二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、太閤の陣法に、敵を以て敵を防ぎ、敵を以て敵を打つの計ありと、実に良策なるべし、水防にも、水を以て水を防ぐの法あり、知らずばあるべからず、町田亘曰、近来富士川に雁がね堤と云を築けり、是其法なるべし、翁曰、実ならば、能水を治るの法を得たる者なり、夫我仕法又然り、荒地は、荒地の力を以て開き、借金は、借金の費を以て返済し、金を積には、金に積ましむ、教も又然り、仏教にて、此世は僅の仮の宿、来世こそ大事なれと教ふ、是又、欲を以て欲を制するなり、夫幽世の事は、眼に見えざれば、皆想像説なり、然といへ共、草を以て見る時は、粗見ゆるなり、今茲に一草あらん、此草に向ひて説法せんに、夫汝は現在、草と生れ露を吸ひ肥しを吸ひ、喜び居るといへ共、是は皆迷ひと云物ぞ、夫此世は、春風に催されて生出たる物にて、実に仮の宿ぞ、明朝にも、秋風立ば、花も散り葉も枯れ、風雨の艱難を凌ぎて生長せしも、皆無益なり、此秋風を、無常の風と云、恐るべし、早く、此世は仮の宿なる事を悟りて、一日も早く実を結び種となりて、火にも焼けざる蔵の中に入りて、安心せよ、此世にて肥を吸ひ露を吸ひ、葉を出し花を開くは皆迷なり、早く種となり、草の世を捨よ、其種となりて、ゆく処に、無量斯々の娯楽あり、と説くが如し、是欲の制し難きを知て、是を制するに欲を以てして勧善懲悪の教とせしなり、然るを末世の法師等、此教を以て米金を集るの計策をなす、悲しからずや
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、太閤(たいこう)の陣法に、敵を以て敵を防(ふせ)ぎ、敵を以て敵を打つの計(はかりごと)ありと、実に良策(りょうさく)なるべし、水防にも、水を以て水を防ぐの法あり、知らずばあるべからず、町田亘(わたり)曰く、近来富士川に雁がね堤と云を築(きず)けり、是其法なるべし、翁曰く、実ならば、能(よ)く水を治(おさ)むるの法を得たる者なり、夫(それ)我仕法又然り、荒地は、荒地の力を以て開き、借金は、借金の費(ついえ)を以て返済し、金を積(つ)むには、金に積ましむ、教も又然り、仏教にて、此世は僅(わずか)の仮の宿、来世こそ大事なれと教ふ、是又、欲を以て欲を制するなり、夫幽世(いうせい)の事は、眼に見えざれば、皆想像説なり、然といへ共、草を以て見る時は、粗(ほぼ)見ゆるなり、今茲(ここ)に一草あらん、此草に向ひて説法せんに、夫汝(なんじ)は現在、草と生れ露(つゆ)を吸ひ肥(こやし)を吸ひ、喜び居るといへ共、是は皆迷(まよ)ひと云物ぞ、夫此世は、春風に催(もよお)されて生出(いでたる)物にて、実に仮の宿ぞ、明朝にも、秋風立(たた)ば、花も散り葉も枯れ、風雨の艱難(かんなん)を凌(しの)ぎて生長せしも、皆無益(むえき)なり、此秋風を、無常の風と云、恐(おそ)るべし、早く、此世は仮の宿なる事を悟(さと)りて、一日も早く実(み)を結び種となりて、火にも焼(や)けざる蔵(くら)の中に入りて、安心せよ、此世にて肥を吸ひ露を吸ひ、葉を出し花を開くは皆迷なり、早く種となり、草の世を捨(す)てよ、其種となりて、ゆく処に、無量斯々(しし)の娯楽(ごらく)あり、と説くが如し、是欲の制し難(がた)きを知て、是を制するに欲を以てして勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の教とせしなり、然るを末世の法師等、此教を以て米金を集(あつ)むるの計策をなす、悲(かな)しからずや
現代語訳
翁が言われた。太閤秀吉の戦法に「敵をもって敵を防ぎ、敵をもって敵を討つ」という策があるという。実に良策であろう。水防にも「水をもって水を防ぐ」法がある。知らずにいてはならない。町田亘が言った。近ごろ富士川に雁がね堤というものを築いた。これがその法でしょう。翁が言われた。本当なら、よく水を治める法を得た者だ。私の仕法もまた同じである。荒地は荒地の力で開き、借金は借金の出費で返済し、金を積むには金に積ませる。教えもまた同じだ。仏教では「この世はわずかの仮の宿、来世こそ大事だ」と教える。これもまた欲をもって欲を制するものだ。あの世のことは目に見えないから、皆想像の説である。とはいえ、草にたとえて見れば、おおよそ分かる。今ここに一本の草があるとしよう。この草に向かって説法するなら――お前は今、草と生まれ露を吸い肥料を吸って喜んでいるが、これは皆迷いというものだ。この世は春風に催されて生え出たもので、実に仮の宿だ。明日の朝にも秋風が立てば、花も散り葉も枯れ、風雨の苦難を凌いで生長したのも皆無駄になる。この秋風を無常の風という、恐るべきものだ。早くこの世が仮の宿であると悟って、一日も早く実を結び種となって、火にも焼けない蔵の中に入って安心せよ。この世で肥料を吸い露を吸い、葉を出し花を開くのは皆迷いだ。早く種となって草の世を捨てよ。その種となって行く先には、はかりしれぬ多くの楽しみがある――と説くようなものだ。これは欲が制しがたいのを知って、それを欲によって制し、勧善懲悪の教えとしたのである。それなのに末世の坊主たちは、この教えを使って米や金を集める策略にしている。悲しいことではないか。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、世人の常情(じょうじょう)、明日食ふべき物なき時は、他に借(かり)に行かんとか、救ひを乞(こ)はんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食ふべき物なしと云ふ時は、釜(かま)も膳椀(ぜんわん)も洗ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤(もっと)もの事なれども、此の心は困窮其の身を離れざるの根元なり、如何(いか)となれば、日々釜を洗ひ膳椀を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是(これ)心得違(ちが)ひなり、たとへ明日食ふべき物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(つな)ぎたる、恩あればなり、是恩を思ふの道なり、此の心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔(へだて)あるにあらず、明日助からむ事のみを思ひて、今日までの恩を思はざると、明日助からむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二つのみ、是大切の道理なり、能々(よくよく)心得べし、仏家にては、此の世は仮(かり)の宿、来世こそ大切なれと教ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽んずるは誤(あやま)れり、今一草を以て之を譬(たと)へん、夫(それ)草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好(よ)き実を結ばんには、現世の草の時、芽立(めだち)より出精して、露を吸ひ肥(こやし)を吸ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(しの)ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂(しげ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其の如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(た)ち身を慎(つつし)み道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏(あんのん)なる事を得んや、夫地獄(じごく)は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽(ごくらく)は善事を為したる者の行く処なる事、鏡に掛けて明らかなれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべきなり、先(ま)づ此の身は如何にして生れ出でしやと、跡を振返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(いずく)んぞ死を知らん、と云へり、夫性(せい)は天の令命なり、身体は父母の賜(たまもの)なり、其の元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先づ此の理より窮(きわ)めて、天徳に報ひ、父母の恩に報ゆる行ひを立つべし、性に率(したが)ひて道を蹈むは、人の勤(つとめ)なり、此の勤を励む時は、来世は願はずして、安穏なる事疑ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以(ゆえん)なり、釈氏(しゃくし)の之を捨てて、世外に立ちしは、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんが為なり、世を救はんには、世外に立たざれば、広く救ひ難きが故なり、譬ば己が坐して居る畳を揚げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐべからざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷へるなり、然れども僧侶は其の法を伝へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命(あんじんりゅうめい)は爰(ここ)にあり、惑(まど)ふべからず。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、仏説(ぶっせつ)面白し、今近く譬(たとえ)を取て云(い)はば、豆の前世は草なり、草の前世は豆なり、と云ふが如し、故に豆粒に向へば、汝(なんじ)は元(もと)草の化身(けしん)なるぞ、疑(うたが)はしく思はば、汝が過去を説(と)て聞(きか)せん、汝が前世は草にして、某(それの)国某の村某が畑に生れて、雨風を凌(しの)ぎ炎暑(えんしょ)を厭(いと)ひ草に覆(おお)はれ、兄弟を間(ま)引(びか)れ、辛苦(しんく)患難(かんなん)を経(へ)て、豆粒となりたる汝なるぞ、此(この)畑主(はたぬし)の大恩を忘れず、又此草の恩を能(よく)思ひて、早く此豆粒の世を捨て元の草となり、繁茂(はんも)せん事を願へ、此豆粒の世は、仮(かり)の宿りぞ、未来の草の世こそ大事なれと云ふが如し、又草に向へば汝が前世は種なるぞ、此種の大恩に依(よ)て、今草と生れ、枝を発し葉を出し肥(こえ)を吸(す)ひ露(つゆ)を受け、花を開くに至れり、此恩を忘(わす)れず、早く未来の種を願(ねが)へ、此世は苦の世界にして、風雨寒暑の患(うれい)あり、早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の患もなき土蔵(どぞう)の中に、住(じゅう)する身となれと云ふが如し、予(よ)仏道を知らずといへども、大凡(おおよそ)此の如くなるべし、而(しか)して世界の百草(ひゃくそう)、種になれば生ずる萌(きざし)あり、生れば育つ萌あり、育(そだ)てば花咲く萌あり、花さけば実を結ぶ萌あり、実(み)を結(むす)べば落(おつ)る萌あり、落れば又生ずる萌あり、是(これ)を不止不転(ふしふてん)循環(じゅんかん)の理(り)と云ふ
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、仏に悟道(ごどう)の論あり、面白しといへ共、人道をば害する事あり、則(すなわ)ち生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)の類(るい)なり、其(そ)の本源を顕(あらわ)して云ふが故なり。悟道は譬(たと)へば、草の根は此(か)くの如き物ぞと、一々顕(あら)はして、人に見(み)するが如し。理は然(しか)りといへども、之(これ)を実地に行ふ時は皆枯るゝなり。儒道(じゅどう)は草の根の事は言(い)はず、草の根は見ずして可なる物と定め、根あるが為に生育する物なれば、根こそ大切なれ、培養(ばいよう)こそ大切なれと教るが如し。夫(そ)れ松の木の青々と見ゆるも、桜(さくら)の花の美(うるわ)しく匂ふも、土中に根あるが故なり。蓮花(れんげ)の馥郁(ふくいく)たるも、花菖蒲(はなしょうぶ)の美麗なるも、泥中に根をさし居(お)ればなり。質屋の蔵の立派なるは、質を置く貧人の多きなり、大名の城の広大なるは、領分に人民多きなり。松の根を伐(き)れば、直(ただ)ちに緑(みどり)の先が弱(よわ)り、二三日立(た)てば、枝葉皆凋(しぼ)む。民窮すれば君も窮し、民富めば君も富む、明々了々、毫末(ごうまつ)も疑ひなき道理なり。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、世界万般皆同じく一理なり、予一草を以て万理を究(きわ)む、儒書に、其の書始めは一理を言ひ、中は散じて万事となり、末(すえ)復(また)合して一理となる、之を放(はな)てば則(すなわ)ち六合(りくごう)に弥(わた)り、之を巻けば退(しりぞ)きて密に蔵(かく)る、其の味ひ窮(きわ)まりなし、とあり、今戯(たわむ)れに、一草を以て之を読まん、曰く、此の草始めは一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法(みの)れば合して一種となる、之を蒔植(うう)れば六合に弥り、之を蔵(おさ)むれば密に蔵る、之を食すれば其の味ひ窮まりなし、又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、とあり、又一草を以て之を読まん、曰く、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植うるが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々(かか)。
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二宮翁夜話・巻之五翁曰く、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何(いかん)せん、縦令(たとい)出家遁世(とんせい)して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行(さいぎょう)の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(たが)ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々(よくよく)玩味(がんみ)すべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ