二宮翁夜話 / 巻之四
翁曰、仏道の伝来祖々厳密なり、然といへ共、古と今と表裏の違ひあり、古の仏者は鉄鉢一つを以て、世を送れり、今の仏者は日々厚味に飽けり、古の仏者は、糞雑衣とて、人の捨たる破れ切を、緘ぢ合せて体を覆ふ、今の仏者は常に綾羅錦繡を纏へり、古の仏者は、山林岩穴、常に草坐せり、今の仏者は、常に高堂に安坐す、是皆遺教等に説く所と天地雲泥の違ひに非ずや、然といへども、是自然の勢なり、何となれば、遺教に田宅を安置する事を得ずとあり、而て上朱印地を賜ふ、財宝を遠離する事、火坑を避るが如くせよとも、又蓄積する事勿れともあり、而て世人、競ふて財物を寄附す、また好みを、貴人に結ぶ事を得ずと、而て貴人自ら随従して、弟子と称す、譬ば大河流水の突当る処には砂石集らずして、水の当らざる処に集るが如し、是又自然の勢なり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、仏道の伝来、祖々(そそ)厳密(げんみつ)なり。然(しか)りといへ共、古(いにしえ)と今と表裏の違ひあり。古の仏者は鉄鉢(てつばち)一つを以て、世を送れり、今の仏者は日々厚味に飽(あ)けり。古の仏者は、糞雑衣(ふんぞうえ)とて、人の捨てたる破れ切(ぎれ)を、緘(と)ぢ合せて体を覆(おお)ふ、今の仏者は常に綾羅錦繡(りょうらきんしゅう)を纏(まと)へり。古の仏者は、山林岩穴、常に草坐(そうざ)せり、今の仏者は、常に高堂(こうどう)に安坐す。是(これ)皆遺教(ゆいきょう)等に説く所と天地雲泥の違ひに非(あら)ずや。然(しか)りといへども、是自然の勢(いきおい)なり。何となれば、遺教に田宅を安置する事を得ずとあり、而(しか)して上(かみ)朱印地(しゅいんち)を賜(たま)ふ。財宝を遠離(えんり)する事、火坑(かこう)を避(さ)くるが如くせよとも、又蓄積する事勿(なか)れともあり、而して世人、競(きそ)ふて財物を寄附す。また好(よし)みを、貴人に結ぶ事を得ずと、而して貴人自(みずか)ら随従(ずいじゅう)して、弟子と称す。譬(たと)へば大河流水の突(つ)き当る処には砂石集(あつま)らずして、水の当らざる処に集るが如し。是又自然の勢なり。
現代語訳
翁が言われた。仏道は代々の祖師によって厳密に伝えられてきた。とはいえ、昔と今とでは表裏が逆になるほどの違いがある。昔の僧は鉄の鉢一つで世を過ごしたが、今の僧は日々ごちそうに飽きている。昔の僧は糞雑衣といって、人が捨てたぼろ切れを綴り合わせて体を覆ったが、今の僧はいつも綾錦をまとっている。昔の僧は山林や岩穴で草の上に座したが、今の僧は立派な堂に安らかに座っている。これらはみな『遺教経』などが説くところと天と地ほどの違いではないか。とはいえ、これも自然の勢いである。なぜなら、遺教には田畑や家を持ってはならないとあるのに、上からは朱印地(寺領)を賜る。財宝を遠ざけること火の穴を避けるようにせよ、蓄えるなともあるのに、世の人は競って財物を寄付する。貴人と親しく交わってはならないとあるのに、貴人自らが従い弟子と称する。たとえば大河の流れがぶつかる所には砂や石が集まらず、水の当たらない所に集まるようなものだ。これもまた自然の勢いである。