二宮翁夜話 / 巻之四
翁曰、庭訓往来に、注文に載られずといへども進じ申処なり、と書るは、能人情を尽せる文なり、百事斯の如く有度ものなり、「馳馬に鞭打て出る田植かな」、馳せ馬は注文なり、注文に載られずといへ共、鞭打処なり、「影膳に蠅追ふ妻のみさをかな」、影膳は注文の内なり、注文になしといへ共、蠅追ふ処なり、進で忠を尽すは注文なり、退て過を補ふは注文に載られずといへ共、勤る処なり、幾く諌む迄は注文の内なり、敬して違はず労して怨ずは、注文に載られずといへ共、尽す処也、菊花を贈るは注文なり、注文になしといへ共、根を付けて進ずる処なり、凡事斯の如くせば、志の貫かざる、事のならざる事、あるべからず、是に至て、孝弟の至は、神明に通じ、西より東より南より北より、思として、服せざる事なしと云に至るなり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、庭訓往来(ていきんおうらい)に、注文に載(の)せられずといへども進(しん)じ申す処なり、と書けるは、能(よ)く人情を尽せる文なり。百事斯(か)くの如く有度(あるべき)ものなり。「馳馬(はせうま)に鞭(むち)打ちて出る田植かな」、馳せ馬は注文なり、注文に載せられずといへ共、鞭打つ処なり。「影膳(かげぜん)に蠅(はえ)追ふ妻のみさをかな」、影膳は注文の内なり、注文になしといへ共、蠅追ふ処なり。進(すす)んで忠を尽すは注文なり、退(しりぞ)きて過(あやま)ちを補(おぎな)ふは注文に載せられずといへ共、勤むる処なり。幾(ようや)く諌(いさ)む迄は注文の内なり、敬して違(たが)はず労して怨(うら)みずは、注文に載せられずといへ共、尽す処なり。菊花を贈るは注文なり、注文になしといへ共、根を付けて進ずる処なり。凡(およ)そ事斯くの如くせば、志の貫(つらぬ)かざる、事のならざる事、あるべからず。是(これ)に至りて、孝弟(こうてい)の至りは、神明に通じ、西より東より南より北より、思(おも)ふとして、服せざる事なしと云ふに至るなり。
現代語訳
翁が言われた。『庭訓往来』に「注文(頼まれた品目)には載っていないが、進呈いたします」と書いてあるのは、よく人情を尽くした文章だ。すべての事はこうありたいものだ。「馳せ馬に鞭打って出かける田植かな」――馳せ馬は注文どおりだが、注文になくとも鞭を打って急ぐのが心である。「影膳に蠅を追う妻の操かな」――影膳(留守の夫のために供える膳)を据えるのは頼まれた内だが、注文になくともその膳にたかる蠅を追うのが妻の真心だ。進んで忠を尽くすのは注文どおりだが、退いて主君の過ちを補うのは注文にはなくとも勤めるべきところだ。しっかり諫めるまでは注文の内だが、敬って背かず、労苦をいとわず怨まないのは注文になくとも尽くすべきところだ。菊の花を贈るのは注文どおりだが、注文になくとも根を付けて贈るのが心遣いだ。すべてこのようにすれば、志が貫かれないこと、事が成らないことはない。ここに至れば、孝と悌の極みは神明に通じ、東西南北あらゆる方から、心服しない者はないという境地に達するのである。
解説
この章句が説くこと
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『玉勝間』五の巻 業平ノ朝臣のいまはの言葉古今集に、やまいして、弱くなりにける時詠める、なりひらの朝臣、「ついにゆく道とはかねて聞きしかどきのうきょうとは思わざりしを。契沖云わく、これ人のまことの心にて、教えにも善き歌なり。後々の人は、死なんとするきわに到りて、ことごとしき歌を詠み、或いは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずして、いと憎し。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじえめ、いまはと有らん時にだに、心の誠にかえれかし。この朝臣は、一生のまこと、この歌に現れ、後の人は、一生の偽りをあらわして死ぬるなりと云えるは、法師のことばにも似ず、いといとたふとし。やまとだましいなる人は、法師ながら、斯くこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさに斯うは云わんや。契沖法師は、世の人にまことを教え、神道者、歌学者は、偽りをぞ教うなる。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひすべて何事も、なべての世の人の真心にさかいて、ことなるを善き事にするは、外国のならいのうつれるにて、心を作り飾れる物と知るべし。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひ人の心は、うれしき事は、さしも深くは覚えぬものにて、ただ心にかなわぬ事ぞ、深く身にしみては覚ゆるわざなれば、すべてうれしきを詠める歌には、心深きは少なくて、心にかなわぬすじを、悲しみ憂えたるに、哀れなるは多きぞかし。然りとて、わびしく悲しきを、みやびたりとてねがわむは、人のまことの情ならめや。また同じ法師の、人はよそじに足らで死なむこそ、めやすかるべけれと云えるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にも詠み、常にも云うすじにて、命長からん事をねがうをば、心ぎたなき事とし、早く死ぬるを、めやすき事に云い、この世をいとい捨つるを、いさぎよき事とするは、これみな仏の道にへつらえるものにて、多くはいつわりなり。言にこそさも云え、心のうちには、誰かはさは思わむ。たとい、まれまれには、まことに然か思う人の有らんも、もとよりの真心には有らず、仏の教えにまどえるなり。人のまごころは、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思わず、命惜しまぬ者は無し。されば万葉などの頃までの歌には、ただ長く生きたらん事をこそねがいたれ、中頃よりこなたの歌とは、その心うらうえなり。
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『玉勝間』一の巻 学問して道を知る事学問して道を知らむとならば、まづ漢意をきよくのぞき去るべし。から意のきよくのぞこらぬ程は、いかに古書を読みても考えても、古の意は知りがたく、古の心を知らでは、道は知りがたきわざになむ有りける。そもそも道は、もと学問をして知る事にはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有りける。真心とは、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心を云う。然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみ移りて、真心をば失いはてたれば、今は学問せざれば、道をえ知らざるにこそ有れ。
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『玉勝間』四の巻 うはべをつくる世のならひうまき物くわまほしく、よききぬ着まほしく、よき家に住ままほしく、宝得ままほしく、人に尊まれまほしく、命ながからまほしくするは、皆人の真心なり。然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがわざるをいみしき事にして、すべてほしからず、ねがわぬ顔する者の、世に多かるは、例のうるさきいつわりなり。また世に先生などあおがるる物知り人、あるいは上人など尊まるる法師など、月花を見ては、あわれとめづる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬかおして過ぐるは、まことに然るにや。もし月花をあわれと見る情しあらば、ましてよき女には、などか目の移らざらむ。月花はあわれなり、女の色は目にもとまらずと云わんは、人とあらむ者の心にあらず、いみしきいつわりにこそ有りけれ。しかは有れども、万づにうわべを作りかざるは、なべての世のならいにし有れば、これらは、いつわりとて、さしもとがむべきには有らずなん。
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『呻吟語』外篇・治道・純王の心有りて、方に純王の政有り只だ己むを容れざるの真心有らば、自ら易ふ可からざるの良法有り。其の之に處すること未だ當たらざる者は、必ず其の之を思ふこと精しからざる者なり。其の之を思ふこと精しからざる者は、必ず其の心の切ならざる者なり。故に純王の心有りて、方に純王の政有り。

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