二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、身体一所悩む所あれば、惣身之が為に悩むは人の知る所なり。脳なり胃なり肺なり皆同じ、甚しき時は死に至る、これ一体なるが故なり。国家も亦同じ、一家負債あれば是が為に悩み、国凶作なれば之が為に悩む、皆人の知る所なり。故に身も家も国も悩む所無らんことを欲するを衛生といひ、勤倹といふ。又泰平を祈るといふ。而して家に負債多ければ、人身に及んで神経を悩ますに至るも皆人の知る所なり。方今の世の中、驕奢行るゝが為にこの悩多し、此悩甚しければ家を失ひ身を失ふに至る、愍然の至りなり、之を自業自得といへば夫までなれど、自業自得は戸主に在りて、老幼婦女は相伴をするなり、いたましからずや。之を救ふの道を考ふるに、予が立てたる報徳金貸付の道を第一とす。如何となれば此報徳金の貸付は、日輪の神徳と同じければなり、此功徳の広大なる事は、予が数年心を尽して考へ、数年自取扱ひて経験したる法なればなり、天地の万物を生育し給ひて、恵まざる所なき、天地の徳に法りたる法なればなり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、身体一所(ひとところ)悩む所あれば、惣身(そうしん)之が為に悩むは人の知る所なり。脳なり胃なり肺なり皆同じ、甚(はなは)だしき時は死に至る、これ一体なるが故なり。国家も亦(また)同じ、一家負債あれば是が為に悩み、国凶作なれば之が為に悩む、皆人の知る所なり。故に身も家も国も悩む所無からんことを欲するを衛生(えいせい)といひ、勤倹(きんけん)といふ。又泰平(たいへい)を祈るといふ。而(しか)して家に負債多ければ、人身に及んで神経を悩ますに至るも皆人の知る所なり。方今(ほうこん)の世の中、驕奢(きょうしゃ)行はるゝが為にこの悩み多し、此悩み甚だしければ家を失ひ身を失ふに至る、愍然(びんぜん)の至りなり、之を自業自得(じごうじとく)といへば夫(それ)までなれど、自業自得は戸主に在りて、老幼婦女(ろうようふじょ)は相伴(しょうばん)をするなり、いたましからずや。之を救ふの道を考ふるに、予が立てたる報徳金貸付(かしつけ)の道を第一とす。如何(いか)となれば此報徳金の貸付は、日輪(にちりん)の神徳と同じければなり、此功徳の広大なる事は、予が数年心を尽して考へ、数年自(みづか)ら取扱ひて経験したる法なればなり、天地の万物を生育し給ひて、恵まざる所なき、天地の徳に法(のっと)りたる法なればなり。
現代語訳
翁が言われた。身体のどこか一か所に悩む所があれば、全身がそのために苦しむのは誰もが知るところだ。脳でも胃でも肺でも同じで、ひどいときは死に至る。これは身体が一体だからである。国家もまた同じで、一つの家に負債があればそのために悩み、国が凶作になればそのために悩む。みな人の知るところだ。だから身も家も国も悩む所がないようにと願うことを衛生といい、勤倹という。また泰平を祈るという。そして家に負債が多ければ、それが身体に及んで神経を悩ますに至るのも、みな人の知るところだ。今の世の中は、おごりぜいたくが行われるためにこの悩みが多い。この悩みがひどければ家を失い身を失うに至る。まことに憐れむべきことだ。これを自業自得と言えばそれまでだが、自業自得なのは戸主であって、老人や子ども、婦女は巻き添えを食うのだ。いたましいことではないか。これを救う道を考えると、私が立てた報徳金貸付の道を第一とする。なぜなら、この報徳金の貸付は太陽の神徳と同じだからだ。この功徳の広大なことは、私が数年心を尽くして考え、数年自ら取り扱って経験してきた方法だからである。天地が万物を生み育てて恵まないところがない、その天地の徳にのっとった方法だからだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、方今(ほうこん)の憂(うれ)ひは村里の困窮にして、人気(じんき)の悪敷(あしき)なり。此(こ)の人気を直さんとするには、困窮を救はざれば免(まぬか)るる事能(あた)はず。之(これ)を救ふに財を施与(せよ)する時は、財力及ばざる物なり。故に無利足(むりそく)金貸附(かしつけ)の法を立てたり。此の法は実に恵(めぐ)んで費(つい)えざるの道なり。此の法に一年の酬謝(しゅうしゃ)金を附するの法をも設けたり。是(これ)は恵んで費えざる上に又欲して貪(むさぼ)らざるの法なり。実に貸借両全(りょうぜん)の道と云ふべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、国家の盛衰(せいすい)存亡(そんぼう)は、各々(おのおの)利を争(あらそ)ふの甚(はなは)だしきにあり。富者は足る事をしらず、世を救(すく)ふ心なく、有るが上にも願ひ求めて、己(おの)が勝手(かって)のみを工夫し、天恩(てんおん)も知らず国恩(こくおん)も思はず。貧者は又何をかして、己を利せんと思へ共、工夫あらざれば、村費(そんぴ)の納むべきを滞(とどこお)り、作徳(さくとく)の出すべきを出さず、借(か)りたる者を返(かえ)さず。貧富共に義(ぎ)を忘れ、願ひても祈りても出来難(がた)き工夫のみをして、利を争ひ、其の見込の外(はず)れたる時は身代限(しんだいかぎ)りと云ひ、大河のうき瀬(せ)に沈(しず)むなり。此の大河も覚悟して入る時は、溺(おぼ)れ死するまでの事はなき故、又浮(うか)み出る事も向ふの岸(きし)へ泳(およ)ぎ付く事も、あるなれども、覚悟なくして、此の川に陥(おちい)る者は、再び浮み出る事出来ず、身を終(お)はるなり。愍(あわ)れむ可し。我が教は世上(せじょう)かかる悪弊(あくへい)を除(のぞ)きて、安楽の地を得せしむるを勤(つとめ)とす。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、仏書に、光明遍照(こうみょうへんじょう)十方世界、念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)といへり、光明とは太陽の光を云ふ、十方とは東西南北乾(いぬい)坤(ひつじさる)巽(たつみ)艮(うしとら)の八方に、天地を加へて十方と云ふ也、念仏衆生とは、此の太陽の徳を念じ慕(した)ふ、一切の生物を云ふ、夫(そ)れ天地間に生育する物、有情蠢動(うじょうしゅんどう)の物は勿論、無情の草木と雖(いえど)も、皆太陽の徳を慕ひて、生々を念とす、此の念ある物を仏国故に念仏衆生と云ふ也、神国にては念神衆生と読むべし、故に此の念ある者は洩(もら)さず、生育を遂(と)げさせて捨て玉(たま)はずと云ふ事にて、太陽の大徳を述べし物也、則(すなわ)ち我が天照大神の事也、此の如く太陽の徳は、広大なりといへども、芽を出さんとする念慮、育(そだ)たんとする気力なき物は仕方なし、芽を出さんとする念慮、育たんとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給ふ、是れ太陽の大徳なり、夫れ我が無利足金貸附の法は、此の太陽の徳に象(かたど)りて、立ちたるなり、故に如何なる大借といへ共、人情を失はず利足を滞(とどこお)りなく済(すま)し居る者、又是非とも皆済して他に損失を掛(か)けじ、と云ふ念慮ある者は、譬(たと)へば、芽を出したい、育ちたいと云ふ生気ある草木に同じければ、此の無利子金を貸して引立つべし、無利子の金といへども、人情なく利子も済さず、元金をも蹈倒(ふみたお)さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、所謂(いわゆる)縁無き衆生なり、之を如何ともすべからず、捨置くの外に道なきなり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、我道(わがみち)は勤倹譲(きんけんじょう)の三つにあり。勤とは衣食住になるべき物品を勤めて産出するにあり、倹とは産出したる物品を費(つい)さゞるを云ふ、譲は此三つを他に及ぼすを云ふ。扨(さて)譲は種々あり、今年の物を来年の為に貯(たくわ)ふるも則ち譲なり、夫(それ)より子孫に譲ると、親戚朋友(しんせきほうゆう)に譲ると、郷里に譲ると、国家に譲るなり。其身其身の分限(ぶんげん)に依(よ)りて勤め行ふべし、たとひ一季半季(いっきはんき)の雇人(やといにん)といへども、今年の物を来年に譲ると、子孫に譲るとの譲りは、必ず勤むべし。此三つは鼎足(ていそく)の如し、一をも欠くべからず、必ず兼(か)ね行ふべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、貧(ひん)となり富(とみ)となる、偶然(ぐうぜん)にあらず、富も因(よ)て来る処あり、貧も因て来る処あり、人皆貨財(かざい)は富者(ふうしゃ)の処に集ると思へ共(ども)然(しか)らず、節倹(せっけん)なる処と勉強(べんきょう)する処に集るなり、百円の身代(しんだい)の者、百円にて暮す時は、富の来る事なく貧の来る事なし、百円の身代を八十円にて暮し、七十円にて暮す時は、富是(これ)に帰(き)し財是に集る、百円の身代を百廿円(ひゃくにじゅうえん)にて暮し、百三拾円にて暮す時は、貧是に来り財是を去る、只(ただ)分外(ぶんがい)に進むと、分内(ぶんない)に退くとの違ひのみ、或歌(あるうた)に「有といへば有とや人の思ふらむ呼(よ)ば答ふる山彦(やまびこ)の声」と云(いえ)る如し、夫(そ)れ今有る物は今に無くなり、今無きものは今にあり、譬(たと)へば今有し銭のなくなりしは、物を買へば也、今無き銭の今あるは、勤(つと)むればなり、繩(なわ)一房(ひとふさ)なへば五厘(ごりん)手に入り、一日働けば十銭(じっせん)手に入る也、今手に入る十銭も、酒を呑めば直(じき)になし、明白疑(うたが)ひなき世の中なり、中庸(ちゅうよう)に曰く、誠なれば則(すなわ)ち明なり、明なれば則ち誠なりと、繩一房なへば五厘となり、五厘遣(や)れば繩一房来る、晴天白日(せいてんはくじつ)の世の中なり