二宮翁夜話 / 続篇
宇津氏の馬、厩を離れて邸内を馳せ廻れり。人々大に噪立ける時、別当出来りて、静にすべしと云て、飼葉桶をたゝきて小声に呼ければ、流石に猛く刎廻りし馬急に静りて飼葉に付けり。翁曰、汝等心得よ、世の中は何も六ヶしき事決してなし。狗も来よ来よと云計りにては来ず、時々食を以て呼ぶ時速に来る。茄子もなれなれと云てなるにあらず、肥をすれば必ずなる。猫の脊中も順に撫れば知らぬふりをして眠り、逆に撫ると一撫にて爪を出す。予桜町を治むるも此理を法として、勤めて怠らざりしのみ。
書き下し
宇津氏(うつうじ)の馬、厩(うまや)を離れて邸内を馳(は)せ廻(めぐ)れり。人々大に噪立(さわぎた)てける時、別当(べっとう)出来(いできた)りて、静にすべしと云て、飼葉桶(かいばおけ)をたゝきて小声に呼ければ、流石(さすが)に猛く刎廻(はねまわ)りし馬急に静(しずま)りて飼葉に付けり。翁(おきな)曰(いわ)く、汝等(なんじら)心得よ、世の中は何も六ヶしき(むずかしき)事決してなし。狗(いぬ)も来よ来よと云ふ計りにては来ず、時々食を以て呼ぶ時速(すみやか)に来る。茄子(なす)もなれなれと云てなるにあらず、肥(こやし)をすれば必ずなる。猫の脊中(せなか)も順に撫(な)づれば知らぬふりをして眠り、逆に撫づると一撫(ひとなで)にて爪を出す。予桜町を治むるも此(こ)の理を法として、勤めて怠らざりしのみ。
現代語訳
宇津家の馬が厩を離れて屋敷内を駆け回った。人々が大いに騒ぎ立てたとき、馬の世話係が出てきて「静かにせよ」と言い、飼葉桶を叩いて小声で呼ぶと、あれほど猛々しく跳ね回っていた馬が急に静まって飼葉に食いついた。翁(二宮尊徳)が言われた。「お前たち、心得ておきなさい。世の中に難しいことなど決してない。犬も『来い来い』と言うだけでは来ないが、時々餌をやって呼べばすぐに来る。茄子も『なれなれ』と言って実るのではなく、肥料をやれば必ず実る。猫の背中も、順に撫でれば知らぬふりで眠るが、逆に撫でれば一撫でで爪を出す。私が桜町を治めたのも、この道理を手本として、勤め励んで怠らなかっただけのことだ」。
解説
暴れ馬が飼葉桶の音で鎮まった一件から、尊徳は統治と人づかいの要諦を説きます。犬は餌で呼べば来て、茄子は肥料をやれば実り、猫は順に撫でれば安らぎ逆に撫でれば爪を出す。人も物も、その本性に順って働きかければ自然に応えるという道理です。桜町の復興も特別な秘策ではなく、この理に従い勤めて怠らなかっただけだと言います。無理に力で従わせるのではなく、相手の性質を見きわめて順に導く。至誠をもって根気強く働きかける報徳仕法の本質がここにあります。人を動かすのに近道はなく、相手に順った地道な働きかけの積み重ねが要る――現代の指導や子育てにも通じる教えです。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳勤労順に導く桜町仕法人を動かす