二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、凡庸の者は、繁多なることの記憶は出来兼ぬるものなり。譬へば此茶碗十や二十は、誰にても数ふる事容易なれども、之を四百五百とする時は中々間違へぬ様に数ふる事は出来ぬものなり。数多き物に番号を付ける時、二十や三十迄は間違ふ事無けれど、三百四百となると知らず知らず間違ふものなり。故に予は唯一理を明かにする事を尊むなり。一理誠に明かなれば、万理に通ず。天地の間最知り難き道理は、言論強く雄弁の者の勝となるべし。故に孔子は一以て之を貫くと言はれたり。卿等此処に眼を付けて能く思考せば、世界万般の道理おのづから知らるべし。予が歌に「古道につもる木の葉をかきわけて、天照す神の足跡を見ん」足跡を見る事を得ば万理一貫すべし。然せずして徒らに仁は云々、義は云々と云時は、之を聴くも之を講ずるも共に無益なり。余は云に足らず、聞くに足らず。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、凡庸(ぼんよう)の者は、繁多(はんた)なることの記憶は出来兼(か)ぬるものなり。譬(たと)へば此(こ)の茶碗、十や二十は、誰にても数ふる事容易なれども、之を四百五百とする時は中々間違へぬ様に数ふる事は出来ぬものなり。数多き物に番号を付ける時、二十や三十迄は間違ふ事無けれど、三百四百となると知らず知らず間違ふものなり。故に予(われ)は唯(ただ)一理を明かにする事を尊むなり。一理誠に明かなれば、万理に通ず。天地の間、最(もっと)も知り難き道理は、言論強く雄弁の者の勝(かち)となるべし。故に孔子は一以て之を貫くと言はれたり。卿等(けいら)此処に眼を付けて能く思考せば、世界万般の道理おのづから知らるべし。予が歌に「古道(ふるみち)につもる木の葉をかきわけて、天照(あまて)らす神の足跡を見ん」。足跡を見る事を得ば万理一貫すべし。然(しか)せずして徒(いたずら)に仁は云々、義は云々と云ふ時は、之を聴くも之を講ずるも共に無益なり。余(よ)は云ふに足らず、聞くに足らず。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。凡庸な者は、たくさんの物事を記憶することはできないものだ。たとえばこの茶碗、十や二十なら誰でも数えるのはたやすいが、四百五百ともなると、なかなか間違えずに数えることはできない。数の多い物に番号をつけるとき、二十や三十までは間違えないが、三百四百となると知らず知らず間違えるものだ。だから私はただ一つの理を明らかにすることを尊ぶ。一つの理が本当に明らかになれば、万の理に通じる。天地の間で最も分かりにくい道理は、弁の立つ雄弁な者の言い分が勝ちとなってしまいがちだ。だから孔子は「一をもってこれを貫く」と言われた。あなたたちがここに着目してよく考えれば、世の中のあらゆる道理が自然に分かるはずだ。私は「古い道に積もった木の葉をかき分けて、天照らす神の足跡を見よう」と詠んだ。その足跡を見ることができれば、万の理は一つに貫かれるだろう。そうせずに、いたずらに仁がどうの義がどうのと論じるだけなら、それを聴くのも講じるのも共に無益だ。取るに足らず、聞くに値しない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、世界万般皆同じく一理なり、予一草を以て万理を究(きわ)む、儒書に、其の書始めは一理を言ひ、中は散じて万事となり、末(すえ)復(また)合して一理となる、之を放(はな)てば則(すなわ)ち六合(りくごう)に弥(わた)り、之を巻けば退(しりぞ)きて密に蔵(かく)る、其の味ひ窮(きわ)まりなし、とあり、今戯(たわむ)れに、一草を以て之を読まん、曰く、此の草始めは一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法(みの)れば合して一種となる、之を蒔植(うう)れば六合に弥り、之を蔵(おさ)むれば密に蔵る、之を食すれば其の味ひ窮まりなし、又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、とあり、又一草を以て之を読まん、曰く、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植うるが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々(かか)。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道(しどう)二つあらず、至理(しり)は万国同じかるべし、只理(り)の窮(きわ)めざると尽(つく)さゞるあるのみ、然(しか)るに諸道各々(おのおの)道を異(こと)にして、相争(あらそ)ふは、各(おのおの)区域(くいき)を狭(せば)く垣根(かきね)を結回(ゆいまわ)して、相隔(へだ)つるが故なり、共に三界城内(さんがいじょうない)に立籠(たてこも)りし、迷者(めいしゃ)と云(いい)て可なり、此(この)垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に籠(こも)れる論は、聞(きく)も益なし、説(とく)も益なし。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、心狭く局(かぎ)りては、真の道理を見る事能(あた)はざる物なり。夫(そ)れ世界は広し、故に心をば広く持つべし。されども其の広き世界も己(おのれ)と云ひ、我と云ふ私物(しぶつ)を一つ中に置きて見る時は、世界の道理は其の己に隔てられて、其の見る所は皆半(なかば)になるなり。己と云ふ物にて半分を見る時は、借りたる者は返さぬ方が都合よく、人の物を盗むは尤(もっと)も都合よかるべけれど、此隔てなる己と云ふ物を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云ふ道理が明らかに見え、盗むと云ふ事は悪事なる事も明らかに分るなり。故に此己と云ふ私物を取り捨るの工夫が専一(せんいつ)なり、儒も仏も此取捨方(とりすてかた)を教ふるを専一とす。論語に己に克ちて礼に復(かえ)れと教へたるも、仏にては見性(けんしょう)といひ、悟道(ごどう)といひ、転迷(てんめい)と云ふ、皆此私を取り捨るの修行なり。此私の一物を取捨る時は、万物不生不滅不増不滅の道理も又明かに見ゆるなり。此(かく)の如く明白なる世界なれども、此己を中間(ちゅうかん)に置きて彼と是とを隔つる時は、直(す)ぐ其座に得失損益増減生滅等の種々無量の境界(きょうがい)現出するなり、恐るべし。然れど是又是非無き次第なり、其は豆の艸(くさ)になる時は、豆の実を見る事能はず、豆の実になる時は豆の草は出来ざる世界なる故に、万物の霊なる人といへども免れ難きなり。此免れ難きを免るゝを悟といひ、免れざるを迷と云ふなり。予が戯(たわむ)れに詠める歌に「穀物の夫食(ふじき)となるも味も香も、草より出でゝ艸になるまで」「百艸(ひゃくそう)の根も葉も枝も花も実も、種より出でゝ種になるまで」此理(このことわり)を見るの一つのみ、呵々(かか)。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、夫(そ)れ誠(まこと)の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚え、書籍(しょじゃく)もなく記録もなく、師匠もなく、而(しか)して人々自得して忘れず、是(これ)ぞ誠の道の本体なる。渇(かっ)して飲み飢(う)えて食(くら)い、労(つか)れて寝(い)ね、醒(さ)めて起く、皆此(こ)の類(るい)なり。古歌に「水鳥のゆくもかへるも跡たえてされども道は忘れざりけり」といへるが如し。夫れ記録もなく、書籍もなく、学ばず習はずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり。夫れ我が教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文(きょうもん)とす。予(わ)が歌に「音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかへしつつ」とよめり。此(か)くのごとく日々繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛(かか)る尊き天地の経文を外(ほか)にして、書籍の上に道を求(もと)むる、学者輩(はい)の論説は取らざるなり。能々(よくよく)目を開(ひら)きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり。夫れ世界横の平(たいら)は水面を至れりとす、竪(たて)の直(すぐ)は垂針(さげぶり)を至れりとす。凡(およ)そ此の如き万古(ばんこ)動かぬ物あればこそ、地球の測量も出来るなれ。是を外にして測量の術(じゅつ)あらむや。暦道(れきどう)の表(ひょう)を立てて景(かげ)を測るの法、算術の九々(くく)の如き、皆自然の規(のり)にして万古不易(ふえき)の物なり。此物によりてこそ、天文も考ふべく暦法をも算すべけれ。此物を外にせばいかなる智者といへども、術を施すに方(ほう)なからん。夫れ我道も又然(しか)り。天言(ものい)はず、而して四時(しいじ)行はれ百物成る処の、不書の経文、不言の教戒、則(すなわ)ち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(みの)るが如き、万古不易の道理により、誠の道に基きて之を誠にするの勤(つとめ)をなすべきなり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、内に実(じつ)ありて外に顕(あらわ)るゝは、天理自然なり。内に実有りて外に顕れざるの理(ことわり)必(かならず)なし。譬(たと)へば日暮(ひぐれ)に燈火(ともしび)を点ずるを見るべし、附木(つけぎ)に火の付くや早(はや)、障子に火の影は移りて外より家の内に燈火のある事の知らるゝなり。其外深山(しんざん)の花木、泥中(でいちゅう)の鰌(どじょう)は、自(みずか)ら知らざる積(つも)りにても、人は早くも彼の山に花さきたり、此泥中に鰌の居ると知るなり。思はざるべけんや。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。