二宮翁夜話 / 巻之四
或曰、恵心僧都の伝記に曰、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪き物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや、翁曰、誠に名言なり、只仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし、今時の儒者達の行はるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ、今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予も思ふなり、夫神道は天地開闢の大道にして、豊蘆原を瑞穂の国、安国と治め給ひし、道なる事、弁を待ずして明なり、豈当世巫祝者流、神札を配て、米銭を乞ふ者等の、知る処ならんや、川柳に「神道者身にぼろぼろを纏ひ居り」と云り、今の世の神道者、貧困に窮する事斯の如し、是真の神道を知らざるが故なり、夫神道は、豊芦原を瑞穂の国とし、漂へる国を安国と固め成す道なり、然る大道を知る者、決して貧窮に陥るの理なし、是神道の何物たるを知らざるの証なり、歎はしき事ならずや。
新字:或曰、恵心僧都の伝記に曰、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪き物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや、翁曰、誠に名言なり、只仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし、今時の儒者達の行はるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ、今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予も思ふなり、夫神道は天地開闢の大道にして、豊蘆原を瑞穂の国、安国と治め給ひし、道なる事、弁を待ずして明なり、豈当世巫祝者流、神札を配て、米銭を乞ふ者等の、知る処ならんや、川柳に「神道者身にぼろぼろを纏ひ居り」と云り、今の世の神道者、貧困に窮する事斯の如し、是真の神道を知らざるが故なり、夫神道は、豊芦原を瑞穂の国とし、漂へる国を安国と固め成す道なり、然る大道を知る者、決して貧窮に陥るの理なし、是神道の何物たるを知らざるの証なり、嘆はしき事ならずや。
書き下し
或(ある)ひと曰(いわ)く、恵心僧都(えしんそうず)の伝記に曰く、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪(あ)しき物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや。翁曰く、誠に名言なり。只(ただ)仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時(いまどき)の儒者達の行はるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ、今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予(よ)も思ふなり。夫(そ)れ神道は天地開闢(かいびゃく)の大道にして、豊蘆原(とよあしはら)を瑞穂(みずほ)の国、安国(やすくに)と治め給ひし、道なる事、弁(べん)を待たずして明なり。豈(あに)当世巫祝(ふしゅく)者流、神札を配(くば)りて、米銭を乞ふ者等の、知る処ならんや。川柳に「神道者身にぼろぼろを纏(まと)ひ居り」と云へり。今の世の神道者、貧困に窮する事斯(か)くの如し。是(これ)真の神道を知らざるが故なり。夫れ神道は、豊芦原(とよあしはら)を瑞穂の国とし、漂(ただよ)へる国を安国と固(かた)め成す道なり。然(しか)る大道を知る者、決して貧窮に陥(おちい)るの理なし。是神道の何物たるを知らざるの証なり。歎(なげ)かはしき事ならずや。
現代語訳
ある人が言った。恵心僧都の伝記に「今の世の僧たちが説く仏道が本当の仏道であるなら、仏道ほど世に悪いものはないだろう」とある。面白い言葉ではないか。翁が言われた。まことに名言だ。ただ仏道だけのことではない、儒道も神道も同じだろう。今どきの儒者たちが行っていることが本当の儒道なら、世に儒道ほどつまらぬものはあるまい。今どきの神道者たちの説く神道が本当の神道なら、神道ほど無用なものはあるまい、と私も思う。そもそも神道は天地開闢の大道であって、葦原の国を瑞穂の国、安らかな国と治められた道であることは、論ずるまでもなく明らかだ。どうして今の世の、御札を配って米や銭を乞う祈祷師の類の知るところであろうか。川柳に「神道者身にぼろぼろを纏ひ居り」とある。今の世の神道者が貧困に窮するのはこのとおりだ。これは真の神道を知らないからである。そもそも神道は葦原の国を瑞穂の国とし、漂う国土を安らかな国に固め成す道である。この大道を知る者が貧窮に陥る道理は決してない。貧しいのは神道が何であるかを知らない証拠だ。嘆かわしいことではないか。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、夫(そ)れ神道は、開闢(かいびゃく)の大道皇国本源の道なり、豊芦原(とよあしはら)を、此の如き瑞穂(みずほ)の国安国と治(おさ)めたまひし大道なり、此の開国の道、則(すなわ)ち真の神道なり、我が神道盛んに行はれてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ、我が神道開闢の道未(いま)だ盛んならざるの前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず、我が神道、則ち開闢の大道先(ま)づ行はれ、十分に事足るに随(したが)ひてより後、世上に六(むつ)かしき事も出来るなり、其の時にこそ、儒も入用、仏も入用なれ、是れ誠に疑ひなき道理なり、譬(たと)へば未だ嫁(よめ)のなき時に夫婦喧嘩(げんか)あるべからず、未だ子幼少なるに親子喧嘩あるべからず、嫁有りて後に夫婦喧嘩あり、子生長して後に親子喧嘩あるなり、此の時に至りてこそ、五倫五常も悟道治心も、入用となるなれ、然るを世人此の道理に暗(くら)く、治国治心の道を以て、本元の道とす、是れ大なる誤りなり、夫れ本元の道は開闢の道なる事明なり、予此の迷ひを醒(さ)まさん為に「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」とよめり、能く味(あじわ)ふべし、大御神の足跡のある処、真の神道なり、世に神道と云ふものは、神主の道にして、神の道にはあらず、甚(はなは)だしきに至りては、巫祝(ふしゅく)の輩(ともがら)が、神札を配りて米銭を乞ふ者をも神道者と云ふに至れり、神道と云ふ物、豈(あに)此の如く、卑(いや)しき物ならんや、能く思ふべし。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、予(よ)久敷(ひさし)く考へて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり、儒道(じゅどう)は何を教とし、何に長じ何に短なり、仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考ふるに皆相互(たがい)に長短あり、予が歌に「世の中は捨足代木(すてあじろぎ)の丈くらべそれこれ共に長し短し」と云ひしは、慨歎(がいたん)に堪(たへ)ねばなり、仍(よっ)て今道々の、専(もっぱ)らとする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊(たっと)ばず、卑近(ひきん)を厭(いと)はず、此(この)三道の正味(しょうみ)のみを取れり、正味とは人界(じんかい)に切用(せつよう)なるを云ふ、切用なるを取りて、切用ならぬを捨てて、人界無上(むじょう)の教を立つ、是を報徳教と云ふ、戯(たわむ)れに名付けて、神儒仏正味一粒丸(しんじゅぶつしょうみいちりゅうがん)と云ふ、其功能(こうのう)の広太なる事、挙(あ)げて数(かぞ)ふべからず、故に国に用ゐれば国病癒(い)え、家に用ゐれば家病癒え、其外荒地多きを患(うれ)ふる者、服膺(ふくよう)すれば開拓なり、負債(ふさい)多きを患ふる者、服膺すれば返済なり、資本なきを患ふる者、服膺すれば資本を得、家なきを患ふる者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患ふる者、服膺すれば農具を得、其他貧窮病、驕奢(きょうしゃ)病、放蕩(ほうとう)病、無頼(ぶらい)病、遊惰(ゆうだ)病、皆服膺して癒えずと云ふ事なし、衣笠兵太夫(きぬがさへいだゆう)、神儒仏三味の分量を問ふ、翁曰く、神一匕(さじ)、儒仏半匕(さじ)づゝなりと、或(あるひと)傍(かたわ)らに有り、是を図にして、三味分量此の如きかと問ふ、翁一笑して曰く、世間此の寄せ物の如き丸薬あらんや、既(すで)に丸薬と云へば、能(よ)く混和(こんわ)して、更に何物とも、分らざる也、此の如くならざれば、口中に入りて舌に障(さわ)り、腹中に入りて腹合ひ悪(あ)し、能々(よくよく)混和して何品とも分らざるを要するなり、呵々(かか)。
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二宮翁夜話・巻之五翁曰く、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何(いかん)せん、縦令(たとい)出家遁世(とんせい)して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行(さいぎょう)の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(たが)ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々(よくよく)玩味(がんみ)すべし。
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二宮翁夜話・巻之二綾部の城主九鬼侯、御所蔵の神道の書物十巻、是を見よとて翁に送らる、翁暇(いとま)なきを以て、封を解き玉(たま)はざる事二年、翁一日少しく病あり、予をして此の書を開き、病床にて読(よ)ましめらる、翁曰(いわ)く、此の書の如きは皆神に仕ふる者の道にして、神の道にはあらざるなり、此の書の類(るい)万巻あるも、国家の用をなさず、夫(そ)れ神道と云ふ物、国家の為、今日上、用なき物ならんや、中庸にも、道は須臾(しばらく)も離(はな)るべからず、離るべきは道にあらず、と云へり、世上道を説ける書籍、大凡(おおよそ)此の類なり、此の類の書あるも益なく、無きも損(そん)なきなり、予が歌に「古道に積る木の葉をかき掻(か)き分けて天照す神のあし跡を見む」とよめり、古道とは皇国固有の大道を云ふ、積る木の葉とは儒仏を始(はじ)め諸子百家の書籍の多きを云ふ、夫れ皇国固有の大道は、今現に存すれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋(おお)はれて見えぬなれば、是を見んとするには、此の木の葉の如き書籍をかき分けて大御神の御足の跡はいづこにあるぞと、尋(たず)ねざれば、真の神道を見る事は出来ざるなり、汝等(なんじら)落積(おちつも)りたる木の葉に目を付くるは、大なる間違ひなり、落積りたる木の葉を掻き分け捨てて、大道を得る事を勤(つと)めよ、然らざれば、真の大道は、決して得る事はならぬなり。
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『弘道館記述義』・神州之道・神州の道を損ねた四つの弊害神州の道を奉じ、西土の教へを資る。臣彪謹んで案ずるに、斯の道湮晦すること既に久しく、而して儒教の支離すること又一日に非ず。則ち之を奉じ之に資る所以の者は、審思して明弁せざるべからず。夫れ神州の道は、浮屠之を奪ひ、俗儒之を壊り、神道者流之を小とし、古学者流殆ど之を明らかにして又従ひて之を晦くす。何を以て之を言ふ。神を敬ひ祭を重んずるは、斯の道の尤も大なる者なり。而るに浮屠は本地垂跡の説を設け、天下の神祇を挙げて胡鬼の末流に隷せしむ。所在の神宮に伽藍を創立し、神仏並び祀る。祠官僧徒比隣雑処し、甚だしきは則ち陽は神にして陰は仏、唯僧のみ之に主たり。乃ち朝廷の典礼に至るまで、往往浮屠の法を用ひ、遂に喪祭の大事を挙げて一切髠首に委ぬ。是れ浮屠之を奪ふなり。上世未だ文字有らず、斯の道は或いは言語歌詞に伝はり、或いは風俗政教に存し、或いは氏族官職、名物制度の中に寓す。其の筆して書に著すに及び、慎みて其の旧を存すすら、猶ほ其の真を失はんことを恐る。而るに操觚の士は、徒に西土の文に眩み、古風の質に慊らず、一意に慕ひ倣ひ此を捨てて彼に従ふ。書紀の体例の厳なるを以てすと雖も、稗田阿礼の誦する所に較ぶれば、則ち華に就きて実を失ふ者は未だ必ずしも無くんばあらず。書紀すら猶ほ且つ然り、其の他復た何をか説かん。是れ俗儒之を壊るなり。後世に及び浮華日に長じ異端益ます熾んなり。凡そ其の教と曰ひ法と曰ふは、儒に非ざれば則ち仏。古道の寓する所は禱祀祓除の事に過ぎず。是に於いて好事者、儒仏を剽窃し五行を附会し、別に門戸を標立して名づけて神道と曰ふ。夫れ神とは人の本とする所にして、其の道は所謂生民須臾も離るべからざる者、豈に巫覡の得て私にすべき所ならんや。而るに方伎の流は往往其の名に託して以て餬口の具と為す。是れ神道者流之を小とするなり。近世古学を唱ふる者は、古言を錯綜し旧事を網羅す。考証の力、勤めたりと謂ふべし。
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二宮翁夜話・巻之四神儒仏(しんじゅぶつ)の書、数万巻あり、それを研究(けんきゅう)するも、深山(しんざん)に入りて坐禅(ざぜん)するも、其(そ)の道を上(のぼ)り極(きわ)むる時は、世を救(すく)ひ、世を益(えき)するの外(ほか)に道は有るべからず。若(も)し有りといへば、邪道なるべし。正道は必ず世を益するの一つなり。縦令(たと)ひ学問するも、道を学ぶも、此処(ここ)に到らざれば、葎(むぐら)蓬(よもぎ)の徒(いたずら)にはひ広がりたるが如く、人世(じんせい)に用(よう)無き物なり。人世に用無き物は、尊(たっと)ぶにたらず、広がれば広がる程、世の害なり。幾年(いくとせ)の後か、聖君(せいくん)出でて、此の如き無用の書は焼捨(やきす)つる事もなしといふべからず。焼捨つる事なきも、荒蕪(こうぶ)を開くが如く、無用なる葎蓬を刈捨(かりす)てて、有用の道の広まる、時節もなしと云ふべからず。兎(と)も角(かく)も、人世に益なき書は見るべからず、自他に益なき事は為すべからず。光陰(こういん)は矢の如し、人生は六十年といへども、幼老(ようろう)の時あり、疾病(しっぺい)あり、事故あり、事を為すの日は至(いた)りて少なければ、無用の事はなす勿(なか)れ。

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