二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、仏説面白し、今近く譬を取て云はゞ、豆の前世は草なり、草の前世は豆なり、と云が如し、故に豆粒に向へば、汝は元草の化身なるぞ、疑しく思はゞ、汝が過去を説て聞せん、汝が前世は草にして、某国某の村某が畑に生れて、雨風を凌ぎ炎暑を厭ひ草に覆はれ、兄弟を間引れ、辛苦患難を経て、豆粒となりたる汝なるぞ、此畑主の大恩を忘れず、又此草の恩を能思ひて、早く此豆粒の世を捨て元の草となり、繁茂せん事を願へ、此豆粒の世は、仮の宿りぞ、未来の草の世こそ大事なれと云が如し、又草に向へば汝が前世は種なるぞ、此種の大恩に依て、今草と生れ、枝を発し葉を出し肥を吸ひ露を受け、花を開くに至れり、此恩を忘れず、早く未来の種を願へ、此世は苦の世界にして、風雨寒暑の患あり、早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の患もなき土蔵の中に、住する身となれと云が如し、予仏道を知らずといへ共、大凡此の如くなるべし、而て世界の百草、種になれば生ずる萌あり、生れば育つ萌あり、育てば花咲く萌あり、花さけば実を結ぶ萌あり、実を結べば落る萌あり、落れば又生ずる萌あり、是を不止不転循環の理と云
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、仏説(ぶっせつ)面白し、今近く譬(たとえ)を取て云(い)はば、豆の前世は草なり、草の前世は豆なり、と云ふが如し、故に豆粒に向へば、汝(なんじ)は元(もと)草の化身(けしん)なるぞ、疑(うたが)はしく思はば、汝が過去を説(と)て聞(きか)せん、汝が前世は草にして、某(それの)国某の村某が畑に生れて、雨風を凌(しの)ぎ炎暑(えんしょ)を厭(いと)ひ草に覆(おお)はれ、兄弟を間(ま)引(びか)れ、辛苦(しんく)患難(かんなん)を経(へ)て、豆粒となりたる汝なるぞ、此(この)畑主(はたぬし)の大恩を忘れず、又此草の恩を能(よく)思ひて、早く此豆粒の世を捨て元の草となり、繁茂(はんも)せん事を願へ、此豆粒の世は、仮(かり)の宿りぞ、未来の草の世こそ大事なれと云ふが如し、又草に向へば汝が前世は種なるぞ、此種の大恩に依(よ)て、今草と生れ、枝を発し葉を出し肥(こえ)を吸(す)ひ露(つゆ)を受け、花を開くに至れり、此恩を忘(わす)れず、早く未来の種を願(ねが)へ、此世は苦の世界にして、風雨寒暑の患(うれい)あり、早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の患もなき土蔵(どぞう)の中に、住(じゅう)する身となれと云ふが如し、予(よ)仏道を知らずといへども、大凡(おおよそ)此の如くなるべし、而(しか)して世界の百草(ひゃくそう)、種になれば生ずる萌(きざし)あり、生れば育つ萌あり、育(そだ)てば花咲く萌あり、花さけば実を結ぶ萌あり、実(み)を結(むす)べば落(おつ)る萌あり、落れば又生ずる萌あり、是(これ)を不止不転(ふしふてん)循環(じゅんかん)の理(り)と云ふ
現代語訳
翁が言われた。仏の説は面白い。いま身近な譬えで言うなら、豆の前世は草であり、草の前世は豆である、というようなものだ。だから豆粒に向かって、お前はもと草の化身なのだぞ、疑わしく思うなら、お前の過去を説いて聞かせよう、お前の前世は草であって、どこそこの国のどこそこの村のだれそれの畑に生まれ、雨風をしのぎ炎暑をいとい草に覆われ、兄弟を間引かれ、辛苦や苦難を経て豆粒となったお前なのだ、この畑主の大恩を忘れず、またこの草の恩をよく思って、早くこの豆粒の世を捨てもとの草となり、繁茂することを願え、この豆粒の世は仮の宿りだ、未来の草の世こそ大事なのだ、と言うようなものだ。また草に向かっては、お前の前世は種なのだぞ、この種の大恩によって今は草と生まれ、枝を出し葉を出し肥料を吸い露を受け、花を開くに至った、この恩を忘れず、早く未来の種を願え、この世は苦の世界であって風雨寒暑の憂いがある、早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の憂いもない土蔵の中に住む身となれ、と言うようなものだ。私は仏道を知らないが、おおよそこのようなものだろう。そうして世界の百草は、種になれば芽生える兆しがあり、生まれれば育つ兆しがあり、育てば花咲く兆しがあり、花が咲けば実を結ぶ兆しがあり、実を結べば落ちる兆しがあり、落ちればまた芽生える兆しがある。これを不止不転・循環の理というのである。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、夫(それ)此(この)世界咲花(さくはな)は必ず散(ち)る、散るといへども、又来る春は必ず花さく、春生ずる草は必ず秋風に枯(か)る、枯るといへども、又春風に逢(あ)へば必ず生ず、万物皆然(しか)り、然れば無常(むじょう)と云ふも無常に非(あら)ず、有常(うじょう)と云ふも有常に非ず、種(たね)と見る間に草と変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に実(み)となり、実と見る間に、元の種となる、然れば種と成りたるが本来か、草と成りたるが本来か、是(これ)を仏に不止不転(ふしふてん)の理(り)と云ひ、儒に循環(じゅんかん)の理と云ふ、万物皆この道理に外(はず)るる事はあらず
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二宮翁夜話・巻之二翁(おきな)曰(いわ)く、太閤(たいこう)の陣法に、敵を以て敵を防(ふせ)ぎ、敵を以て敵を打つの計(はかりごと)ありと、実に良策(りょうさく)なるべし、水防にも、水を以て水を防ぐの法あり、知らずばあるべからず、町田亘(わたり)曰く、近来富士川に雁がね堤と云を築(きず)けり、是其法なるべし、翁曰く、実ならば、能(よ)く水を治(おさ)むるの法を得たる者なり、夫(それ)我仕法又然り、荒地は、荒地の力を以て開き、借金は、借金の費(ついえ)を以て返済し、金を積(つ)むには、金に積ましむ、教も又然り、仏教にて、此世は僅(わずか)の仮の宿、来世こそ大事なれと教ふ、是又、欲を以て欲を制するなり、夫幽世(いうせい)の事は、眼に見えざれば、皆想像説なり、然といへ共、草を以て見る時は、粗(ほぼ)見ゆるなり、今茲(ここ)に一草あらん、此草に向ひて説法せんに、夫汝(なんじ)は現在、草と生れ露(つゆ)を吸ひ肥(こやし)を吸ひ、喜び居るといへ共、是は皆迷(まよ)ひと云物ぞ、夫此世は、春風に催(もよお)されて生出(いでたる)物にて、実に仮の宿ぞ、明朝にも、秋風立(たた)ば、花も散り葉も枯れ、風雨の艱難(かんなん)を凌(しの)ぎて生長せしも、皆無益(むえき)なり、此秋風を、無常の風と云、恐(おそ)るべし、早く、此世は仮の宿なる事を悟(さと)りて、一日も早く実(み)を結び種となりて、火にも焼(や)けざる蔵(くら)の中に入りて、安心せよ、此世にて肥を吸ひ露を吸ひ、葉を出し花を開くは皆迷なり、早く種となり、草の世を捨(す)てよ、其種となりて、ゆく処に、無量斯々(しし)の娯楽(ごらく)あり、と説くが如し、是欲の制し難(がた)きを知て、是を制するに欲を以てして勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の教とせしなり、然るを末世の法師等、此教を以て米金を集(あつ)むるの計策をなす、悲(かな)しからずや
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、世界万般皆同じく一理なり、予一草を以て万理を究(きわ)む、儒書に、其の書始めは一理を言ひ、中は散じて万事となり、末(すえ)復(また)合して一理となる、之を放(はな)てば則(すなわ)ち六合(りくごう)に弥(わた)り、之を巻けば退(しりぞ)きて密に蔵(かく)る、其の味ひ窮(きわ)まりなし、とあり、今戯(たわむ)れに、一草を以て之を読まん、曰く、此の草始めは一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法(みの)れば合して一種となる、之を蒔植(うう)れば六合に弥り、之を蔵(おさ)むれば密に蔵る、之を食すれば其の味ひ窮まりなし、又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、とあり、又一草を以て之を読まん、曰く、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植うるが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々(かか)。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、世界元(もと)吉凶禍福(きっきょうかふく)苦楽生滅(くらくしょうめつ)なし、予(われ)が示せる一円図(いちえんず)の如し。而(しか)して是(これ)あるは、其(そ)の半(なかば)に己(おのれ)と云ふ者を置きて隔つる故なり。人は云ふ、万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず、眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出づと云ふが如し、其の出京(しゅっきょう)は区々(まちまち)なるなり。艸木(そうもく)の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常(むじょう)といへども、農家にては秋実(じつ)を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常(うじょう)なり。されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、儒(じゅ)に循環(じゅんかん)と云ひ、仏に輪転(りんてん)と云ふ、則(すなわ)ち天理なり。循環とは、春は秋になり暑は寒に成り、盛(せい)は衰(すい)に移(うつ)り富は貧に移るを云ふ。輪転と云ふも又同じ。而(しか)して仏道は輪転を脱(だっ)して、安楽国(あんらくこく)に往生(おうじょう)せん事を願ひ、儒は天命を畏(おそ)れ天に事(つか)へて泰山(たいざん)の安(やす)きを願ふなり。予(よ)が教ふる所は貧を富にし衰を盛にし、而して循環輪転を脱して、富盛(ふせい)の地に住せしむるの道なり。夫(それ)菓木(かぼく)今年大(おおい)に実法(みの)れば、翌年は必ず実法らざる物なり、是(これ)を世に年切(としぎ)りと云ふ、是循環輪転の理(り)にして然(しか)るなり。是を人為(じんい)を以て、年切りなしに毎年ならするには、枝を伐(き)りすかし、又莟(つぼみ)の時につみとりて花を減(へら)し、数度肥(こえ)を用ふれば、年切りなくして毎年同様に実法る物なり。人の身代に盛衰貧富あるは、則ち年切りなり。親は勉強(べんきょう)なれど子は遊惰(ゆうだ)とか、親は節倹(せっけん)なれど子は驕奢(きょうしゃ)とか、二代三代と続(つづ)かざるは、所謂(いわゆる)年切りにして循環輪転なり。此の年切りなからん事を願はゞ、菓木の法に俲(なら)ひて、予が推譲(すいじょう)の道を勤むべし。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、世人運(うん)といふ事に心得違ひあり。譬(たと)へば柿梨子(かきなし)などを籠(かご)より打明(うちあ)くる時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり、此(これ)を運と思へり。運といふ物此の如き物ならば頼(たの)むにたらず。如何となれば、人事を尽(つく)してなるにあらずして、偶然(ぐうぜん)となるなれば、再(ふたた)び入れ直して明くる時はみな前と違(たが)ふべし。是博奕(ばくえき)の類にして運とは異なり。夫(それ)運といふは、運転(うんてん)の運にして所謂(いわゆる)廻り合せといふ物なり。夫(それ)運転は世界の運転に基元(きげん)して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり、幾回(いくたび)旋転(せんてん)するも、此定規に外(はず)れずして廻り合するを云ふなり。能(よく)世の中にある事也。灯燈(ちょうちん)の火の消えたるために、禍(わざわい)を免(まぬが)れ、又履(はき)物の緒(お)の切れたるが為に、災害を逸(のが)るゝ等の事、これ偶(ぐう)然にあらず真の運なり。仏に云ふ処の、因応の道理則(すなわ)ち是なり。儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃(おう)あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。夫(それ)仏に三世(さんぜ)の説あり。此理は三世を観通(かんつう)せざれば、決して疑(うたが)ひなき事あたはず。疑ひの甚(はなは)だしき、天を怨み人を恨むに至る。三世を観通すれば、此疑ひなし。雲霧(くもきり)晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる。故に仏教三世因縁を説く。是儒の及ばざる処なり。今爰(ここ)に一本の草あり、現在若(わか)草なり。其過去を悟れば種なり、其未来を悟れば花咲き実法(みの)りなり。茎(くき)高く延びたるは肥(こえ)多き因縁なり、茎(くき)の短(みじか)きは肥のなき応報なり。其理三世をみる時は明白なり。而(しか)て世人此因果応報の理を、仏説と云へり、是は書物上の論なり。是を我流儀の不書(ふしょ)の経に見る時は、釈氏(しゃくし)未(いま)だ此世に生れざる昔より行はれし、天地間の真理なり。不書の経とは、予が歌に「声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地は書かざる経を繰返(くりかへ)しつゝ」と云へる、四時行はれ、百物成る処の真理を云ふ。此経を見るには、肉眼を閉(と)ぢ、心眼を開きて見るべし。然(しか)らざれば見えず。肉眼に見えざるにはあらねども徹底(てってい)せざるを云ふなり。夫(それ)因報の理は、米を蒔けば米が生(は)へ、瓜の蔓(つる)に茄子(なす)のならざるの理なり。此理天地開闢(かいびゃく)より行はれて、今日に至りて違(たが)はず。皇国のみ然るにあらず、万国皆然り。されば天地の真理なる事、弁を待たずして明なり。