二宮翁夜話 / 巻之一
翁曰く、夫れ人道は譬ば、水車の如し。其形半分は水流に順ひ、半分は水流に逆ふて輪廻す。丸に水中に入れば廻らずして流るべし。又水を離るれば廻る事あるべからず。夫れ仏家に所謂知識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、譬ば水車の水を離れたるが如し。又凡俗の教義も聞ず義務もしらず、私欲一偏に着するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。共に社会の用をなさず。故に人道は中庸を尊む。水車の中庸は、宜き程に水中に入て、半分は水に順ひ、半分は流水に逆昇りて、運転滞らざるにあり。人の道もその如く天理に順ひて種を蒔き、天理に逆ふて草を取り、欲に随ひて家業を励み、欲を制して義務を思ふべきなり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、夫(そ)れ人道は譬(たと)へば、水車(みずぐるま)の如し。其形(そのかたち)半分は水流に順(したが)ひ、半分は水流に逆(さか)ふて輪廻(りんね)す。丸(まる)に水中に入れば廻らずして流るべし。又水を離るれば廻る事あるべからず。夫れ仏家に所謂(いわゆる)知識(ちしき)の如く、世を離れ欲を捨てたるは、譬へば水車の水を離れたるが如し。又凡俗(ぼんぞく)の教義も聞(き)かず義務もしらず、私欲一偏(いっぺん)に着(じゃく)するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。共に社会の用をなさず。故に人道は中庸(ちゅうよう)を尊む。水車の中庸は、宜(よろ)しき程に水中に入りて、半分は水に順ひ、半分は流水に逆昇(さかのぼ)りて、運転滞らざるにあり。人の道もその如く天理に順ひて種を蒔き、天理に逆ふて草を取り、欲に随(したが)ひて家業を励み、欲を制して義務を思ふべきなり。
現代語訳
翁が言われた。そもそも人の道はたとえば水車のようなものだ。その形は半分は水の流れに従い、半分は流れに逆らって回っている。すっかり水中に沈めてしまえば回らずに流されるだけだし、逆に水から離してしまえば回りようがない。仏家でいう「善知識」のように、世俗を離れ欲を捨て去った者は、たとえば水車が水から離れてしまったようなものだ。また、世間の教えも聞かず義務も知らず、私欲一辺倒に執着する者は、水車をすっかり水中に沈めたようなものだ。どちらも社会の役に立たない。だから人の道は中庸を尊ぶ。水車の中庸とは、ほどよく水中に入って、半分は水に従い半分は流れに逆らってのぼり、滞りなく回り続けることにある。人の道もそれと同じで、天理に従って種を蒔き、天理に逆らって草を取り、欲に従って家業に励み、欲を抑えて義務を思うべきなのである。
解説
この章句が説くこと
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