る理由がある。人はみな財貨は金持ちのところに集まると思っているが、そうではない。財貨は倹約するところ、努力するところに集まるのだ。百円の身代の者が百円ぴったりで暮らせば、富も来なければ貧も来ない。百円の身代を八十円、七十円で暮らせば、富がそこに帰し財が集まる。百円の身代を百二十円、百三十円で暮らせば、貧が来て財が去る。ただ分を超えて進むか、分の内に控えるかの違いだけである。ある歌に「有ると言えば有ると人は思うだろう、呼べば答える山彦の声のように」とあるとおり、世の人は今財が有ってもその有る原因を知らない。今有る物はやがて無くなり、今無い物はやがて有る。たとえば今有った銭が無くなったのは物を買ったからであり、今無い銭が有るようになるのは働いたからだ。縄を一房なえば五厘が手に入り、一日働けば十銭が手に入る。その十銭も酒を飲めばすぐに無くなる。明白で疑いようのない世の中である。『中庸』に「誠であれば明らかになり、明らかであれば誠になる」とある。縄を一房なえば五厘になり、五厘を出せば縄一房が来る。晴天白日のように明快な世の中なのだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、富と貧とは、元(もと)遠(とお)く隔(へだ)つ物にあらず、只(ただ)少しの隔(へだたり)なり、其本源(ほんげん)只一つの心得(こころえ)にあり、貧者は昨日の為に今日勤め、昨年の為に今年勤む、故に終身(しゅうしん)苦(くる)しんで其功なし、富者は明日の為に今日勤め、来年の為に今年勤め、安楽自在(あんらくじざい)にして、成す事成就(じょうじゅ)せずと云ふ事なし、然(しか)るを世の人、今日飲む酒無き時は、借りて飲み、今日食ふ米なき時は、又借りて食ふ、是(これ)貧窮(ひんきゅう)すべき元因(もといん)なり、今日薪(たきぎ)を取りて、明朝(みょうちょう)飯(めし)を炊(た)き、今夜繩(なわ)を索(な)ふて、明日籬(まがき)を結(むす)ばば、安心にして、差支(さしつか)へなし、然るを貧者の仕方は、明日取る薪にて、今夕(こんせき)の飯を炊かんとし、明夜索ふ繩を以て、今日籬を結ばんとするが如し、故に苦しんで功成らず、故に予(よ)常に曰く、貧者草を刈らんとする時、鎌(かま)なし、之を隣(となり)に借りて、草を刈る常の事なり、是貧窮を免(まぬか)るる事能(あた)はざるの元因なり、鎌なくば先(ま)づ日雇取(ひやといと)りを為すべし、此賃銭(ちんせん)を以て、鎌を買ひ求(もと)め、然る後に草を刈るべし、此道は則(すなわ)ち開闢元始(かいびゃくげんし)の大道に基(もとづ)く物なるが故に、卑怯(ひきょう)卑劣(ひれつ)の心なし、是神代(かみよ)の古(いにしえ)、豊芦原(とよあしはら)に天降(あまくだ)りし時の、神の御心(みこころ)なり、故に此心ある者は、富貴(ふうき)を得、此心無き者は、富貴を得る事能はず
-
二宮翁夜話・巻之三翁又曰く、世人口には貧富(ひんぷ)驕倹(きょうけん)を唱ふるといへども、何を貧と云ひ何を富と云ひ、何を驕(きょう)と云ひ何を倹(けん)と云ふ、理を詳(つまびら)かにせず。天下固(もと)より大も限なし小も限なし。十石を貧と云へば無禄(むろく)の者あり、十石を富といへば百石のものあり、百石を貧といへば五十石の者あり、百石を富といへば千石万石あり。千石を大と思へば世人小旗本(こはたもと)といふ、万石を大と思へば世人小大名といふ。然らば何を認(みと)めて貧富大小を論ぜん。譬(たと)へば売買の如し。物と価(あたい)とを較(くら)べてこそ下直高直(げじきこうじき)を論ずべけれ、物のみにして高下を言ふべからず、価のみにて又高下を論ずべからざるが如し。是れ世人の惑ふ処なれば、今是を詳かに云ふべし。曰く千石の村戸数一百、一戸十石に当る、是れ自然の数なり。是を貧にあらず富にあらず、大にあらず小にあらず、不偏不倚(ふへんふい)の中と云ふべし。此中に足らざるを貧と云ひ、此中を越(こゆ)るを富と云ふ。此十石の家九石にて経営(いとな)むを是を倹といひ、十一石にて暮すを是を驕奢(きょうしゃ)と云ふ。故に予常に曰く、中は増減の源、大小両名の生ずる処なりと。されば貧富は一村一村の石高平均度(へいきんど)を以て定め、驕倹は一己一己の分限を以て論ずべし。其分限に依ては、朝夕膏粱(こうりょう)に飽き錦繡(きんしゅう)を纏(まと)ふも玉堂(ぎょくどう)に起臥(きが)するも奢(おごり)にあらず、分限に依ては米飯も奢なり、茶も烟草(たばこ)も奢なり。謾(みだ)りに驕倹を論ずる事勿れ。
-
二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
-
二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、米は多く蔵につんで少しづゝ炊き、薪(たきぎ)は多く小屋に積んで焚く事は成る丈(たけ)少くし、衣服は着らるるやうに扱(こしら)へて、なる丈着ずして仕舞ひおくこそ、家を富(と)ますの術(じゅつ)なれ、則(すなわち)国家経済の根元なり、天下を富有にするの大道も、其実(そのじつ)この外にはあらぬなり。
-
二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、農にても商にても、富家(ふか)の子弟は、業(ぎょう)として勤むべき事なし、貧家の者は活計(かっけい)の為に、勤めざるを得ず、且(かつ)富を願(ねが)ふが故に、自ら勉強す、富家の子弟は、譬(たと)へば山の絶頂に居るが如く、登るべき処なく、前後左右皆(みな)眼下なり、是に依(よ)りて分外(ぶんがい)の願を起し、士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、終(つい)に滅亡す、天下の富者皆然(しか)り、爰(ここ)に長く富貴を維持し、富貴を保つべきは、只(ただ)我道(わがみち)推譲の教(おしえ)あるのみ、富家の子弟、此推譲の道を蹈(ふ)まざれば、千百万の金ありといへども、馬糞茸(ばふんたけ)と何ぞ異(ことな)らん、夫(それ)馬糞茸は季候に依りて生じ、幾程(いくほど)もなく腐廃し、世上の用にならず、只徒(いたず)らに生じて、徒らに滅するのみ、世に富家と呼ばるゝ者にして、如斯(かくのごとく)なる、豈(あに)惜しき事ならずや。
-
二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、多く稼いで、銭を少く遣(つか)ひ、多く薪(たきぎ)を取(とっ)て焚く事は少くする、是(これ)を富国の大本(たいほん)、富国の達道(たつどう)といふ、然(しか)るを世の人是を吝嗇(りんしょく)といひ、又(また)強欲と云(いう)、是心得違ひなり、夫(それ)人道は自然に反して、勤めて立つ処の道なれば貯蓄を尊(たっと)ぶが故なり、夫貯蓄は今年の物を来年に譲る、一つの譲道(じょうどう)なり、親の身代(しんだい)を子に譲るも、則(すなわち)貯蓄の法に基(もと)する物なり、人道は言ひもてゆけば貯蓄の一法のみ、故に是を富国の大本、富国の達道と云(いう)なり。