二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、儒に、至善に止るとあり、仏に、諸善奉行と云り、然れども其善と云物、如何なる物ぞと云ふ事、慥ならぬ故に、人々善を為す積りにて、其為す処皆違へり、夫元善悪は一円也、盗人仲間にては、能盗むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然に、世法は盗を大悪とす、其懸隔此の如し、而て天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬ば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体よりして、米を善とし、莠を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別ちあらん、夫莠草は、生るも早く茂るも早し、天地生々の道に随ふ事、速なれば、是を善草と云も不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚迂闊なれば、悪草と云も不可なかるべし、然るに只食ふべきと、食ふ可からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出たる、癖道にあらずして何ぞ、此理を知らずばあるべからず、夫上下貴賤は勿論、貸す者と借る者と、売る人と買ふ人と、又人を遣ふ者、人に遣はるゝ者に引当て、能々思考すべし、世の中万般の事皆同じ、彼に善なれば是に悪しく、是に悪きは彼によし、生を殺して喰ふ者はよかるべけれど、喰はるゝ物には甚悪し、然といへ共、既に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂る事能はざるを如何せん、米麦蔬菜といへ共、皆生物にあらずや、予此理を尽し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々が住処にぞある」と詠るなり、され共、是は其理を云るのみ、夫人は米食ひ虫なり、此米食虫の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖するを善とし、此三ッの物を、損害するを悪と定む、人道にて云処の善悪は、是を定規とする也、此に基きて、諸般人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立し物なれば、天道とは格別なる事論を待ず、然といへども、天道に違ふにはあらず、天道に順ひつゝ違ふ処ある道理を知らしむるのみ
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ
現代語訳
翁が言われた。儒には「至善に止まる」とあり、仏には「諸善奉行(もろもろの善を行え)」と言う。しかしその善というものがどのようなものかがはっきりしないので、人々は善を行うつもりでいて、その行いはみな間違っている。そもそも善悪はもと一つのものだ。盗人仲間では、うまく盗むのを善とし、人を害しても盗みさえすれば善とするだろう。ところが世間の法は盗みを大悪とする。その隔たりはこのようなものだ。そうして天には善悪がない。善悪は人の道の上で立てられたものである。譬えば草木にどうして善悪があろうか。この人間の体からして、米を善とし莠(雑草)を悪とする。食物になるかならないかによってである。天地にどうしてこの区別があろうか。そもそも莠は生えるのも早く茂るのも早い。天地の生々の道に従うことが速やかだから、これを善草と言ってもよいはずだ。米麦のように人力を借りて生じるものは、天地の生々の道に従うことがはなはだ鈍いから、悪草と言ってもよいはずだ。ところがただ食べられるか食べられないかで善悪を分けるのは、人間の体から出た癖でなくて何であろう。この道理を知らねばならない。上下貴賤はもちろん、貸す者と借りる者、売る人と買う人、また人を使う者と人に使われる者に引き当てて、よくよく考えるべきだ。世の中の万事がみな同じで、あちらに善ければこちらに悪く、こちらに悪いのはあちらに善い。生き物を殺して食う者はよかろうが、食われる物にははなはだ悪い。とはいえ、すでに人間の体がある以上、生き物を食べなければ命をまっとうできないのをどうしよう。米麦や野菜といっても、みな生き物ではないか。私はこの道理を突き詰めて「見渡せば遠いも近いもないのだった、それぞれが自分の住処にあるのだ」と詠んだのである。しかしこれはその道理を言ったにすぎない。そもそも人は米食い虫である。この米食い虫の仲間の中で立てた道は、衣食住になるべき物を増やすのを善とし、この三つの物を損なうのを悪と定める。人の道でいう善悪は、これを物差しとするのだ。これに基づいて、いろいろと人のために便利なものを善とし、不便利なものを悪と立てたのだから、天道とは格別に異なることは論じるまでもない。とはいえ、天道に違反するのではない。天道に従いながらも違う点がある、という道理を知らせるだけである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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葉隠・聞書第二惡事の引合ひは貪瞋痴、吉事の引合ひは智仁勇に洩れず、よく撰り分けたるものなり。世上の惡事出來たる時、引合ひて見るに、貪瞋痴と、吉事を引合ひて見るに、智仁勇に洩れずとなり。
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論語 里仁篇子曰、苟志於仁矣、無惡也。
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二宮翁夜話・巻之一翁曰く、夫れ世界は旋転してやまず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明くれば昼となり、昼になれば夜となり、又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず。譬へば銭を遣れば品が来り、品を遣れば銭が来るに同じ。寝ても醒めても、居ても歩行ても、昨日は今日になり今日は明日になる。田畑も海山も皆その通り。爰にて薪をたきへらすほどは、山林にて生木し、爰で喰へらす丈の穀物は、田畑にて生育す。野菜にても魚類にても、世の中にて減るほどは、田畑河海山林にて生育し、生れたる子は、時々刻々年がより、築たる堤は時々刻々に崩れ、掘たる堀は日々夜々に埋り、葺たる屋根は日々夜々に腐る。是即ち天理の常なり。然るに人道は、是と異なり。如何となれば、風雨定めなく、寒暑往来する此世界に、毛羽なく鱗介なく、裸体にて生れ出で、家がなければ雨露が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず。爰に於て、人道と云ふ物を立て、米を善とし、莠を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす。皆人の為に立てたる道なり。依て人道と云ふ。天理より見る時は善悪はなし。其証には、天理に任する時は、皆荒地となりて、開闢のむかしに帰るなり。如何となれば、是則ち天理自然の道なれば也。夫れ天に善悪なし、故に稲と莠とを分たず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ。人道はその天理に順ふといへども、其内に各区別をなし、稗莠を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。爰に到ては天理と異なり。如何となれば、人道は人の立つる処なれば也。人道は譬ば料理物の如く、三倍酢の如く、歴代の聖主賢臣料理し塩梅して拵らへたる物なり。されば、ともすれば破れんとす。故に政を立て、教を立て、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸く人道は立つなり。然るを天理自然の道と思ふは、大なる誤なり。能く思ふべし。
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呂氏春秋・振亂③夫攻伐之事,未有不攻無道而罰不義也。攻無道而伐不義,則福莫大焉,黔首利莫厚焉。禁之者,是息有道而伐有義也,是窮湯、武之事而遂桀、紂之過也。凡人之所以惡為無道不義者,為其罰也;所以蘄〔為〕有道行(有)義者,為其賞也。今無道不義存,存者賞之也;而有道行義窮,窮者罰之也。賞不善而罰善,欲民之治也,不亦難乎?故亂天下害黔首者,若論為大。
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二宮翁夜話・巻之三或問、地獄極楽と云物実にありや、翁曰、仏者はありといへども、取出して人に示す事は出来ず、儒者はなしといへども、又往て見きはめたるにはあらず、ありと云もなしと云も、共に空論のみ、然といへ共、人の死後に生前の果報はなくて、叶はざる道理也、儒者のなしと云は、三世を説ざるに依る、仏は三世を説く也、一つは説ず一ッは説くも、三世は必あり、されば地獄極楽なしと云べからず、見る事ならざればとて、なしと極むべからず、扨地獄極楽はありといへ共、念仏宗にては、念仏を唱ふる者は極楽へゆき、唱へざる者は地獄へおつと、法華宗にては、妙法を唱ふる者は浮み、唱へざる者は沈むと、又甚しきは寺へ金穀を納る者は極楽へゆき、納めざる者は地獄におつと、斯の如き道理は決してあるべからず、夫元地獄は悪事をなしたる者の、死してやらるゝ処、極楽は善事をなしたる者の、死してゆく処なる事疑ひなし、夫地獄極楽は勧善懲悪の為にある物にして、宗旨の信不信の為にある物にあらざる事明らか也、迷ふべからず疑ふべからず