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二宮翁夜話 / 巻之五

翁曰、老仏の道は高尚なり、譬て云ば、日光箱根等の山岳の峨々たるが如し、雲水愛すべく、風景楽むべしといへども、生民の為に功用少し、我道は平地村落の野鄙なるが如し、風景の愛すべきなく、雲水の楽むべきなしといへども、百穀涌出れば国家の富源は此処にある也、仏家知識の清浄なるは、譬ば浜の真砂の如し、我党は泥沼の如し、然といへ共蓮花は浜砂に生ぜず、汚泥に生ず、大名の城の立派なるも市中の繁花なるも、財源は村落にあり、是を以て至道は卑近に有て、高遠にあらず、実徳は卑近にありて、高遠にあらず、卑近決して卑近にあらざる道理を悟るべし。

書き下し

翁(おきな)曰(いわ)く、老仏(ろうぶつ)の道は高尚(こうしょう)なり、譬(たと)へて云(い)はば、日光箱根等の山岳の峨々(がが)たるが如し、雲水(うんすい)愛すべく、風景楽(たの)しむべしといへども、生民(せいみん)の為に功用(こうよう)少し、我道は平地村落の野鄙(やひ)なるが如し、風景の愛すべきなく、雲水の楽しむべきなしといへども、百穀(ひゃっこく)涌出(わきい)づれば国家の富源(ふげん)は此処(ここ)にある也、仏家知識(ちしき)の清浄なるは、譬ば浜の真砂(まさご)の如し、我党(わがとう)は泥沼(どろぬま)の如し、然(しか)りといへ共(ども)蓮花(れんげ)は浜砂に生ぜず、汚泥(おでい)に生ず、大名の城の立派なるも市中の繁花(はんか)なるも、財源は村落にあり、是(これ)を以て至道は卑近(ひきん)に有りて、高遠(こうえん)にあらず、実徳(じっとく)は卑近にありて、高遠にあらず、卑近決して卑近にあらざる道理を悟(さと)るべし。

現代語訳

翁が言われた。老子や仏の道は高尚である。たとえて言えば、日光や箱根の険しくそびえる山々のようなものだ。雲や水は愛でるに値し、風景は楽しむに値するが、庶民の役に立つことは少ない。私の道は平地の村里のように野暮ったいものだ。愛でるほどの風景も楽しむほどの雲水もないが、そこから多くの穀物が湧き出れば、国家の富の源はここにあるのだ。仏家の知恵の清らかさは、たとえば浜の白砂のようだ。私たちの一党は泥沼のようなものである。しかし蓮の花は浜の砂には咲かず、汚れた泥の中に咲く。大名の城が立派なのも町なかがにぎわうのも、その財源は村里にある。だから究極の道は身近なところにあって、高く遠いところにあるのではない。真実の徳も身近にあって高遠にはない。身近なものが決して卑しいものではないという道理を悟るべきだ。

解説

尊徳は、老荘や仏教の教えを高くそびえる名山にたとえ、美しいが庶民の暮らしには役立ちにくいと述べます。対して自分の道は平地の村里のように地味だが、そこから穀物が実り国家の富を生む――蓮の花が清い砂ではなく汚れた泥から咲くように、真の徳は身近で泥くさい暮らしの中にあると説きます。ここには、大名の城も町のにぎわいも財源はすべて農村にあるという勤労と積小為大の思想が貫かれています。「至道は卑近にあり」という言葉は、立派な理屈より足元の実践を重んじる報徳の核心です。現代でも、華やかな理想論より地道な現場の営みこそ価値の源だと気づかせてくれます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳卑近至道蓮花汚泥農本

この一句を、あなたの毎日に。

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