二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、夫れ人の紛議を解くは道徳の一つにて、世を救ふの一つなれど、又一つ心得べき事あり。訴訟の内済示談なり。是実に両全の道なれども、又弊害も少からず。予桜町にあり、近郷この扱といふ事盛に行はれて、訴訟甚だ繁し。習つて察せず、法を厳にして之を制すれば、方今の訴訟その幾分を減ずべし。如何となれば此道にて内済の事を扱ふものを見るに、必ず智力もあり、弁才もあつて、白を黒にし、黒を白になすの奸人、表を餝りて此事を業の如くする者あり。この者よく弱を助け、強を拆き、訴訟を内済して、衆の難を救ふが如く見ゆれども、竊にその内情を聞き、能く能く観察する時は、この紛議の因は此者に因て発する事多し。それ村里に一紛議の起るや、或は激言して之を争はしめ、また和言を以て是を止め、始終その間に周旋して、利と誉とを己に取る奸人あり。然るに世の中不明にして是を尊み、是を用ふ。往時桜町に奸人あり、予先づ此者を退けぬれば、訴訟の事断然止み、柔善の者里正たることを得たり。某の如き好き人里正に居て、流来の細民鰥寡孤独に至るまで、皆其利を利とすることを得るなり。凡そ国家を治むる者、前に云ふ所の如き奸民を退けて、良民を撫するを以て勤とすべし。人道は元作為の道なるが故に、農夫の勤めて草を去るが如く、悪民を去て良民を養はざれば、良民立つ事あたはず、良民立つ事能はざれば、邦家の衰廃見るべきなり。夫れ奸民は譬ば莠艸の如し、茂生すれば田園蕪廃す、故に奸民志を得れば村里衰廃す。良民は譬ば稲の如し、莠艸を去らざれば稲栄えず、故に奸民を退けざれば良民困苦す。莠艸を去りて稲を助くるは農業なり、奸民を退けて良民を撫するは政事なり。夫れ農業を勤むるは下の職なり、政事を勤むるは上の職なり。下其職業に怠らざれば国豊饒す、上其職を勤むれば国用余りあり、上下各其職分を尽さば、天下平なるべし。故に古人も、政事をなすは農の田を作るが如しと云へり。夫れ農の業は莠艸を抜除して稲を肥すにあり、上の職は奸民を退けて良民を育するにあり。而して農は莠艸の悪むべきを知りて是を去るを勤とす。其上この奸民を愛して是を重んずるは過れり。彼の奸民は才力弁舌衆に越へ、是に加ふるに能く世事に馴れ、上下に通じて始終之をあやつりて事を起し、事を鎮め、その中間に立て利を己に占むる物なり。然るを人之を知らず、是を尊み之を用ふ、過てり。夫れ此の如きは莠艸を以て善とし、美とし、之を糞培せば、邦家の衰へざる事を得んや。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、夫(そ)れ人の紛議(ふんぎ)を解くは道徳の一つにて、世を救ふの一つなれど、又一つ心得べき事あり。訴訟の内済(ないさい)示談なり。是(これ)実に両全の道なれども、又弊害も少からず。予桜町にあり、近郷この扱(あつかい)といふ事盛に行はれて、訴訟甚だ繁(しげ)し。習つて察せず、法を厳にして之を制すれば、方今(ほうこん)の訴訟その幾分を減ずべし。如何(いかん)となれば此道にて内済の事を扱ふものを見るに、必ず智力もあり、弁才もあつて、白を黒にし、黒を白になすの奸人(かんじん)、表を餝(かざ)りて此事を業(ぎょう)の如くする者あり。この者よく弱を助け、強を拆(くじ)き、訴訟を内済して、衆の難を救ふが如く見ゆれども、竊(ひそか)にその内情を聞き、能く能く観察する時は、この紛議の因は此者に因(よ)りて発する事多し。それ村里に一紛議の起るや、或は激言して之を争はしめ、また和言を以て是を止め、始終その間に周旋(しゅうせん)して、利と誉とを己に取る奸人あり。然るに世の中不明にして是を尊み、是を用ふ。往時(おうじ)桜町に奸人あり、予先づ此者を退けぬれば、訴訟の事断然止み、柔善の者里正(りせい)たることを得たり。某(それがし)の如き好き人里正に居て、流来(るらい)の細民鰥寡孤独(かんかこどく)に至るまで、皆其利を利とすることを得るなり。凡(およ)そ国家を治むる者、前に云ふ所の如き奸民を退けて、良民を撫(ぶ)するを以て勤とすべし。人道は元(もと)作為の道なるが故に、農夫の勤めて草を去るが如く、悪民を去て良民を養はざれば、良民立つ事あたはず、良民立つ事能はざれば、邦家(ほうか)の衰廃見るべきなり。夫れ奸民は譬(たと)へば莠艸(ゆうそう)の如し、茂生すれば田園蕪廃(ぶはい)す、故に奸民志を得れば村里衰廃す。良民は譬へば稲の如し、莠艸を去らざれば稲栄えず、故に奸民を退けざれば良民困苦す。莠艸を去りて稲を助くるは農業なり、奸民を退けて良民を撫するは政事(せいじ)なり。夫れ農業を勤むるは下の職なり、政事を勤むるは上の職なり。下其職業に怠らざれば国豊饒(ほうじょう)す、上其職を勤むれば国用余りあり、上下各(おのおの)其職分を尽さば、天下平なるべし。故に古人も、政事をなすは農の田を作るが如しと云へり。夫れ農の業は莠艸を抜除して稲を肥すにあり、上の職は奸民を退けて良民を育するにあり。而(しか)して農は莠艸の悪むべきを知りて是を去るを勤とす。其上この奸民を愛して是を重んずるは過れり。彼の奸民は才力弁舌衆に越へ、是に加ふるに能く世事に馴れ、上下に通じて始終之をあやつりて事を起し、事を鎮め、その中間に立て利を己に占むる物なり。然るを人之を知らず、是を尊み之を用ふ、過てり。夫れ此の如きは莠艸を以て善とし、美とし、之を糞培(ふんばい)せば、邦家の衰へざる事を得んや。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。そもそも人の争いごとを解くのは道徳の一つであり、世を救う道の一つである。だがもう一つ心得ておくべきことがある。訴訟の示談・内済のことだ。これは実に双方を全うする道ではあるが、弊害も少なくない。私が桜町にいたとき、近郷でこの示談仲介が盛んに行われ、訴訟が非常に多かった。慣れて見過ごさず、法を厳しくして抑えれば、今の訴訟もいくらかは減るはずだ。というのも、この仲介を業とする者を見ると、必ず知恵も弁舌もあって、白を黒に黒を白に言いくるめ、表面を飾ってこれを商売のようにする悪人がいる。この者は弱きを助け強きをくじき、訴訟を示談にまとめて人々の難儀を救うように見えるが、ひそかにその内情を聞き、よくよく観察すれば、その争いの原因はこの者から起こっていることが多い。村里に一つの争いが起こると、あるときは激しい言葉で争わせ、あるときは和やかな言葉で止め、始終その間を取り持って、利益と名誉を自分のものにする悪人がいる。ところが世間は道理に暗く、これを尊び用いる。かつて桜町に悪人がいたが、私がまずこの者を退けると、訴訟はきっぱりと止み、温和で善良な者が村役人になることができた。そういう善い人が村役人になれば、よそから流れてきた貧民や身寄りのない者に至るまで、みなその恩恵を受けられるのだ。およそ国家を治める者は、前に言ったような悪民を退けて良民をいたわることを務めとすべきだ。人の道はもともと人為の道であるから、農夫が励んで雑草を除くように、悪民を除いて良民を養わなければ、良民は立ち行かず、良民が立ち行かなければ、国家の衰廃は目に見えている。悪民は譬えれば雑草のようなものだ。はびこれば田畑は荒れ果てる。だから悪民が力を得れば村里は衰える。良民は譬えれば稲のようなものだ。雑草を除かなければ稲は栄えない。だから悪民を退けなければ良民は苦しむ。雑草を除いて稲を助けるのが農業であり、悪民を退けて良民をいたわるのが政治である。農業に励むのは下の者の職分、政治に励むのは上の者の職分だ。下の者が職分を怠らなければ国は豊かになり、上の者が職分を勤めれば国の財政に余りが出る。上下それぞれが職分を尽くせば、天下は平らかになるはずだ。だから古人も「政治をするのは農民が田を作るようなものだ」と言った。農業の仕事は雑草を抜き取って稲を肥やすことにあり、上の職分は悪民を退けて良民を育てることにある。そして農民は雑草が憎むべきものと知ってこれを除くことを務めとする。それなのに悪民を愛して重んじるのは間違いだ。かの悪民は才知も弁舌も人並み以上で、加えて世事によく通じ、上下に通じて始終これを操り、事を起こしては鎮め、その中間に立って利益を独り占めにする者である。それなのに人はこれを見抜けず、尊び用いる。間違っている。これは雑草を善いもの美しいものとして肥料をやって育てるようなものだ。それで国家が衰えずにいられようか。
解説
この章句が説くこと
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