二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、官祿家格ありて世に知られ、人に用ひらるゝは、そは官祿家格あるが故なり、之なくして世に知られ、人に用ひらるゝ者は、賎業の者といへども侮るべからず。是は生れつき勝れたる者なればなり。六尺手廻の頭、雲助の頭など是なり。過日火事あり、予火の見に上りて見居りしに、当時江戸にて名高く、人に知られし男伊達と聞えたる某、湯より上りてぶらぶらと来る時、火消大勢どやどやと来掛りたる中に、壹人水溜りに飛入りて、男伊達に泥をあびせて去り過ぎぬ。彼莞爾と笑ひ、今日なるぞ然せよと云つゝ、少しも怒る色なく傍なる天水桶にて泥を洗ひて、静々と過ぎ行きぬ。其容体のおとなしさ、威有て猛からず、恭しくして安しと云ふべき形状云はん方なし。誠に感服せり、論語に君子に三変あり、之に望むに儼然たり、之に即くに温なり、其言を聞くや窅しと、子夏氏の言へる通り、斯ゝる賎民にても、其の変りたる所いちじるし、賎民とて侮るべからず、賎業とて賎むべからず。
新字:翁曰、官禄家格ありて世に知られ、人に用ひらるゝは、そは官禄家格あるが故なり、之なくして世に知られ、人に用ひらるゝ者は、賎業の者といへども侮るべからず。是は生れつき勝れたる者なればなり。六尺手廻の頭、雲助の頭など是なり。過日火事あり、予火の見に上りて見居りしに、当時江戸にて名高く、人に知られし男伊達と聞えたる某、湯より上りてぶらぶらと来る時、火消大勢どやどやと来掛りたる中に、壱人水溜りに飛入りて、男伊達に泥をあびせて去り過ぎぬ。彼莞爾と笑ひ、今日なるぞ然せよと云つゝ、少しも怒る色なく傍なる天水桶にて泥を洗ひて、静々と過ぎ行きぬ。其容体のおとなしさ、威有て猛からず、恭しくして安しと云ふべき形状云はん方なし。誠に感服せり、論語に君子に三変あり、之に望むに儼然たり、之に即くに温なり、其言を聞くや窅しと、子夏氏の言へる通り、斯ゝる賎民にても、其の変りたる所いちじるし、賎民とて侮るべからず、賎業とて賎むべからず。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、官祿家格(かんろくかかく)ありて世に知られ、人に用ひらるゝは、そは官祿家格あるが故なり、之なくして世に知られ、人に用ひらるゝ者は、賎業(せんぎょう)の者といへども侮(あなど)るべからず。是は生れつき勝(すぐ)れたる者なればなり。六尺手廻(ろくしゃくてまわり)の頭(かしら)、雲助(くもすけ)の頭など是なり。過日(かじつ)火事あり、予火の見に上りて見居りしに、当時江戸にて名高く、人に知られし男伊達(おとこだて)と聞えたる某(それがし)、湯より上りてぶらぶらと来る時、火消(ひけし)大勢どやどやと来掛りたる中に、壹人(ひとり)水溜(みずたま)りに飛入りて、男伊達に泥をあびせて去り過ぎぬ。彼莞爾(かんじ)と笑ひ、今日(けふ)なるぞ然(そう)せよと云ひつゝ、少しも怒る色なく傍(かたわ)らなる天水桶(てんすいおけ)にて泥を洗ひて、静々(しずしず)と過ぎ行きぬ。其容体(ようだい)のおとなしさ、威有りて猛(たけ)からず、恭(うやうや)しくして安しと云ふべき形状云はん方なし。誠に感服せり、論語に君子に三変(さんぺん)あり、之に望むに儼然(げんぜん)たり、之に即(つ)くに温なり、其言を聞くや窅(きび)しと、子夏(しか)氏の言へる通り、斯ゝ(かか)る賎民(せんみん)にても、其の変りたる所いちじるし、賎民とて侮るべからず、賎業とて賎(いや)しむべからず。
現代語訳
翁が言われた。官職や俸禄や家柄があって世に知られ、人に用いられるのは、その官職や俸禄や家柄があるからだ。それがなくて世に知られ、人に用いられる者は、たとえ卑しい職業の者であっても侮ってはならない。それは生まれつき優れた者だからである。駕籠かきの頭や雲助の頭などがそれだ。先日火事があり、私が火の見やぐらに上って見ていると、当時江戸で名高く知られた俠客と評判の某が、湯屋から上がってぶらぶら歩いて来たとき、火消しが大勢どやどやと来かかった中で、一人が水たまりに飛び込んで俠客に泥をあびせて去っていった。彼はにっこり笑い、「今日はそうしていいのだ」と言いながら、少しも怒る様子なく、傍らの天水桶で泥を洗って、静かに歩き去った。その物腰のおだやかさ、威厳があって荒々しくなく、うやうやしくてやすらかとでも言うべき姿は、言いようもないほどだ。まことに感服した。論語に「君子に三つの変化がある。遠くから見れば厳かで、近づけば温かく、その言葉を聞けば厳しい」と子夏が言ったとおりで、このような卑しい身分の者にも、その並外れた点は際立っている。身分が低いといって侮ってはならず、卑しい職業だといって蔑んではならない。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)高野某(こうのそれがし)を諭して曰(いわ)く、物各(おのおの)命(めい)あり数(すう)あり、猛火の近づくべからざるも、薪(たきぎ)尽(つ)くれば火は随(したがっ)てきゆるなり、矢玉の勢(いきおい)、あたる処必(かなら)ず破り必ず殺すも、弓勢(きゅうぜい)つき、薬力(やくりょく)尽くれば叢(くさむら)の間に落ちて、人に拾はるゝにいたる、人も其如し、おのれが勢、世に行はるゝとも、己(おのれ)が力と思ふべからず、親先祖より伝へ受けたる位禄(いろく)の力と、拝命したる官職の威光とによるが故なり、夫(そ)れ先祖伝来の位禄の力か、職の威光がなければ、いかなる人も、弓勢の尽(つき)たる矢、薬力の尽たる鉄炮玉(てっぽうだま)に異ならず、草間に落て、人に愚弄(ぐろう)さるゝに至るべし、思はずばあるべからず。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、論語に己に如(し)かざる者を友とする事勿(なか)れとあるを、世に取違(とりちが)へる人あり。夫(そ)れ人々皆長ずる所あり、短なる所あるは各々(おのおの)免れ難きなり、されば其人の長ずる所を友として、短なる所を友とする事勿れの意と心得べし。譬(たと)へば其人の短なる事をば捨て、其人の長所を友とするなり。多くの人には短才の人にも手書(てが)きあるべし、世事には疎(うと)きも学者あるべし、無学にも世事に賢(かしこ)きあるべし、無筆には農事に精(くわ)しき有るべし、皆其長所を友として短所を友とする事勿れの意なり。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、君子は、食(しょく)飽(あ)かん事を求むる事なく、居(きょ)安(やす)からん事を求むる事なし。仕事は骨(ほね)を折り、無益(むえき)の言(げん)は云はず、其(そ)の上に有道(ゆうどう)に就(つ)いて正す。余程(よほど)誉(ほ)むるならんと思ひしに、学(がく)を好むと云ふべきのみとあり。聖人の学は厳(げん)なる物なり。今日(こんにち)の上にいはば、酒は呑(の)まず仕事は稼(かせ)ぎ、無益の事は為(な)さず、是(これ)通常の人なり、と云へるが如し。
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二宮翁夜話・巻之三翁曰く、某藩(それのはん)某氏老臣たる時、予礼譲謙遜(れいじょうけんそん)を勧(すす)むれども用ひず、後終(つい)に退けらる。今や困乏(こんぼう)甚(はなはだ)しくして今日を凌(しの)ぐ可からず。夫れ某氏は某藩衰廃(すいはい)危難の時に当て功あり、而して今斯の如く窮(きゅう)せり、是れ只登用せられたる時に分限の内にせざる過ちのみ。夫れ官威(かんい)盛んに富有自在の時は礼譲謙遜を尽し、官を退て後は遊楽驕奢(ゆうらくきょうしゃ)たるも害なし。然る時は一点の誹(そしり)なく、人其官を妬(ねた)まず。進んで勤苦し退て遊楽するは、昼勤て夜休息するが如く、進んでは富有に任せて遊楽驕奢に耽(ふけ)り、退て節倹(せっけん)を勤るは、譬ば昼休息して夜勤苦するが如し。進で遊楽すれば人誰か是を浦山(うらやま)ざらん、誰か是を妬まざらん。夫れ雲助(くもすけ)の重荷を負ふは酒食を恣(ほしいまま)にせんが為なり、遊楽驕奢をなさんが為に国の重職に居るは、雲助等が為る所に遠からず。重職に居る者、雲助の為る処に同じくして能く久安(きゅうあん)を保(たも)たんや。退けられたるは当然にして不幸にはあらざるべし。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、一言を聞ても人の勤惰(きんだ)は分る者なり、東京(えど)は水さへ銭が出ると云ふは、懶惰者(らんだもの)なり、水を売(う)りても銭が取れるといふは勉強人なり、夜は未(いま)だ九時なるに十時だと云ふ者は、寝たがる奴(やつ)なり、未だ九時前也と云ふは、勉強心のある奴なり、すべての事、下に目を付け、下に比較(ひこう)する者は、必(かなら)ず下り向(さがりむき)の懶惰者也、たとへば碁を打て遊ぶは酒を飲(の)むよりよろし、酒を呑むは博奕(ばくえき)よりよろしと云ふが如し、上に目を付け上に比較する者は、必ず上り向(あがりむき)なり、古語に、一言以て知とし一言以て不知(ふち)とす、とあり、うべなるかな。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、富人(ふうじん)小道具を好む者は、大事は成し得ぬ物なり、貧人(ひんじん)履物(はきもの)足袋(たび)等を飾(かざ)る者は立身(りっしん)は出来ぬものなり、又(また)人の多く集り雑踏(ざっとう)する処には、好き履物をはく事勿(なか)れ、よき履物は紛失(ふんしつ)する事あり、悪(あ)しきをはきて紛失したる時は尋(たず)ねずして、更(さら)に買求(かいもと)めて履(は)きて帰るべし、混雑(こんざつ)の中にて、是(これ)を尋ねて人を煩(わずら)はすは、麁悪(そあく)なる履物をはきたるよりも見苦(みぐる)し。