二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、論語に、哀公問ひて曰く、年饑ゑて用足らず、之を如何、対へて曰く、何ぞ徹せざるや、曰く、二にして吾猶足らず、之を如何ぞそれ徹せん、対へて曰く、百姓足らば君誰と共にか足らざらん、百姓足らずんば君誰と共に足らん、とあり、是れ解し難き理なり、之を譬ふるに鉢植の松養ひ足らず、将に枯れんとす、之を如何と問ふ時、何ぞ枝を伐らざると答へたるに同じ、又問ふ、此の儘にてすら枯れんとす、何ぞそれ枝を伐らん、曰く、根枯れずんば、木誰と共に枯れん、と答へたるが如し、実に疑なき問答なり、夫れ日本は六十余州の大なる鉢なり、大なれ共此の鉢の松、養ひ足らざる時は、無用の枝葉を伐りすかすの外に道なし、人の身代も、銘々一つづつの小鉢なり、暮し方不足せば、速かに枝葉を伐り捨つべし、此の時に是れは先祖代々の仕来りなり、家風なり、是れは親の心を用ひて、建てたる別荘なり、是れは殊に愛翫せし物品なりなどと云ひて、無用の枝葉を伐り捨つる事を知らざれば、忽ち枯れ気付く物なり、既に枯れ気付きては、枝葉を伐り去るも、間に合はぬ物なり、是れ尤も富有者の子孫心得べき事なり。
書き下し
翁曰く、論語に、哀公(あいこう)問ひて曰く、年饑(う)ゑて用足らず、之を如何(いかん)、対(こた)へて曰く、何ぞ徹(てっ)せざるや、曰く、二にして吾(われ)猶(なお)足らず、之を如何ぞそれ徹せん、対へて曰く、百姓(ひゃくせい)足らば君誰と共にか足らざらん、百姓足らずんば君誰と共に足らん、とあり、是れ解し難き理なり、之を譬ふるに鉢植(はちう)ゑの松養ひ足らず、将に枯れんとす、之を如何と問ふ時、何ぞ枝を伐(き)らざると答へたるに同じ、又問ふ、此の儘(まま)にてすら枯れんとす、何ぞそれ枝を伐らん、曰く、根枯れずんば、木誰(たれ)と共に枯れん、と答へたるが如し、実に疑(うたが)ひなき問答なり、夫れ日本は六十余州の大なる鉢なり、大なれ共此の鉢の松、養ひ足らざる時は、無用の枝葉を伐りすかすの外に道なし、人の身代(しんだい)も、銘々一つづつの小鉢なり、暮し方不足せば、速(すみや)かに枝葉を伐り捨つべし、此の時に是れは先祖代々の仕来(しきた)りなり、家風なり、是れは親の心を用ひて、建てたる別荘なり、是れは殊に愛翫(あいがん)せし物品なりなどと云ひて、無用の枝葉を伐り捨つる事を知らざれば、忽(たちま)ち枯れ気付く物なり、既に枯れ気付きては、枝葉を伐り去るも、間に合はぬ物なり、是れ尤も富有者の子孫心得べき事なり。
現代語訳
翁が言われた。『論語』に、哀公が問うて言った。「凶作で費用が足りない。これをどうしたらよいか」。有若が答えて言った。「なぜ徹(十分の一税)にしないのですか」。哀公が言う。「十分の二でも私はまだ足りない。どうして徹などにできようか」。有若が答えて言った。「民が足りていれば、君はだれと共に足りないことがありましょう。民が足りなければ、君はだれと共に足りることができましょう」、とある。これは解しにくい理屈である。これをたとえれば、鉢植えの松が養分が足りず、今にも枯れようとしている。これをどうしたらよいかと問うと、なぜ枝を切らないのか、と答えたのと同じだ。また問う、このままでも枯れそうなのに、どうして枝を切れるのか。答えて言う、根が枯れなければ、木はだれと共に枯れようか、と答えたようなものだ。まことに疑いようのない問答である。そもそも日本は六十余州の大きな鉢だ。大きくても、この鉢の松が養分が足りないときは、無用の枝葉を切りすかすほかに道はない。人の身代も、めいめい一つずつの小鉢である。暮らし向きが不足すれば、速やかに枝葉を切り捨てるべきだ。このとき、これは先祖代々のしきたりだ、家風だ、これは親が心を込めて建てた別荘だ、これは特に大切にしてきた品だ、などと言って無用の枝葉を切り捨てることを知らなければ、たちまち枯れ始める。すでに枯れ始めてからでは、枝葉を切り去っても間に合わない。これは特に、富裕な者の子孫が心得ておくべきことである。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、哀公(あいこう)問ふ、年饑(う)ゑて用足らず是(これ)を如何(いかん)、有若(ゆうじゃく)答(こた)へて曰く、何ぞ徹(てっ)せざるやと。是(これ)面白(おもしろ)き道理なり。予(よ)常に人を諭(さと)す、一日十銭取て足らずんば、九銭取るべし、九銭取て足らずんば、八銭取るべしと。夫(そ)れ人の身代(しんだい)は、多く取れば益々(ますます)不足を生じ、少(すく)く取りても、不足なき物なり。是(これ)理外(りがい)の理なり。
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二宮翁夜話・巻之四翁曰く、人の身代(しんだい)は大凡(おおよそ)数ある物なり、譬(たと)えば鉢植(はちうえ)の松の如し、鉢の大小に依(よ)りて、松にも大小あり、緑(みどり)を延(の)び次第にする時は、忽(たちま)ち枯気(かれぎ)付く物なり、年々に緑をつみ、枝をすかしてこそ美(うるわ)しく栄(さか)ゆるなれ、是(これ)心得べき事なり、此の理をしらず、春は遊山(ゆさん)に緑を延ばし、秋は月見に緑を延ばし、斯(か)くの如く、拠(よりどころ)なき交際と云いては枝を出し、親類の付合と云いては梢(こずえ)を出し、分外(ぶんがい)に延び過ぎ、枝葉次第に殖(ふ)えゆくを、伐(き)り捨てざる時は、身代の松の根、漸々(ぜんぜん)に衰(おとろ)えて、枯れ果(は)つべし、されば其の鉢に応じたる枝葉を残し、不相応の枝葉をば年々伐(き)りすかすべし、尤(もっと)も肝要(かんよう)の事なり。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、樹木を植(う)うるに、根を伐(き)る時は、必(かなら)ず枝葉(えだは)をも切捨(きりす)つべし。根少(すく)なくして水を吸(す)ふ力少なければ、枯(か)るゝ物なり。大(おおい)に枝葉を伐(き)りすかして、根の力に応ずべし。然(しか)せざれば枯るゝなり。譬(たと)へば人の身代(しんだい)、稼(かせ)ぎ人が欠(か)け家株(かかぶ)の減(げん)ずるは、植替(うえか)へたる樹(き)の、根少なくして水を吸(す)ひ上(あ)ぐる力の減じたるなり。此(こ)の時は仕法(しほう)を立て、大に暮し方を縮(ちぢ)めざるを得ず。稼ぎ人少なき時大に暮せば、身代日々減少して、終(つい)に滅亡(めつぼう)に至る。根少なくして枝葉多き木の、終に枯るゝに同じ、如何(いか)とも仕方なき物なり。暑中(しょちゅう)といへ共(ども)、木の枝を大方(おおかた)伐捨(きりす)て、葉を残らずはさみ取りて、幹(みき)を菰(こも)にて包みて植え、時々此の菰に水をそゝぐ時は、枯れざる物なり。人の身代も此の理(り)なり、心を用ふべし。
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二宮翁夜話・続篇某藩(ぼうはん)の重臣某氏、藩の財政の方法を問ふ。翁(おきな)曰(いわ)く、爰(ここ)に十万石の諸侯あり、之を木に譬(たと)ふれば、百姓は土際(つちきわ)より木にある根の如し、幹と枝葉は藩中の如し、然れば十万石と云ふ時は、其領中一円神主僧侶も乞食(こじき)も皆此中の物なり、此十万石を四公六民とする時は、藩が四分、民が六分なり、然るに何方(いずかた)より頼談せらるゝも、皆藩の財政のみを改革せんとせられ、領中の事に及ばるゝはなし。古語に「其本(もと)乱れ末治まる者はあらず」とあり。其元を捨置(すてお)きて、其末のみを挙(あ)げんとするも、順序違へば、労するとも功無かるべし。真に藩の疲弊を救はんとならば、民政も共に改革せらるべし、さ無き時は、木の根を捨置て、枝葉に肥(こやし)を施すが如し。是(これ)卿(けい)が尤(もっと)も心を用ひらるべき所にて、卿が職務なり、帰藩の上能々(よくよく)勘考せらるべしと。某氏感服感服と云ひて去れり。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、凡(およ)そ事を成さんと欲せば、始に其(その)終を詳(つまびらか)にすべし、譬(たと)へば木を伐(き)るが如き、未(いま)だ伐らぬ前に、木の倒(たお)るゝ処を、詳に定めざれば、倒れんとする時に臨(のぞ)んで、如何(いか)共仕方無し、故に、予印旛沼(いんばぬま)を見分(けんぶん)する時も、仕上げ見分をも、一度にせんと云て、如何なる異変にても、失敗なき方法を工夫せり、相馬侯(そうまこう)、興国の方法依頼(いらい)の時も、着手より以前に百八十年の収納を調(しら)べて、分度(ぶんど)の基礎(きそ)を立たり、是(これ)荒地開拓、出来上りたる時の用心なり、我方法は分度を定むるを以て本とす、此分度を確乎(かっこ)と立て、之を守る事厳(げん)なれば、荒地何程あるも借財何程あるも、何をか懼(おそ)れ何をか患(うれ)へん、我(わが)富国安民の法は、分度を定むるの一ツなればなり、夫(それ)皇国は、皇国丈(だけ)にて限れり、此外へ広(ひろ)くする事は決してならず、然れば十石は十石、百石は百石、其分を守るの外に道はなし、百石を二百石に増し、千石を二千石に増す事は、一家にて相談はすべけれ共、一村一同に為る事は、決して出来ざるなり、是(これ)安きに似て甚(はなは)だ難事なり、故に分度を守るを我道の第一とす、能此理を明にして、分を守れば、誠に安穏(あんのん)にして、杉の実を取り、苗を仕立、山に植て、其成木を待て楽(たの)しむ事を得る也、分度を守らざれば先祖より譲(ゆず)られし大木の林を、一時に伐払(きりはら)ひても、間に合ぬ様に成行く事、眼前(がんぜん)なり、分度を越(こ)ゆるの過(あやまち)恐るべし、財産ある者は、一年の衣食、是にて足ると云処を定めて、分度として多少を論ぜず、分外を譲(ゆず)り、世の為をして年を積(つ)まば、其功徳無量なるべし、釈氏(しゃくし)は世を救(すく)はんが為に、国家をも妻子をも捨(す)てたり、世を救ふに志あらば、何ぞ我分度外を、譲る事のならざらんや。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、仏に悟道(ごどう)の論あり、面白しといへ共、人道をば害する事あり、則(すなわ)ち生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)の類(るい)なり、其(そ)の本源を顕(あらわ)して云ふが故なり。悟道は譬(たと)へば、草の根は此(か)くの如き物ぞと、一々顕(あら)はして、人に見(み)するが如し。理は然(しか)りといへども、之(これ)を実地に行ふ時は皆枯るゝなり。儒道(じゅどう)は草の根の事は言(い)はず、草の根は見ずして可なる物と定め、根あるが為に生育する物なれば、根こそ大切なれ、培養(ばいよう)こそ大切なれと教るが如し。夫(そ)れ松の木の青々と見ゆるも、桜(さくら)の花の美(うるわ)しく匂ふも、土中に根あるが故なり。蓮花(れんげ)の馥郁(ふくいく)たるも、花菖蒲(はなしょうぶ)の美麗なるも、泥中に根をさし居(お)ればなり。質屋の蔵の立派なるは、質を置く貧人の多きなり、大名の城の広大なるは、領分に人民多きなり。松の根を伐(き)れば、直(ただ)ちに緑(みどり)の先が弱(よわ)り、二三日立(た)てば、枝葉皆凋(しぼ)む。民窮すれば君も窮し、民富めば君も富む、明々了々、毫末(ごうまつ)も疑ひなき道理なり。