二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道二つあらず、至理は万国同じかるべし、只理の窮めざると尽さゞるあるのみ、然るに諸道各々道を異にして、相争ふは各区域を狭く垣根を結回して、相隔つるが故なり、共に三界城内に立籠りし、迷者と云て可なり、此垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に籠れる論は、聞も益なし、説も益なし。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道(しどう)二つあらず、至理(しり)は万国同じかるべし、只理(り)の窮(きわ)めざると尽(つく)さゞるあるのみ、然(しか)るに諸道各々(おのおの)道を異(こと)にして、相争(あらそ)ふは、各(おのおの)区域(くいき)を狭(せば)く垣根(かきね)を結回(ゆいまわ)して、相隔(へだ)つるが故なり、共に三界城内(さんがいじょうない)に立籠(たてこも)りし、迷者(めいしゃ)と云(いい)て可なり、此(この)垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に籠(こも)れる論は、聞(きく)も益なし、説(とく)も益なし。
現代語訳
翁が言われた。天地は一つのものであるから、日も月も一つである。だから究極の道が二つあるはずはなく、究極の真理は万国どこでも同じであるはずだ。ただ、その理を究めきるか究めきらないか、尽くすか尽くさないかの違いがあるだけだ。ところが、それぞれの道が互いに教えを異にして争い合うのは、めいめいが自分の区域を狭く区切り、垣根を張りめぐらせて互いを隔てているからである。どれも三つの世界という城の中に立てこもった迷える者だと言ってよい。この垣根を見破ってはじめて道を語るべきだ。この垣根の内側に閉じこもった議論は、聞いても益がなく、説いても益がない。
解説
尊徳は、究極の真理は世界のどこでも一つであり、神道・儒教・仏教が互いに争うのは、それぞれが宗派という垣根の中に閉じこもっているからだと説きます。報徳思想は特定の教えに固執せず、真理は一つという至誠の立場から諸道の長所を汲み取ろうとします。垣根を取り払ってこそ本当の道が見えるという姿勢は、狭い立場にとらわれず物事の本質をつかむ勤労と実践の精神に通じます。現代でも、思想や立場の違いにこだわって不毛な対立を続けるより、共通する本質を見きわめて協力する態度こそ、組織や社会を前に進める力になることを教えてくれます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳至道天地一物垣根を見破る万国同理
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、夫(そ)れ誠(まこと)の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚え、書籍(しょじゃく)もなく記録もなく、師匠もなく、而(しか)して人々自得して忘れず、是(これ)ぞ誠の道の本体なる。渇(かっ)して飲み飢(う)えて食(くら)い、労(つか)れて寝(い)ね、醒(さ)めて起く、皆此(こ)の類(るい)なり。古歌に「水鳥のゆくもかへるも跡たえてされども道は忘れざりけり」といへるが如し。夫れ記録もなく、書籍もなく、学ばず習はずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり。夫れ我が教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文(きょうもん)とす。予(わ)が歌に「音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかへしつつ」とよめり。此(か)くのごとく日々繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛(かか)る尊き天地の経文を外(ほか)にして、書籍の上に道を求(もと)むる、学者輩(はい)の論説は取らざるなり。能々(よくよく)目を開(ひら)きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり。夫れ世界横の平(たいら)は水面を至れりとす、竪(たて)の直(すぐ)は垂針(さげぶり)を至れりとす。凡(およ)そ此の如き万古(ばんこ)動かぬ物あればこそ、地球の測量も出来るなれ。是を外にして測量の術(じゅつ)あらむや。暦道(れきどう)の表(ひょう)を立てて景(かげ)を測るの法、算術の九々(くく)の如き、皆自然の規(のり)にして万古不易(ふえき)の物なり。此物によりてこそ、天文も考ふべく暦法をも算すべけれ。此物を外にせばいかなる智者といへども、術を施すに方(ほう)なからん。夫れ我道も又然(しか)り。天言(ものい)はず、而して四時(しいじ)行はれ百物成る処の、不書の経文、不言の教戒、則(すなわ)ち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(みの)るが如き、万古不易の道理により、誠の道に基きて之を誠にするの勤(つとめ)をなすべきなり。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、鐘(かね)には鐘の音あり、鼓(つづみ)には鼓の音あり、笛(ふえ)には笛の音あり、音各(おのおの)異(こと)なりといへども、其(その)音たるや一なり、只(ただ)其物に触(ふ)れて、響(ひび)きの異なるのみ、是(これ)を別々の音に聞くを、仏道にて、迷(まよい)といひ、是を只一音に聞くを、悟(さとり)と云ふが如し、されども、是を悉(ことごと)く別音に聞きて、其内をも幾箇(いくつ)にも分ちて聞かざれば、五音六律(ごいんりくりつ)分たざる故、調楽(ちょうがく)は出来ぬなり、水も朱(しゅ)にすられて赤(あか)くなり、藍(あい)に和(わ)して青(あお)く成るといへ共(ども)、地に戻(もど)せば元の清水(しみず)と成るに同じ、音は空(くう)にして打(う)てばひびき、打たざれば止む、音の空に消(きゆ)るは、打たれたる響(ひびき)の尽(つ)きたるなり、されば神といひ儒といひ仏と云ふも、本来は一なり、一の水を酒屋にては酒といひ、酢(す)屋にては酢と云ふが如き違(たが)ひのみ