二宮翁夜話 / 巻之四
翁曰、儒に循環と云ひ、仏に輪転と云ふ、則天理なり、循環とは、春は秋になり暑は寒に成り、盛は衰に移り富は貧に移るを云、輪転と云も又同じ、而て仏道は輪転を脱して、安楽国に往生せん事を願ひ、儒は天命を畏れ天に事へて泰山の安を願ふなり、予が教ふる所は貧を富にし衰を盛にし、而て循環輪転を脱して、富盛の地に住せしむるの道なり、夫菓木今年大に実法れば、翌年は必実法らざる物なり、是を世に年切りと云、是循環輪転の理にして然るなり、是を人為を以て、年切りなしに毎年ならするには、枝を伐すかし、又莟の時につみとりて花を減し、数度肥を用ふれば、年切りなくして毎年同様に実法る物なり、人の身代に盛衰貧富あるは、則年切りなり、親は勉強なれど子は遊惰とか、親は節倹なれど子は驕奢とか、二代三代と続かざるは、所謂年切りにして循環輪転なり、此年切なからん事を願はゞ、菓木の法に俲ひて、予が推譲の道を勤むべし。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、儒(じゅ)に循環(じゅんかん)と云ひ、仏に輪転(りんてん)と云ふ、則(すなわ)ち天理なり。循環とは、春は秋になり暑は寒に成り、盛(せい)は衰(すい)に移(うつ)り富は貧に移るを云ふ。輪転と云ふも又同じ。而(しか)して仏道は輪転を脱(だっ)して、安楽国(あんらくこく)に往生(おうじょう)せん事を願ひ、儒は天命を畏(おそ)れ天に事(つか)へて泰山(たいざん)の安(やす)きを願ふなり。予(よ)が教ふる所は貧を富にし衰を盛にし、而して循環輪転を脱して、富盛(ふせい)の地に住せしむるの道なり。夫(それ)菓木(かぼく)今年大(おおい)に実法(みの)れば、翌年は必ず実法らざる物なり、是(これ)を世に年切(としぎ)りと云ふ、是循環輪転の理(り)にして然(しか)るなり。是を人為(じんい)を以て、年切りなしに毎年ならするには、枝を伐(き)りすかし、又莟(つぼみ)の時につみとりて花を減(へら)し、数度肥(こえ)を用ふれば、年切りなくして毎年同様に実法る物なり。人の身代に盛衰貧富あるは、則ち年切りなり。親は勉強(べんきょう)なれど子は遊惰(ゆうだ)とか、親は節倹(せっけん)なれど子は驕奢(きょうしゃ)とか、二代三代と続(つづ)かざるは、所謂(いわゆる)年切りにして循環輪転なり。此の年切りなからん事を願はゞ、菓木の法に俲(なら)ひて、予が推譲(すいじょう)の道を勤むべし。
現代語訳
翁が言われた。儒教では循環といい、仏教では輪転という。これはつまり天の道理だ。循環とは、春が秋になり、暑さが寒さになり、盛んなものが衰えに移り、富が貧に移ることをいう。輪転というのも同じである。そして仏道は輪転を脱して安楽国に往生することを願い、儒教は天命を畏れ天に仕えて泰山のような安らかさを願う。私が教えるのは、貧を富に、衰を盛にし、そして循環輪転から脱して、富み栄える境地にとどまらせる道である。そもそも果樹は今年たくさん実れば、翌年は必ず実らないものだ。これを世に「年切り」という。循環輪転の道理でそうなるのだ。これを人の手で、年切りなしに毎年実らせるには、枝を切りすかし、蕾のうちに摘み取って花を減らし、何度も肥料を施せば、年切りなく毎年同じように実る。人の家計に盛衰貧富があるのも、この年切りである。親は勤勉だが子は怠け者だとか、親は倹約家だが子はぜいたくだとか、二代三代と続かないのは、いわゆる年切りで循環輪転だ。この年切りをなくしたいと願うなら、果樹の手入れの法に倣って、私の推譲の道を勤めるべきである。
解説
この章句が説くこと
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