二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、世人運といふ事に心得違ひあり、譬ば柿梨子などを籠より打明る時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり、此を運と思へり、運といふ物此の如き物ならば頼むにたらず、如何となれば、人事を尽してなるにあらずして、偶然となるなれば、再入れ直して明る時はみな前と違ふべし、是博奕の類にして運とは異なり、夫運といふは、運転の運にして所謂廻り合せといふ物なり、夫運転は世界の運転に基元して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり、幾回旋転するも、此定規に外れずして廻り合するを云なり、能世の中にある事也、灯燈の火の消たるために、禍を免れ、又履物の緒の切れたるが為に、災害を逸るゝ等の事、これ偶然にあらず真の運なり、仏に云処の、因応の道理則是なり、儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり、夫仏に三世の説あり、此理は三世を観通せざれば、決して疑ひなき事あたはず、疑ひの甚しき、天を怨み人を恨むに至る、三世を観通すれば、此疑ひなし、雲霧晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる、故に仏教三世因縁を説く、是儒の及ばざる処なり、今爰に一本の草あり、現在若草なり、其過去を悟れば種なり、其未来を悟れば花咲き実法りなり、茎高く延びたるは肥多き因縁なり、茎の短きは肥のなき応報なり、其理三世をみる時は明白なり、而て世人此因果応報の理を、仏説と云へり、是は書物上の論なり、是を我流儀の不書の経に見る時は、釈氏未此世に生れざる昔より行れし、天地間の真理なり、不書の経とは、予が歌に「声もなく臭もなく常に天地は書かざる経を繰返しつゝ」と云る、四時行れ、百物成る処の真理を云、此経を見るには、肉眼を閉ぢ、心眼を開きて見るべし、然らざれば見えず、肉眼に見えざるにはあらねども徹底せざるを云なり、夫因報の理は、米を蒔けば米が生へ、瓜の蔓に茄子のならざるの理なり、此理天地開闢より行れて、今日に至て違はず、皇国のみ然るにあらず、万国皆然り、されば天地の真理なる事、弁を待たずして明なり。
新字:翁曰、世人運といふ事に心得違ひあり、譬ば柿梨子などを籠より打明る時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり、此を運と思へり、運といふ物此の如き物ならば頼むにたらず、如何となれば、人事を尽してなるにあらずして、偶然となるなれば、再入れ直して明る時はみな前と違ふべし、是博奕の類にして運とは異なり、夫運といふは、運転の運にして所謂廻り合せといふ物なり、夫運転は世界の運転に基元して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり、幾回旋転するも、此定規に外れずして廻り合するを云なり、能世の中にある事也、灯灯の火の消たるために、禍を免れ、又履物の緒の切れたるが為に、災害を逸るゝ等の事、これ偶然にあらず真の運なり、仏に云処の、因応の道理則是なり、儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり、夫仏に三世の説あり、此理は三世を観通せざれば、決して疑ひなき事あたはず、疑ひの甚しき、天を怨み人を恨むに至る、三世を観通すれば、此疑ひなし、雲霧晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる、故に仏教三世因縁を説く、是儒の及ばざる処なり、今爰に一本の草あり、現在若草なり、其過去を悟れば種なり、其未来を悟れば花咲き実法りなり、茎高く延びたるは肥多き因縁なり、茎の短きは肥のなき応報なり、其理三世をみる時は明白なり、而て世人此因果応報の理を、仏説と云へり、是は書物上の論なり、是を我流儀の不書の経に見る時は、釈氏未此世に生れざる昔より行れし、天地間の真理なり、不書の経とは、予が歌に「声もなく臭もなく常に天地は書かざる経を繰返しつゝ」と云る、四時行れ、百物成る処の真理を云、此経を見るには、肉眼を閉ぢ、心眼を開きて見るべし、然らざれば見えず、肉眼に見えざるにはあらねども徹底せざるを云なり、夫因報の理は、米を蒔けば米が生へ、瓜の蔓に茄子のならざるの理なり、此理天地開闢より行れて、今日に至て違はず、皇国のみ然るにあらず、万国皆然り、されば天地の真理なる事、弁を待たずして明なり。
書き下し
翁曰く、世人運(うん)といふ事に心得違ひあり。譬(たと)へば柿梨子(かきなし)などを籠(かご)より打明(うちあ)くる時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり、此(これ)を運と思へり。運といふ物此の如き物ならば頼(たの)むにたらず。如何となれば、人事を尽(つく)してなるにあらずして、偶然(ぐうぜん)となるなれば、再(ふたた)び入れ直して明くる時はみな前と違(たが)ふべし。是博奕(ばくえき)の類にして運とは異なり。夫(それ)運といふは、運転(うんてん)の運にして所謂(いわゆる)廻り合せといふ物なり。夫(それ)運転は世界の運転に基元(きげん)して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり、幾回(いくたび)旋転(せんてん)するも、此定規に外(はず)れずして廻り合するを云ふなり。能(よく)世の中にある事也。灯燈(ちょうちん)の火の消えたるために、禍(わざわい)を免(まぬが)れ、又履(はき)物の緒(お)の切れたるが為に、災害を逸(のが)るゝ等の事、これ偶(ぐう)然にあらず真の運なり。仏に云ふ処の、因応の道理則(すなわ)ち是なり。儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃(おう)あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。夫(それ)仏に三世(さんぜ)の説あり。此理は三世を観通(かんつう)せざれば、決して疑(うたが)ひなき事あたはず。疑ひの甚(はなは)だしき、天を怨み人を恨むに至る。三世を観通すれば、此疑ひなし。雲霧(くもきり)晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる。故に仏教三世因縁を説く。是儒の及ばざる処なり。今爰(ここ)に一本の草あり、現在若(わか)草なり。其過去を悟れば種なり、其未来を悟れば花咲き実法(みの)りなり。茎(くき)高く延びたるは肥(こえ)多き因縁なり、茎(くき)の短(みじか)きは肥のなき応報なり。其理三世をみる時は明白なり。而(しか)て世人此因果応報の理を、仏説と云へり、是は書物上の論なり。是を我流儀の不書(ふしょ)の経に見る時は、釈氏(しゃくし)未(いま)だ此世に生れざる昔より行はれし、天地間の真理なり。不書の経とは、予が歌に「声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地は書かざる経を繰返(くりかへ)しつゝ」と云へる、四時行はれ、百物成る処の真理を云ふ。此経を見るには、肉眼を閉(と)ぢ、心眼を開きて見るべし。然(しか)らざれば見えず。肉眼に見えざるにはあらねども徹底(てってい)せざるを云ふなり。夫(それ)因報の理は、米を蒔けば米が生(は)へ、瓜の蔓(つる)に茄子(なす)のならざるの理なり。此理天地開闢(かいびゃく)より行はれて、今日に至りて違(たが)はず。皇国のみ然るにあらず、万国皆然り。されば天地の真理なる事、弁を待たずして明なり。
現代語訳
翁が言われた。世間の人は「運」というものを取り違えている。たとえば柿や梨などを籠からあけると、自然に上になるもの下になるもの、上を向くもの下を向くものがある。これを運だと思っている。運というものがこのようなものなら、頼るに足りない。なぜなら、人事を尽くしてそうなるのではなく偶然そうなるのだから、もう一度入れ直してあければ、みな前と違ってしまうはずだ。これは博打の類であって運とは違う。そもそも運とは「運転」の運であり、いわゆる巡り合わせというものだ。運転は世界の運行に基づき、天地に定まった規則があるから、善行を積む家に幸いが余り、不善を積む家に災いが余る。何度巡っても、この規則から外れずに巡り合わせるのを運という。世の中によくあることだ。提灯の火が消えたおかげで禍を免れ、履物の緒が切れたおかげで災害を逃れる、といったことは、偶然ではなく本当の運だ。仏の説く因応(因果応報)の道理がこれである。儒の道に「善行を積む家に幸いが余り、不善を積む家に災いが余る」とあるのは天地の規則で、古今を貫く格言だが、仏の理によらなければはっきりしない。そもそも仏には三世(過去・現在・未来)の説がある。この理は三世を見通さなければ、決して疑いなく理解できない。疑いが甚だしくなると、天を怨み人を恨むに至る。三世を見通せばこの疑いはない。雲霧が晴れて青空を見るように、みな自業自得だと分かる。だから仏教は三世の因縁を説く。これは儒の及ばぬところだ。今ここに一本の草がある。現在は若草だが、その過去を悟れば種であり、未来を悟れば花咲き実る姿だ。茎が高く伸びたのは肥料が多かった因縁、茎が短いのは肥料がなかった報いだ。その理は三世で見れば明白だ。ところが世間はこの因果応報の理を仏の説だという。それは書物の上の議論だ。これを私流の「書かざる経」で見れば、釈迦がまだこの世に生まれる前の昔から行われていた、天地の真理である。書かざる経とは、私の歌に「音もなく香もなく常に天地は書かざる経を繰り返している」と詠んだ、四季が巡り万物が成るという真理をいう。この経を見るには、肉眼を閉じ心眼を開いて見るべきだ。そうしなければ見えない。肉眼に見えないのではなく、徹底して見きわめられないということだ。因果応報の理とは、米をまけば米が生え、瓜の蔓に茄子はならないという理だ。この理は天地開闢から行われて今日まで変わらない。日本だけでなく、万国みなそうだ。だから天地の真理であることは、論じるまでもなく明らかだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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二宮翁夜話・巻之五或(あるひと)問ひて曰(いわ)く、因果(いんが)と天命との差別如何(いかん)、翁(おきな)曰く、因果の道理の尤(もっと)も見易(みやす)きは、蒔種(まくたね)の生(お)ふるなり、故に予(よ)人に諭(さと)すに「米蒔けば米の草はへ米の花咲つゝ米の実(み)のる世の中」の歌を以てす、仏は、種に因(よ)りて生ずる方より見て、因果と云へり、然(しか)りといへども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔くといへども、天気を受けざれば育せず、されば種ありといへ共(ども)、天地の令命(れいめい)に依らざれば生育せず、花咲き実のらざる也、儒(じゅ)は、此方(このほう)より見て天命と云へるなり、夫(それ)天命とは、天の下知(げち)と云ふが如し、悪人の刑を免(まぬか)れたるを見て、仏は因縁未(いま)だ熟せずと云ひ、儒は天命未だ降(くだ)らずと云ふ、皆米を蒔きて未だ実らざるを云ふなり、此悪人捕縛(ほばく)に就(つ)くを見て、仏は因縁熟せりと云ひ、儒は天命到れりと云ふ、而(しか)して之を捕縛する者は上意(じょうい)と云へり、此上意則(すなわ)ち天命と云ふに同じ、夫借りたる物を約定(やくじょう)の通り返すは、世上の通則なり、されば規則の通りふむべきは定理なるを、履(ふ)まざる時は、貸方(かしかた)之を請求して、上命を以て此規則を履ましむ、爰(ここ)に至りて身代限(しんだいかぎ)りとなる、仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云ひ、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云ふなり、共に言語上に聊(いささ)かの違ひあるのみ、其理に於ては違ひなし、又問ふ、因縁とは如何、翁曰く、因は譬(たと)へば蒔きたる種也、之を耕耘培養(こううんばいよう)するは縁なり、種を蒔きたる因と、培養したる縁とに依りて、秋の実のりを得る、之を果と云ふなり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、方位を以て禍福(かふく)を論じ、月日を以て吉凶を説く事、古(いにしえ)よりあり、世人之を信ずれども、この道理あるべからず。禍福吉凶は方位日月などの関する所にあらず、之を信ずるは迷ひなり。悟道家(ごどうか)は本来無東西(ほんらいむとうざい)とさへ云ふなり。夫(そ)れ禍福吉凶は己々(おのおの)が心と行ひとの招く所に来るあり、又過去の因縁に依りて来るもあり。或る智識(ちしき)の強盗に遭ひたる時の歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、何(いず)れ報いは有りとこそしれ」と詠める通りなるべし、必ず迷ふ事勿(なか)れ。夫れ盗賊は鬼門より入り来らず、悪日(あくにち)にのみ来らず、締りを忘るれば賊は入り来ると思へ。火の用心を怠れば火災起るべし。試みに戸を明けて置きて見るべし、犬這入(はい)りて食物を求むるなり、是(これ)眼前なり。古語に曰く、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)ありと、是万古(ばんこ)を貫きて動かざる真理なり、決して疑ふべからず、之を疑ふを迷と云ふ。夫れ米を蒔きて米実法(みの)り、麦を蒔きて麦実法るは眼前にて、年々歳々違はず、天理なるが故なり。世に不成日(ふじょうび)と云へるあり、されど此の日になす事随分成就す。吉日なりとて為せし事必しも成就するにあらず、吉日を選んで為せし婚姻も、離縁になる事あり、日を選まずして結婚したるに偕老(かいろう)するもあるなり。かゝる事は決して信ずべからず、信ずべきは積善の家余慶ありの金言なり。されど余慶も余殃も速(すみやか)に回り来るものにあらず、百日にして実法る蕎麦あり、秋蒔きて来夏に実のる麦あり、諺に桃栗三年柿八年と云ふが如し、因果にも応報にも、遅速ある事を忘るゝ事勿れ。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、世人の常情(じょうじょう)、明日食ふべき物なき時は、他に借(かり)に行かんとか、救ひを乞(こ)はんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食ふべき物なしと云ふ時は、釜(かま)も膳椀(ぜんわん)も洗ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤(もっと)もの事なれども、此の心は困窮其の身を離れざるの根元なり、如何(いか)となれば、日々釜を洗ひ膳椀を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是(これ)心得違(ちが)ひなり、たとへ明日食ふべき物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(つな)ぎたる、恩あればなり、是恩を思ふの道なり、此の心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔(へだて)あるにあらず、明日助からむ事のみを思ひて、今日までの恩を思はざると、明日助からむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二つのみ、是大切の道理なり、能々(よくよく)心得べし、仏家にては、此の世は仮(かり)の宿、来世こそ大切なれと教ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽んずるは誤(あやま)れり、今一草を以て之を譬(たと)へん、夫(それ)草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好(よ)き実を結ばんには、現世の草の時、芽立(めだち)より出精して、露を吸ひ肥(こやし)を吸ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(しの)ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂(しげ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其の如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(た)ち身を慎(つつし)み道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏(あんのん)なる事を得んや、夫地獄(じごく)は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽(ごくらく)は善事を為したる者の行く処なる事、鏡に掛けて明らかなれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべきなり、先(ま)づ此の身は如何にして生れ出でしやと、跡を振返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(いずく)んぞ死を知らん、と云へり、夫性(せい)は天の令命なり、身体は父母の賜(たまもの)なり、其の元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先づ此の理より窮(きわ)めて、天徳に報ひ、父母の恩に報ゆる行ひを立つべし、性に率(したが)ひて道を蹈むは、人の勤(つとめ)なり、此の勤を励む時は、来世は願はずして、安穏なる事疑ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以(ゆえん)なり、釈氏(しゃくし)の之を捨てて、世外に立ちしは、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんが為なり、世を救はんには、世外に立たざれば、広く救ひ難きが故なり、譬ば己が坐して居る畳を揚げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐべからざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷へるなり、然れども僧侶は其の法を伝へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命(あんじんりゅうめい)は爰(ここ)にあり、惑(まど)ふべからず。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、善因(ぜんいん)には善果(ぜんか)あり、悪因(あくいん)には悪果(あっか)を結(むす)ぶ事は、皆人の知る処なれども、目前(もくぜん)に萌(きざ)して、目前に顕(あらわ)るる物なれば、人々能(よく)恐(おそ)れ能謹(つつし)みて、善種(ぜんしゅ)を植(う)え悪種(あくしゅ)を除(のぞ)くべきなれども、如何(いか)せん、今日蒔(まく)種の結果(けっか)は、目前に萌(きざ)さず、目前に現れずして、十年廿年(にじゅうねん)乃至(ないし)四十年五十年の後に現るる物なるが故に、人々迷(まよ)ふて懼(おそ)れず、歎(なげか)はしき事ならずや、其上(そのうえ)に又前世(ぜんせ)の宿縁(しゅくえん)あり、如何ともすべからず、是(これ)世の人の迷(まよい)の元根(がんこん)なり、然(しか)れども、世の中万般(ばんぱん)の事物、元因(げんいん)あらざるはなく、結果あらざるはなし、一国の治乱(ちらん)一家の興廃(こうはい)、一身の禍福(かふく)皆然(しか)り、恐れ慎(つつし)んで、迷ふ事勿(なか)れ
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ