二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、夫神道は、開闢の大道皇国本源の道なり、豊芦原を、此の如き瑞穂の国安国と治めたまひし大道なり、此開国の道、則真の神道なり、我神道盛んに行れてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ、我神道開闢の道未盛んならざるの前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず、我神道、則開闢の大道先行れ、十分に事足るに随ひてより後、世上に六かしき事も出来るなり、其時にこそ、儒も入用、仏も入用なれ、是誠に疑ひなき道理なり、譬ば未嫁のなき時に夫婦喧嘩あるべからず、未子幼少なるに親子喧嘩あるべからず、嫁有て後に夫婦喧嘩あり、子生長して後に親子喧嘩あるなり、此時に至てこそ、五倫五常も悟道治心も、入用となるなれ、然るを世人此道理に暗く、治国治心の道を以て、本元の道とす、是大なる誤なり、夫本元の道は開闢の道なる事明なり、予此迷ひを醒さん為に「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」とよめり、能味ふべし、大御神の足跡のある処、真の神道なり、世に神道と云ものは、神主の道にして、神の道にはあらず、甚きに至ては、巫祝の輩が、神札を配て米銭を乞ふ者をも神道者と云に至れり、神道と云物、豈此の如く、卑き物ならんや、能思ふべし。
書き下し
翁曰(いわ)く、夫(そ)れ神道は、開闢(かいびゃく)の大道皇国本源の道なり、豊芦原(とよあしはら)を、此の如き瑞穂(みずほ)の国安国と治(おさ)めたまひし大道なり、此の開国の道、則(すなわ)ち真の神道なり、我が神道盛んに行はれてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ、我が神道開闢の道未(いま)だ盛んならざるの前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず、我が神道、則ち開闢の大道先(ま)づ行はれ、十分に事足るに随(したが)ひてより後、世上に六(むつ)かしき事も出来るなり、其の時にこそ、儒も入用、仏も入用なれ、是れ誠に疑ひなき道理なり、譬(たと)へば未だ嫁(よめ)のなき時に夫婦喧嘩(げんか)あるべからず、未だ子幼少なるに親子喧嘩あるべからず、嫁有りて後に夫婦喧嘩あり、子生長して後に親子喧嘩あるなり、此の時に至りてこそ、五倫五常も悟道治心も、入用となるなれ、然るを世人此の道理に暗(くら)く、治国治心の道を以て、本元の道とす、是れ大なる誤りなり、夫れ本元の道は開闢の道なる事明なり、予此の迷ひを醒(さ)まさん為に「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」とよめり、能く味(あじわ)ふべし、大御神の足跡のある処、真の神道なり、世に神道と云ふものは、神主の道にして、神の道にはあらず、甚(はなは)だしきに至りては、巫祝(ふしゅく)の輩(ともがら)が、神札を配りて米銭を乞ふ者をも神道者と云ふに至れり、神道と云ふ物、豈(あに)此の如く、卑(いや)しき物ならんや、能く思ふべし。
現代語訳
翁が言われた。そもそも神道は、天地開闢のときからの大道であり、この国の根源の道である。豊芦原をこのような瑞穂の国、安らかな国として治められた大道であって、この開国の道こそ真の神道である。我が神道が盛んに行われた後になってはじめて、儒教も仏教も入ってきたのだ。我が神道すなわち開闢の道がまだ盛んでない前に、儒仏の道が入ってくる道理はない。まず神道すなわち開闢の大道が行われ、それで十分に事が足りるようになってから、世の中に難しい問題も生じてくる。そのときにこそ儒教も仏教も必要になるのだ。これはまことに疑いのない道理である。たとえばまだ嫁がいないうちは夫婦喧嘩は起こらず、子がまだ幼いうちは親子喧嘩は起こらない。嫁が来てのちに夫婦喧嘩があり、子が成長してのちに親子喧嘩がある。このときに至ってこそ、五倫五常も悟道や治心も必要になる。それなのに世人はこの道理に暗く、国を治め心を治める道を根本の道と考える。これは大きな誤りだ。根本の道が開闢の道であることは明らかである。私はこの迷いを覚まそうとして「古道に積もる木の葉をかき分けて天照す神の足跡を見よう」と詠んだ。よく味わうべきである。大御神の足跡のあるところが真の神道だ。世に神道というものは神主の道であって、神の道ではない。ひどい場合には、祈祷師の類が神札を配って米や銭を乞う者までも神道者と呼ぶ始末である。神道というものが、どうしてこのように卑しいものであろうか。よく考えるべきである。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之二綾部の城主九鬼侯、御所蔵の神道の書物十巻、是を見よとて翁に送らる、翁暇(いとま)なきを以て、封を解き玉(たま)はざる事二年、翁一日少しく病あり、予をして此の書を開き、病床にて読(よ)ましめらる、翁曰(いわ)く、此の書の如きは皆神に仕ふる者の道にして、神の道にはあらざるなり、此の書の類(るい)万巻あるも、国家の用をなさず、夫(そ)れ神道と云ふ物、国家の為、今日上、用なき物ならんや、中庸にも、道は須臾(しばらく)も離(はな)るべからず、離るべきは道にあらず、と云へり、世上道を説ける書籍、大凡(おおよそ)此の類なり、此の類の書あるも益なく、無きも損(そん)なきなり、予が歌に「古道に積る木の葉をかき掻(か)き分けて天照す神のあし跡を見む」とよめり、古道とは皇国固有の大道を云ふ、積る木の葉とは儒仏を始(はじ)め諸子百家の書籍の多きを云ふ、夫れ皇国固有の大道は、今現に存すれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋(おお)はれて見えぬなれば、是を見んとするには、此の木の葉の如き書籍をかき分けて大御神の御足の跡はいづこにあるぞと、尋(たず)ねざれば、真の神道を見る事は出来ざるなり、汝等(なんじら)落積(おちつも)りたる木の葉に目を付くるは、大なる間違ひなり、落積りたる木の葉を掻き分け捨てて、大道を得る事を勤(つと)めよ、然らざれば、真の大道は、決して得る事はならぬなり。
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二宮翁夜話・巻之四或(ある)ひと曰(いわ)く、恵心僧都(えしんそうず)の伝記に曰く、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪(あ)しき物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや。翁曰く、誠に名言なり。只(ただ)仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時(いまどき)の儒者達の行はるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ、今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予(よ)も思ふなり。夫(そ)れ神道は天地開闢(かいびゃく)の大道にして、豊蘆原(とよあしはら)を瑞穂(みずほ)の国、安国(やすくに)と治め給ひし、道なる事、弁(べん)を待たずして明なり。豈(あに)当世巫祝(ふしゅく)者流、神札を配(くば)りて、米銭を乞ふ者等の、知る処ならんや。川柳に「神道者身にぼろぼろを纏(まと)ひ居り」と云へり。今の世の神道者、貧困に窮する事斯(か)くの如し。是(これ)真の神道を知らざるが故なり。夫れ神道は、豊芦原(とよあしはら)を瑞穂の国とし、漂(ただよ)へる国を安国と固(かた)め成す道なり。然(しか)る大道を知る者、決して貧窮に陥(おちい)るの理なし。是神道の何物たるを知らざるの証なり。歎(なげ)かはしき事ならずや。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、世の中に誠の大道は只(ただ)一筋なり。神(しん)といひ儒(じゅ)と云ひ仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり。或は天台といひ真言といひ法華(ほっけ)といひ禅と云ふも、同じく入口の小路(こうじ)の名なり。夫(そ)れ何の教(おしえ)何の宗旨(しゅうし)といふが如きは、譬(たと)へば爰(ここ)に清水あり、此水にて藍(あい)を解きて染(そ)むるを、紺(こん)やと云ひ、此水にて紫をときて染むるを、紫やといふが如し。其元は一つの清水なり。紫屋にては我(わが)紫の妙なる事、天下の反物(たんもの)染むる物として、紫ならざるはなしとほこり、紺屋にては我(わが)藍の徳たる、洪大無辺(こうだいむへん)なり、故に一度此瓶(かめ)に入れば、物として紺とならざるはなしと云ふが如し。夫れが為に染められたる紺や宗の人は、我が宗の藍より外に有難(ありがた)き物はなしと思ひ、紫宗の者は、我宗の紫ほど尊き物はなしと云ふに同じ。是皆所謂(いわゆる)三界城内(さんがいじょうない)を、躊躇(ちゅうちょ)して出る事あたはざる者なり。夫れ紫も藍も、大地に打こぼす時は、又元の如く、紫も藍も皆脱して、本然(ほんぜん)の清水に帰るなり。そのごとく神儒仏を初め、心学性学等枚挙(まいきょ)に暇(いとま)あらざるも、皆大道の入口の名なり。此入口幾箇(いくつ)あるも至る処は必ず一の誠の道なり。是を別々に道ありと思ふは迷ひなり。別々なりと教ふるは邪説(じゃせつ)なり。譬へば不士山(ふじさん)に登るが如し。先達(せんだつ)に依て吉田より登るあり、須走(すばしり)より登るあり、須山(すやま)より登るありといへども、其登る処の絶頂に至れば一つなり。斯(か)くの如くならざれば真(しん)の大道と云ふべからず。されども誠の道に導くと云て、誠の道に至らず、無益(むえき)の枝道(えだみち)に引入るを、是を邪教と云ふ。誠の道に入らんとして、邪説に欺(あざむ)かれて枝道に入り、又自ら迷ひて邪路(じゃろ)に陥るも、世の中少からず、慎まずばあるべからず。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上此邦ノ神道ハ。最初ニ儒仏ノ道ヲ牽合セテ両部習合ト云。ソノ次ニ仏者ノ徒カ神道ノ起リタルヲ妬ミ。本迹縁起ノ神道ヲ説テ。表ハ神祇ヲ顕ハシテ。底裏ハ此ヲ仏道ニ帰スル。其後一般ノ祢宜神主。仏法ノ世ニ盛ナルヲ妬ミ。此二途ヲ破シテ。唯一宗源ノ神道ヲ説ク。其後ニハ此ヲ王道ニ帰シテ。王道神道ヲ説ク。近比ハ表ニ神道ヲ説テ。底裏ハ儒道ニ帰ス。三国共ニ人情ハ一様トナルト。或者カ云ニハ。是ハ上ノ今日ノ有ルヘキ道ト立シ者ノ見識ナルト。
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『玉勝間』四の巻 両部神道ただおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云うに、儒の道仏の道は、あだし国よりわたりもうで来つる道にして、神の道ぞ、皇国の本よりの道なれば、後の世と云えども、世の人なお、他国の道によらんよりは、同じくは吾が国の道をこそは尊むべけれ、と思う心も、さすがに多く有る物なれば、さる世の人をおもむけむ為に、わが国の道と云う名をかりたる物にして、このともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有りける。そのかみなお国々の民どもは、もはら神を尊みあおげる故に、まづその神を引きこめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも仏の奴の如く説きなして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の両部神道の、神道と云う名も、この心ばえを以てなり。
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『翁問答』下卷之末之末以上の聖謨をよく考へて、儒教に専神明を信仰する事を得心すべし、これは外神につかふまつる大法なり、先祖の鬼神を祭は此外なり、日本の神道の礼法に、儒道祭祀の礼にあひかなひたることあり、其上三社の神託の意義儒者の神明につかふまつる心もちに、よくかなひぬれば、本朝は后稷之裔なりといへる、説まこと意義あることなり、さて神明につかふまつるには、その位々のおきて作法あれば、その国の風俗を本とし、天秩の祭祀の礼に考あはせてよく斎戒して信仰すべき事誠に第一なり、しかるに仏者は神明を信仰するを雑行雑修といとひ、仏は六通神は五通などいへるは、勿体なき事なり。

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