二宮翁夜話 / 続篇
或曰、彼岸の文字は素儒書より出づと梧窓漫筆にありと。翁曰、文字の出所は知らずといへども、其言は仏意なり。何となれば、此岸を離れて彼の岸に到るの云なればなり。夫寒より暑に至るを春の彼岸と云ひ、暑より寒に至るを秋の彼岸と云。今一艸を以て之を云はん、春の彼岸は種の岸を離れて艸の岸に到るなり、秋の彼岸は艸の岸を離れて種の岸に到るなり。凡事此岸を離れざれば、彼の岸に到る事能はず。故に艸より艸の生ずる事なく、種より種の生ずる事なし。或は艸となり、或は種と成りて、百艸相続す。是所謂循環の理なり。されば彼岸は、仏意なる事明なり。此季節に先祖を祭る事の起りは、儒も仏も同感なるべし。
書き下し
或(ある)ひと曰(いわ)く、彼岸(ひがん)の文字は素(もと)儒書(じゅしょ)より出づと梧窓漫筆(ごそうまんぴつ)にありと。翁(おきな)曰く、文字の出所(でどころ)は知らずといへども、其(そ)の言(げん)は仏意(ぶつい)なり。何となれば、此岸(しがん)を離れて彼(か)の岸に到るの云(いい)なればなり。夫(そ)れ寒より暑に至るを春の彼岸と云ひ、暑より寒に至るを秋の彼岸と云ふ。今一艸(いっそう)を以て之を云はん、春の彼岸は種の岸を離れて艸(くさ)の岸に到るなり、秋の彼岸は艸の岸を離れて種の岸に到るなり。凡(およ)そ事、此岸を離れざれば、彼の岸に到る事能(あた)はず。故に艸より艸の生ずる事なく、種より種の生ずる事なし。或は艸となり、或は種と成りて、百艸(ひゃくそう)相続(あいつづ)く。是(これ)所謂(いわゆる)循環の理なり。されば彼岸は、仏意なる事明(あきらか)なり。此の季節に先祖を祭る事の起りは、儒も仏も同感なるべし。
現代語訳
ある人が言った。彼岸という語はもともと儒書から出ていると『梧窓漫筆』にある、と。翁(二宮尊徳)が言われた。言葉の出どころは知らないが、その意味するところは仏教の考えだ。なぜなら、此岸(この世の岸)を離れて彼の岸に到る、という意味だからである。そもそも寒さから暑さに向かう時期を春の彼岸といい、暑さから寒さに向かう時期を秋の彼岸という。いま一本の草でたとえてみよう。春の彼岸は、種の岸を離れて草の岸に到ることであり、秋の彼岸は、草の岸を離れて種の岸に到ることである。すべて物事は、此岸を離れなければ彼の岸には到れない。だから草からそのまま草が生じることはなく、種からそのまま種が生じることもない。あるときは草となり、あるときは種となって、あらゆる草が代々続いていく。これがいわゆる循環の理である。だから彼岸が仏教の考えであることは明らかだ。この季節に先祖を祭る風習が起こったのは、儒教も仏教も同じ思いからであろう。