二宮翁夜話 / 巻之四
翁曰、自然に行るゝ是天理なり、天理に随ふといへ共、又人為を以て行ふを人道と云、人体の柔弱なる、雨風雪霜寒暑昼夜、循環止まざるの世界に生れて、羽毛鱗介の堅めなく、飲食一日も欠くべからずして、爪牙の利なし、故に身の為に便利なる道を立ざれば、身を安ずる事能はず、さればこそ、此道を尊んで、其本原天に出づと云ひ、天性と云ひ、善とし美とし大とするなれ、此道の廃れざらん事を願へばなり、老子其隙を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、などゝ云るは無理ならず、然りといへ共、此身体を保つが為、余義なきを如何せん、身、米を喰ひ衣を着し家に居り、而て此言を主張するは、又老子輩の失と云べし、或曰、然ば仏言も失と云べき歟、翁曰、仏は生といへば滅と云ひ、有と説けば無と説き、色則是空と云ひ、空則是色と云り、老荘の意とは異なり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、自然(しぜん)に行(おこな)はるゝ是(これ)天理(てんり)なり、天理に随(したが)ふといへ共(ども)、又(また)人為(じんい)を以(もっ)て行ふを人道(じんどう)と云(い)ふ、人体の柔弱(じゅうじゃく)なる、雨風雪霜寒暑昼夜、循環(じゅんかん)止まざるの世界に生れて、羽毛鱗介(うもうりんかい)の堅(かた)めなく、飲食一日も欠(か)くべからずして、爪牙(そうが)の利なし、故に身の為に便利なる道を立てざれば、身を安(やす)んずる事能(あた)はず、さればこそ、此(こ)の道を尊(たっと)んで、其(そ)の本原(ほんげん)天に出づと云ひ、天性と云ひ、善とし美とし大とするなれ、此の道の廃(すた)れざらん事を願へばなり、老子(ろうし)其(そ)の隙(すき)を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、などゝ云へるは無理ならず、然(しか)りといへ共、此の身体を保(たも)つが為、余義(よぎ)なきを如何(いか)んせん、身、米を喰(く)ひ衣を着し家に居り、而(しか)して此の言を主張するは、又老子輩(はい)の失(しつ)と云ふべし、或(ある)ひと曰く、然(しか)らば仏言(ぶつげん)も失と云ふべき歟(か)、翁曰く、仏は生といへば滅と云ひ、有と説けば無と説き、色則是空(しきそくぜくう)と云ひ、空則是色と云へり、老荘の意とは異(こと)なり。
現代語訳
翁が言われた。自然に行われるもの、これが天理である。天理に従うとはいえ、また人の力を加えて行うのを人道という。人の体は柔弱で、雨風雪霜、寒暑、昼夜と、絶え間なく循環する世界に生まれながら、鳥獣や魚のような羽毛やうろこの守りもなく、飲食は一日も欠かせないのに、鋭い爪も牙もない。だから身のために便利な道を立てなければ、身を安んじることができない。だからこそこの道を尊んで、その根本は天に発すると言い、天性と言い、善とし美とし大とするのだ。この道が廃れないことを願うからである。老子がその隙をみて「道と呼べる道は不変の道ではない」などと言ったのも無理はない。とはいえ、この身体を保つためにやむを得ないのをどうしようか。米を食い、衣を着て、家に住みながらこの説を主張するのは、これまた老子一派の過ちというべきだ。ある人が言った。ではお釈迦の言葉も過ちというべきか。翁が言われた。仏は生といえば滅と言い、有と説けば無と説き、色即是空と言い、空即是色と言う。老荘の考えとは違うのだ。