二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、予久敷考へて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり、儒道は何を教とし、何に長じ何に短なり、仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考るに皆相互に長短あり、予が歌に「世の中は捨足代木の丈くらべそれこれ共に長し短し」と云しは、慨歎に堪ねばなり、仍て今道々の、専とする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊ばず、卑近を厭はず、此三道の正味のみを取れり、正味とは人界に切用なるを云、切用なるを取て、切用ならぬを捨て、人界無上の教を立つ、是を報徳教と云ふ、戯に名付けて、神儒仏正味一粒丸と云、其功能の広太なる事、挙て数ふべからず、故に国に用れば国病癒え、家に用れば家病癒へ、其外荒地多きを患る者、服膺すれば開拓なり、負債多きを患る者、服膺すれば返済なり、資本なきを患る者、服膺すれば資本を得、家なきを患る者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患る者、服膺すれば農具を得、其他貧窮病、驕奢病、放蕩病、無頼病、遊惰病、皆服膺して癒ずと云事なし、衣笠兵太夫、神儒仏三味の分量を問ふ、翁曰、神一匕、儒仏半匕づヽなりと、或傍に有り、是を図にして、三味分量此の如きかと問ふ、翁一笑して曰、世間此の寄せ物の如き丸薬あらんや、既に丸薬と云へば、能混和して、更に何物とも、分らざる也、此の如くならざれば、口中に入て舌に障り、腹中に入て腹合ひ悪し、能々混和して何品とも分らざるを要するなり、呵々。
新字:翁曰、予久敷考へて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり、儒道は何を教とし、何に長じ何に短なり、仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考るに皆相互に長短あり、予が歌に「世の中は捨足代木の丈くらべそれこれ共に長し短し」と云しは、慨嘆に堪ねばなり、仍て今道々の、専とする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊ばず、卑近を厭はず、此三道の正味のみを取れり、正味とは人界に切用なるを云、切用なるを取て、切用ならぬを捨て、人界無上の教を立つ、是を報徳教と云ふ、戯に名付けて、神儒仏正味一粒丸と云、其功能の広太なる事、挙て数ふべからず、故に国に用れば国病癒え、家に用れば家病癒へ、其外荒地多きを患る者、服膺すれば開拓なり、負債多きを患る者、服膺すれば返済なり、資本なきを患る者、服膺すれば資本を得、家なきを患る者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患る者、服膺すれば農具を得、其他貧窮病、驕奢病、放蕩病、無頼病、遊惰病、皆服膺して癒ずと云事なし、衣笠兵太夫、神儒仏三味の分量を問ふ、翁曰、神一匕、儒仏半匕づヽなりと、或傍に有り、是を図にして、三味分量此の如きかと問ふ、翁一笑して曰、世間此の寄せ物の如き丸薬あらんや、既に丸薬と云へば、能混和して、更に何物とも、分らざる也、此の如くならざれば、口中に入て舌に障り、腹中に入て腹合ひ悪し、能々混和して何品とも分らざるを要するなり、呵々。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、予(よ)久敷(ひさし)く考へて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり、儒道(じゅどう)は何を教とし、何に長じ何に短なり、仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考ふるに皆相互(たがい)に長短あり、予が歌に「世の中は捨足代木(すてあじろぎ)の丈くらべそれこれ共に長し短し」と云ひしは、慨歎(がいたん)に堪(たへ)ねばなり、仍(よっ)て今道々の、専(もっぱ)らとする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊(たっと)ばず、卑近(ひきん)を厭(いと)はず、此(この)三道の正味(しょうみ)のみを取れり、正味とは人界(じんかい)に切用(せつよう)なるを云ふ、切用なるを取りて、切用ならぬを捨てて、人界無上(むじょう)の教を立つ、是を報徳教と云ふ、戯(たわむ)れに名付けて、神儒仏正味一粒丸(しんじゅぶつしょうみいちりゅうがん)と云ふ、其功能(こうのう)の広太なる事、挙(あ)げて数(かぞ)ふべからず、故に国に用ゐれば国病癒(い)え、家に用ゐれば家病癒え、其外荒地多きを患(うれ)ふる者、服膺(ふくよう)すれば開拓なり、負債(ふさい)多きを患ふる者、服膺すれば返済なり、資本なきを患ふる者、服膺すれば資本を得、家なきを患ふる者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患ふる者、服膺すれば農具を得、其他貧窮病、驕奢(きょうしゃ)病、放蕩(ほうとう)病、無頼(ぶらい)病、遊惰(ゆうだ)病、皆服膺して癒えずと云ふ事なし、衣笠兵太夫(きぬがさへいだゆう)、神儒仏三味の分量を問ふ、翁曰く、神一匕(さじ)、儒仏半匕(さじ)づゝなりと、或(あるひと)傍(かたわ)らに有り、是を図にして、三味分量此の如きかと問ふ、翁一笑して曰く、世間此の寄せ物の如き丸薬あらんや、既(すで)に丸薬と云へば、能(よ)く混和(こんわ)して、更に何物とも、分らざる也、此の如くならざれば、口中に入りて舌に障(さわ)り、腹中に入りて腹合ひ悪(あ)し、能々(よくよく)混和して何品とも分らざるを要するなり、呵々(かか)。
現代語訳
翁が言われた。私は長らく考えて、神道は何を道とし何に長けて何に劣るか、儒教は何を教えとし何に長けて何に劣るか、仏教は何を宗旨とし何に長けて何に劣るかと考えてみると、どれにも互いに長所と短所がある。私が「世の中は捨てられた網代木の丈くらべのようで、あれもこれもともに長かったり短かったりだ」と詠んだのは、嘆かわしさに堪えなかったからだ。そこで、それぞれの道が専らとするところを言えば、神道は国を開く道、儒学は国を治める道、仏教は心を治める道である。だから私は高尚を尊ばず身近さを嫌わず、この三つの道の正味だけを取った。正味とは人の世に切実に役立つものを言う。役立つものを取り、役立たぬものを捨てて、人の世で最上の教えを立てた。これを報徳教という。戯れに「神儒仏正味一粒丸」と名づけた。その効能の広大なことは数え上げられない。だから国に用いれば国の病が癒え、家に用いれば家の病が癒える。そのほか、荒れ地が多いのを憂える者もこれを心に留めて実践すれば開拓でき、負債の多いのを憂える者は返済でき、資本のない者は資本を得、家のない者は家を得、農具のない者は農具を得る。その他、貧窮病・驕奢病・放蕩病・無頼病・怠け病、みな実践すれば癒えないということがない。衣笠兵太夫が神儒仏の配合の分量を尋ねた。翁は「神を一さじ、儒と仏を半さじずつだ」と言われた。あるとき、そばにいた者がこれを図にして「配合の分量はこのようですか」と尋ねた。翁は一笑して言われた。世間にこんな寄せ集めのような丸薬があるものか。すでに丸薬と言うからには、よく混ぜ合わせて、もう何がどれとも分からなくなっているものだ。そうでなければ、口に入れて舌にさわり、腹に入って腹具合が悪い。よくよく混ぜ合わせて何の成分とも分からなくするのが肝要なのだ、はっはっは。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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二宮翁夜話・巻之四或(ある)ひと曰(いわ)く、恵心僧都(えしんそうず)の伝記に曰く、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪(あ)しき物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや。翁曰く、誠に名言なり。只(ただ)仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時(いまどき)の儒者達の行はるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ、今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予(よ)も思ふなり。夫(そ)れ神道は天地開闢(かいびゃく)の大道にして、豊蘆原(とよあしはら)を瑞穂(みずほ)の国、安国(やすくに)と治め給ひし、道なる事、弁(べん)を待たずして明なり。豈(あに)当世巫祝(ふしゅく)者流、神札を配(くば)りて、米銭を乞ふ者等の、知る処ならんや。川柳に「神道者身にぼろぼろを纏(まと)ひ居り」と云へり。今の世の神道者、貧困に窮する事斯(か)くの如し。是(これ)真の神道を知らざるが故なり。夫れ神道は、豊芦原(とよあしはら)を瑞穂の国とし、漂(ただよ)へる国を安国と固(かた)め成す道なり。然(しか)る大道を知る者、決して貧窮に陥(おちい)るの理なし。是神道の何物たるを知らざるの証なり。歎(なげ)かはしき事ならずや。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、世の中に誠の大道は只(ただ)一筋なり。神(しん)といひ儒(じゅ)と云ひ仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり。或は天台といひ真言といひ法華(ほっけ)といひ禅と云ふも、同じく入口の小路(こうじ)の名なり。夫(そ)れ何の教(おしえ)何の宗旨(しゅうし)といふが如きは、譬(たと)へば爰(ここ)に清水あり、此水にて藍(あい)を解きて染(そ)むるを、紺(こん)やと云ひ、此水にて紫をときて染むるを、紫やといふが如し。其元は一つの清水なり。紫屋にては我(わが)紫の妙なる事、天下の反物(たんもの)染むる物として、紫ならざるはなしとほこり、紺屋にては我(わが)藍の徳たる、洪大無辺(こうだいむへん)なり、故に一度此瓶(かめ)に入れば、物として紺とならざるはなしと云ふが如し。夫れが為に染められたる紺や宗の人は、我が宗の藍より外に有難(ありがた)き物はなしと思ひ、紫宗の者は、我宗の紫ほど尊き物はなしと云ふに同じ。是皆所謂(いわゆる)三界城内(さんがいじょうない)を、躊躇(ちゅうちょ)して出る事あたはざる者なり。夫れ紫も藍も、大地に打こぼす時は、又元の如く、紫も藍も皆脱して、本然(ほんぜん)の清水に帰るなり。そのごとく神儒仏を初め、心学性学等枚挙(まいきょ)に暇(いとま)あらざるも、皆大道の入口の名なり。此入口幾箇(いくつ)あるも至る処は必ず一の誠の道なり。是を別々に道ありと思ふは迷ひなり。別々なりと教ふるは邪説(じゃせつ)なり。譬へば不士山(ふじさん)に登るが如し。先達(せんだつ)に依て吉田より登るあり、須走(すばしり)より登るあり、須山(すやま)より登るありといへども、其登る処の絶頂に至れば一つなり。斯(か)くの如くならざれば真(しん)の大道と云ふべからず。されども誠の道に導くと云て、誠の道に至らず、無益(むえき)の枝道(えだみち)に引入るを、是を邪教と云ふ。誠の道に入らんとして、邪説に欺(あざむ)かれて枝道に入り、又自ら迷ひて邪路(じゃろ)に陥るも、世の中少からず、慎まずばあるべからず。
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二宮翁夜話・巻之五翁曰く、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何(いかん)せん、縦令(たとい)出家遁世(とんせい)して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行(さいぎょう)の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(たが)ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々(よくよく)玩味(がんみ)すべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、鐘(かね)には鐘の音あり、鼓(つづみ)には鼓の音あり、笛(ふえ)には笛の音あり、音各(おのおの)異(こと)なりといへども、其(その)音たるや一なり、只(ただ)其物に触(ふ)れて、響(ひび)きの異なるのみ、是(これ)を別々の音に聞くを、仏道にて、迷(まよい)といひ、是を只一音に聞くを、悟(さとり)と云ふが如し、されども、是を悉(ことごと)く別音に聞きて、其内をも幾箇(いくつ)にも分ちて聞かざれば、五音六律(ごいんりくりつ)分たざる故、調楽(ちょうがく)は出来ぬなり、水も朱(しゅ)にすられて赤(あか)くなり、藍(あい)に和(わ)して青(あお)く成るといへ共(ども)、地に戻(もど)せば元の清水(しみず)と成るに同じ、音は空(くう)にして打(う)てばひびき、打たざれば止む、音の空に消(きゆ)るは、打たれたる響(ひびき)の尽(つ)きたるなり、されば神といひ儒といひ仏と云ふも、本来は一なり、一の水を酒屋にては酒といひ、酢(す)屋にては酢と云ふが如き違(たが)ひのみ
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、夫(そ)れ神道は、開闢(かいびゃく)の大道皇国本源の道なり、豊芦原(とよあしはら)を、此の如き瑞穂(みずほ)の国安国と治(おさ)めたまひし大道なり、此の開国の道、則(すなわ)ち真の神道なり、我が神道盛んに行はれてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ、我が神道開闢の道未(いま)だ盛んならざるの前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず、我が神道、則ち開闢の大道先(ま)づ行はれ、十分に事足るに随(したが)ひてより後、世上に六(むつ)かしき事も出来るなり、其の時にこそ、儒も入用、仏も入用なれ、是れ誠に疑ひなき道理なり、譬(たと)へば未だ嫁(よめ)のなき時に夫婦喧嘩(げんか)あるべからず、未だ子幼少なるに親子喧嘩あるべからず、嫁有りて後に夫婦喧嘩あり、子生長して後に親子喧嘩あるなり、此の時に至りてこそ、五倫五常も悟道治心も、入用となるなれ、然るを世人此の道理に暗(くら)く、治国治心の道を以て、本元の道とす、是れ大なる誤りなり、夫れ本元の道は開闢の道なる事明なり、予此の迷ひを醒(さ)まさん為に「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」とよめり、能く味(あじわ)ふべし、大御神の足跡のある処、真の神道なり、世に神道と云ふものは、神主の道にして、神の道にはあらず、甚(はなは)だしきに至りては、巫祝(ふしゅく)の輩(ともがら)が、神札を配りて米銭を乞ふ者をも神道者と云ふに至れり、神道と云ふ物、豈(あに)此の如く、卑(いや)しき物ならんや、能く思ふべし。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道(しどう)二つあらず、至理(しり)は万国同じかるべし、只理(り)の窮(きわ)めざると尽(つく)さゞるあるのみ、然(しか)るに諸道各々(おのおの)道を異(こと)にして、相争(あらそ)ふは、各(おのおの)区域(くいき)を狭(せば)く垣根(かきね)を結回(ゆいまわ)して、相隔(へだ)つるが故なり、共に三界城内(さんがいじょうない)に立籠(たてこも)りし、迷者(めいしゃ)と云(いい)て可なり、此(この)垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に籠(こも)れる論は、聞(きく)も益なし、説(とく)も益なし。