二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、定九郎曰く地獄の道は八方にありと、実に八方にあるなるべし。凡てひとり地獄の道のみならず、極楽の道も又八方にあるべし、豈念仏の一道ならんや、何れより入るも其到る処は必同じ極楽なり。八方にある極楽の道には、平坦の道もあり、険阻なるもあり、遠きもあり、近きもあるべし、予が教ふる所は平坦にして近し、無学の者、無気力の者是より入るべし。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、定九郎(さだくろう)曰く地獄の道は八方にありと、実に八方にあるなるべし。凡(およ)てひとり地獄の道のみならず、極楽の道も又八方にあるべし、豈(あに)念仏の一道ならんや、何(いず)れより入るも其(その)到る処は必(かならず)同じ極楽なり。八方にある極楽の道には、平坦の道もあり、険阻(けんそ)なるもあり、遠きもあり、近きもあるべし、予(よ)が教ふる所は平坦にして近し、無学の者、無気力の者是(これ)より入るべし。
現代語訳
翁が言われた。定九郎が「地獄への道は八方にある」と言ったが、実際に八方にあるのだろう。すべて地獄への道だけでなく、極楽への道もまた八方にあるはずだ。どうして念仏の一つの道だけであろうか。どこから入っても、行き着く先は必ず同じ極楽である。八方にある極楽への道には、平坦な道もあり、険しい道もあり、遠い道もあり、近い道もあるだろう。私が教えるところは平坦で近い。学問のない者、気力のない者は、この道から入るのがよい。
解説
尊徳が自分の教えの入りやすさを語った一条です。地獄への道が至るところにあるなら、極楽への道もまた八方にあるはずで、念仏だけが唯一の道ではない――どこから入っても行き着く先は同じ極楽だと説きます。そのうえで、道には険しいものも遠いものもあるが、報徳の道は「平坦にして近し」、学問のない者も気力のない者も入りやすいと述べます。難解な理屈や修行を求めず、誰もが今日から始められる身近な実践を重んじるのが報徳思想の特色で、積小為大の第一歩をどんな人にも開こうとする姿勢がうかがえます。現代でも、志を高く掲げる前に、まず踏み出しやすい一歩から始める大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳平坦にして近し極楽の道実践積小為大
関連する章句
-
老子 第20章絕學無憂,唯之與阿,相去幾何?善之與惡,相去若何?人之所畏,不可不畏。荒兮其未央哉!眾人熙熙,如享太牢,如春登臺。我獨泊兮其未兆,如嬰兒之未孩;儽儽兮若無所歸。眾人皆有餘,而我獨若遺。我愚人之心也哉!沌沌兮,俗人昭昭,我獨昏昏;俗人察察,我獨悶悶。澹兮其若海,飂兮若無止。眾人皆有以,而我獨頑似鄙。我獨異於人,而貴食母。
-
孟子・盡心章句下孟子曰、梓匠輪輿能與人規矩、不能使人巧。
-
孟子・盡心章句下孟子曰、仁也者、人也。合而言之、道也。
-
荀子・儒効篇不聞不若聞之,聞之不若見之,見之不若知之,知之不若行之。學至於行之而止矣。行之,明也;明之為聖人。聖人也者,本仁義,當是非,齊言行,不失豪釐,無他道焉,已乎行之矣。故聞之而不見,雖博必謬;見之而不知,雖識必妄;知之而不行,雖敦必困。不聞不見,則雖當,非仁也。其道百舉而百陷也。
-
孟子・告子章句上孟子曰、五穀者、種之美者也。苟為不熟、不如荑稗。夫仁亦在乎熟之而已矣。
-
言志四録・南洲手抄自彊不息、天道也、君子所以也。如虞舜孳孳爲善、大禹思日孜孜、成湯苟日新、文王不遑暇、周公坐以待旦、孔子發憤忘食、皆是也。彼徒事靜養瞑坐而已、則與此學脈背馳。