二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、鐘には鐘の音あり、鼓には鼓の音あり、笛には笛の音あり、音各異なりといへども、其音たるや一なり、只其物に触れて、響きの異なるのみ、是を別々の音に聞くを、仏道にて、迷といひ、是を只一音に聞くを、悟と云が如し、されども、是を悉く別音に聞て、其内をも幾箇にも分ちて聞ざれば、五音六律分たざる故、調楽は出来ぬなり、水も朱にすられて赤くなり、藍に和して青く成るといへ共、地に戻せば元の清水と成るに同じ、音は空にして打ばひゞき、打ざれば止む、音の空に消るは、打たれたる響の尽たるなり、されば神といひ儒といひ仏と云も、本来は一なり、一の水を酒屋にては酒といひ、酢屋にては酢と云が如き違ひのみ
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、鐘(かね)には鐘の音あり、鼓(つづみ)には鼓の音あり、笛(ふえ)には笛の音あり、音各(おのおの)異(こと)なりといへども、其(その)音たるや一なり、只(ただ)其物に触(ふ)れて、響(ひび)きの異なるのみ、是(これ)を別々の音に聞くを、仏道にて、迷(まよい)といひ、是を只一音に聞くを、悟(さとり)と云ふが如し、されども、是を悉(ことごと)く別音に聞きて、其内をも幾箇(いくつ)にも分ちて聞かざれば、五音六律(ごいんりくりつ)分たざる故、調楽(ちょうがく)は出来ぬなり、水も朱(しゅ)にすられて赤(あか)くなり、藍(あい)に和(わ)して青(あお)く成るといへ共(ども)、地に戻(もど)せば元の清水(しみず)と成るに同じ、音は空(くう)にして打(う)てばひびき、打たざれば止む、音の空に消(きゆ)るは、打たれたる響(ひびき)の尽(つ)きたるなり、されば神といひ儒といひ仏と云ふも、本来は一なり、一の水を酒屋にては酒といひ、酢(す)屋にては酢と云ふが如き違(たが)ひのみ
現代語訳
翁が言われた。鐘には鐘の音があり、鼓には鼓の音があり、笛には笛の音がある。音はそれぞれ異なるが、その音の本体は一つだ。ただその物に触れて、響き方が違うだけである。これを別々の音として聞くのを仏道では迷いといい、ただ一つの音として聞くのを悟りというようなものだ。とはいえ、これをすべて別々の音として聞き、さらにその中をいくつにも分けて聞かなければ、五音六律を区別できず、調べのある音楽は成り立たない。水も朱にすれば赤くなり、藍に混ぜれば青くなるが、地に戻せばもとの清らかな水に戻るのと同じだ。音はもともと空(くう)であって、打てば響き、打たなければ止む。音が空に消えるのは、打たれて生じた響きが尽きたからである。だから神道といい儒教といい仏教といっても、本来は一つだ。同じ一つの水を、酒屋では酒といい、酢屋では酢というような違いにすぎない。
解説
この章句が説くこと
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