孟子 / 告子章句上
孟子曰、五穀者、種之美者也。苟為不熟、不如荑稗。夫仁亦在乎熟之而已矣。
書き下し
孟子曰く、「五穀は、種の美なる者なり。苟くも熟せずと為さば、荑稗(テイ・ハイ)に如かず。夫れ仁も亦た之を熟するに在るのみ。」
現代語訳
孟子は言う。 「五穀は種子の中では上等なものであるが、熟していなければ、それより下のひえの類のほうがまだましだ。それと同じで仁も成熟したところにその価値があるのだ。」
解説
どんなに素晴らしい才能や高い理想を持っていても、それを中途半端なまま終わらせてしまっては意味がありません。仕事や学習において、最初だけ勢いよく手をつけて最後までやり遂げないよりは、地味で小さなことであっても、着実に形にして最後まで完成させる方がずっと価値があります。自分の持つ能力や思いやりの心を、未熟なまま放置するのではなく、日々の実践を通じてしっかりと成熟させ、社会や他者のために役立つ確かな形へと育て上げていくことを意識して生活しましょう。
この章句が説くこと
完遂成熟実践理想と現実
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