二宮翁夜話 / 巻之五
或日光温泉に浴す、山中他邦の魚鳥を喰ふ事を禁じて、山中の魚鳥を殺すを禁ぜず、他の神山霊地等は境内に近き沼地山林にて、魚鳥を殺すを禁ず、是庖厨を遠くるの意、耳目の及ぶ所にて、生を殺すを忌むなり、而て日光温泉の制、是に反対せり、山中の殺生を禁ぜずして、他境の魚鳥を禁ず、是山神の意なりと云ふ、此理あるべからずと云り、翁曰、仏者殺生戒を説くといへ共、実は不都合の物なり、天地死物にあらず万物また死物にあらず、然る生世界に生れて殺生戒を立つ、何を以て生を保んや、生を保つは、生物を食するに依る、死物を食して焉生を保つ事を得ん、人皆禽獣虫魚飛揚蠢動の物を殺すを殺生と云て、草木菓穀を殺すの、殺生たるを知らず、飛揚蠢動の物を生と云ひ、草木菓穀を生物に非ずとするか、鳥獣を屠るを殺生と云ひ、菓穀を煮るを殺生に非ずとするか、然ば木食行者と云といへども、秋山の落葉を食して生を保つべけんや、然れば殺生戒と云といへども、只我と類の近き物を殺すを戒めて、類を異にする物を戒めざるなれば、不都合なる物也、されば殺生戒とは云可からず、殺類戒と云て可なる物なり、凡人道は私に立たる物なれば、至処を推窮むる時は皆此類なり、怪むにたらず、而て日光温泉は深山なり、深山などには往古の遺法残る物なれば、私に立たる往古の遺法なるべし、且深山は食に乏し、四境通達の処と同じからざれば、往古食物を得るを以て善とせしより、此の如き事になれるなるべし、怪むにたらざるなり。
書き下し
或(あるひと)日光温泉に浴す、山中他邦(たほう)の魚鳥を喰ふ事を禁(きん)じて、山中の魚鳥を殺(ころ)すを禁ぜず、他の神山霊(れい)地等は境(けい)内に近き沼地山林にて、魚鳥を殺すを禁ず、是(これ)庖厨(ほうちゅう)を遠(とおざ)くるの意、耳目の及ぶ所にて、生を殺すを忌(い)むなり、而(しか)て日光温泉の制、是に反対せり、山中の殺生を禁ぜずして、他境の魚鳥を禁ず、是山神の意なりと云ふ、此理あるべからずと云へり、翁(おきな)曰(いわ)く、仏者殺生戒を説くといへ共、実は不都合の物なり、天地死物にあらず万物また死物にあらず、然(しか)る生世界に生れて殺生戒を立つ、何を以て生を保(たも)たんや、生を保つは、生物を食するに依る、死物を食して焉(いずくん)ぞ生を保つ事を得ん、人皆禽獣(きんじゅう)虫魚飛揚(ひよう)蠢動(しゅんどう)の物を殺すを殺生と云ひて、草木菓穀(かこく)を殺すの、殺生たるを知らず、飛揚蠢動の物を生と云ひ、草木菓穀を生物に非ずとするか、鳥獣を屠(ほふ)るを殺生と云ひ、菓穀を煮(に)るを殺生に非ずとするか、然(しか)らば木食行者(もくじきぎょうじゃ)と云ふといへども、秋山の落葉を食して生を保つべけんや、然れば殺生戒と云ふといへども、只我と類の近き物を殺すを戒(いまし)めて、類(るい)を異(こと)にする物を戒めざるなれば、不都合なる物なり、されば殺生戒とは云ふ可からず、殺類戒(さつるいかい)と云ひて可なる物なり、凡(およ)そ人道は私(わたくし)に立ちたる物なれば、至処(いたるところ)を推窮(すいきゅう)むる時は皆此類なり、怪(あや)しむにたらず、而て日光温泉は深山なり、深山などには往古(おうこ)の遺(い)法残(のこ)る物なれば、私に立ちたる往古の遺法なるべし、且(か)つ深山は食に乏し、四境通達の処と同じからざれば、往古食物を得るを以て善とせしより、此の如き事になれるなるべし、怪しむにたらざるなり。
現代語訳
ある人が日光温泉に湯治した。そこでは山中で他国の魚鳥を食べることを禁じながら、山中の魚鳥を殺すことは禁じない。他の神山や霊地などでは、境内に近い沼地や山林で魚鳥を殺すことを禁じている。これは台所を遠ざける心で、目や耳の届くところで生き物を殺すのを忌むのである。ところが日光温泉のきまりはこれと反対だ。山中の殺生を禁じないで、他国の魚鳥を禁じている。これは山神の意向だというが、こんな道理はあるはずがない、とその人は言った。翁は言われた。仏者は殺生戒を説くが、実は不都合なものだ。天地は死んだものではなく、万物もまた死んだものではない。そういう生きた世界に生まれて殺生戒を立てたところで、何によって生命を保とうというのか。生命を保つのは生き物を食べることによる。死んだものを食べてどうして生命を保てようか。人はみな禽獣・虫・魚や、飛ぶもの動くものを殺すのを殺生といって、草木や果実・穀物を殺すことが殺生であると知らない。飛ぶもの動くものを生き物といい、草木や果実・穀物を生き物でないとするのか。鳥獣を屠るのを殺生といい、果実や穀物を煮るのを殺生でないとするのか。それなら木食の行者といっても、秋山の落葉を食べて生命を保てるだろうか。とすれば殺生戒といっても、ただ自分と種類の近いものを殺すのを戒めて、種類の違うものを殺すのを戒めないのだから、不都合なものだ。だから殺生戒とは言えず、殺類戒とでも言うべきものである。およそ人の道は人間の都合の上に立つものだから、どこまでも突き詰めていけばみなこの類だ。怪しむには足りない。そして日光温泉は深い山である。深山などには大昔のしきたりが残るものだから、これも都合の上に立った大昔のしきたりであろう。しかも深山は食物に乏しく、四方に通じた平地とは違うから、大昔は食物を得ることを善としたところから、こうなったのであろう。怪しむには足りないのである。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、世界、人は勿論(もちろん)、禽獣虫魚草木(きんじゅうちゅうぎょそうもく)に至るまで、凡(およ)そ天地の間に、生々(せいせい)する物は、皆天の分身(ぶんしん)と云ふべし。何となれば孑孒(ぼうふり)にても蜉蝣(ぶゆう)にても草木にても、天地造化(ぞうか)の力を仮(か)らずして、人力を以て生育せしむる事は、出来ざればなり。而(しか)して人は其(そ)の長(ちょう)たり、故に万物の霊と云ふ。其の長たるの証(しょう)は、禽獣虫魚草木を、我が勝手に支配し、生殺(せいさつ)して何方(いずかた)よりも咎(とが)めなし、人の威力は広太(こうだい)なり。されど本来は、人と禽獣(きんじゅう)と草木と何ぞ分たん、皆天の分身なるが故に、仏道にては、悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)と説(と)けり。我が国は神国なり、悉皆成神(しっかいじょうしん)と云ふべし。然(しか)るを世の人、生(い)きて居る時は人にして、死して仏と成ると思ふは違(たが)へり。生きて仏なるが故に、死して仏なるべし、生きて人にして、死して仏となる理(り)あるべからず。生きて鯖(さば)の魚が死して鰹節(かつおぶし)となるの理なし、林にある時は松にして伐(き)りて杉となる木なし。されば生前仏にて、死して仏と成り、生前神にして、死して神なり。世に人の死せしを祭(まつ)りて、神とするあり、是(これ)又生前神なるが故に神となるなり。此の理明白にあらずや。神と云ひ、仏と云ふ名は異(こと)なりといへども、実は同じ、国異なるが故に名異なるのみ。予(よ)此の心をよめる歌に「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」「世の中は草木もともに生如来(いきにょらい)死して命の有かをぞしれ」、呵々(かか)。
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二宮翁夜話・巻之五翁曰く、仏家にては、此の世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云ふといへ共、現在君親あり、妻子あるを如何(いかん)せん、縦令(たとい)出家遁世(とんせい)して、君親を捨て妻子を捨つるも、此の身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行(さいぎょう)の歌に「捨て果てて身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云へり、是れ実情なり、儒道にては、礼に非ざれば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れ、と教ふれ共、通常汝等の上にては夫れにては間に合はず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非ざれば、視る事勿れ、聴く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(たが)ふ事あるべし、是れは予が説の違へるにはあらざるなり、能々(よくよく)玩味(がんみ)すべし。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、自然(しぜん)に行(おこな)はるゝ是(これ)天理(てんり)なり、天理に随(したが)ふといへ共(ども)、又(また)人為(じんい)を以(もっ)て行ふを人道(じんどう)と云(い)ふ、人体の柔弱(じゅうじゃく)なる、雨風雪霜寒暑昼夜、循環(じゅんかん)止まざるの世界に生れて、羽毛鱗介(うもうりんかい)の堅(かた)めなく、飲食一日も欠(か)くべからずして、爪牙(そうが)の利なし、故に身の為に便利なる道を立てざれば、身を安(やす)んずる事能(あた)はず、さればこそ、此(こ)の道を尊(たっと)んで、其(そ)の本原(ほんげん)天に出づと云ひ、天性と云ひ、善とし美とし大とするなれ、此の道の廃(すた)れざらん事を願へばなり、老子(ろうし)其(そ)の隙(すき)を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、などゝ云へるは無理ならず、然(しか)りといへ共、此の身体を保(たも)つが為、余義(よぎ)なきを如何(いか)んせん、身、米を喰(く)ひ衣を着し家に居り、而(しか)して此の言を主張するは、又老子輩(はい)の失(しつ)と云ふべし、或(ある)ひと曰く、然(しか)らば仏言(ぶつげん)も失と云ふべき歟(か)、翁曰く、仏は生といへば滅と云ひ、有と説けば無と説き、色則是空(しきそくぜくう)と云ひ、空則是色と云へり、老荘の意とは異(こと)なり。
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二宮翁夜話・巻之五或(ある)ひと曰く、親鸞(しんらん)は末世の比丘戒行(びくかいぎょう)の持(たも)ち難(がた)きを洞察(どうさつ)して肉食妻帯(にくじきさいたい)を免(ゆる)せり、卓見(たっけん)と云ふべしと、翁曰く、恐らくは非ならん、予仏道は知らずといへども、之を譬(たと)へば、田地の用水堰(せき)の如き物なるべし、夫れ用水堰は、米を作るべき地を潰(つぶ)して水路とせしなり、其の如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんとする教なる事明なり、夫れ人は男女有りて相続すれば男女の道は天理自然なれ共、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしたるなり、肉身なれば肉食するも、天理なれども、此の欲をも潰して法水の堰路とせしなり、男女の欲を捨つれば、惜(お)しひ欲しひの欲念も、悪(にく)ひかはゆいの妄念(もうねん)も、皆随(したが)ひて消滅すべし、此の人情捨て難き物を捨てて、堰代(せきしろ)と為せばこそ、法水は流るるなれ、されば肉食妻帯せざる処を流伝(るでん)して、仏法は万世に伝はる物なるべし、仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし、然るを肉食妻帯を免して法を伝へんとするは、水路を潰して、稲(いね)を植ゑんとするが如しと、予は竊(ひそ)かに我れ恐るるなり。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、「咲(さけ)ばちり散(ち)れば又さき年毎(としごと)に詠(なが)め尽(つき)せぬ花の色々(いろいろ)」、困窮(こんきゅう)に陥(おちい)り、如何(いか)ともすべき様(よう)なくて、売出(うりだ)す物品を、安(やす)ひ物だと悦(よろこ)んで買(か)ひ、又不運(ふうん)極(きわま)り拠(よりどころ)なく、家を売て裏店(うらだな)へ引込(ひきこ)めば、表店(おもてだな)へ出て目出度(めでたし)と悦ぶ者、絶(たえ)ずある世の中なり、「増減(ぞうげん)は器(うつわ)傾(かたむ)く水と見よこちらに増(ま)せばあちらへるなり」、物価の騰貴(とうき)に、大利を得る者あれば、大損(たいそん)の者あり、損をして悲(かな)しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽(くらく)存亡(そんぼう)栄辱(えいじょく)得失(とくしつ)、こちらが増(ま)すとあちらの減(へ)るとの外になし、皆是(これ)自他を見る事能(あた)はざる半人足(はんにんそく)の、寄合(よりあ)ひ仕事なり、「喰(く)へばへり減(へ)れば又喰ひいそがしや永(なが)き保(たも)ちのあらぬ此身(このみ)ぞ」、屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵(くら)は石で築(きず)くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒(さむさ)が来るとて、着物を先に着(き)て置(お)くと云ふ事も出来ぬ人身(ひとみ)なり、されば長くは生(いき)られぬは天命なり、「腹(はら)くちく喰ふてつきひく女子(おなご)等は仏(ほとけ)にまさる悟(さとり)なりけり」、我(わが)腹に食(しょく)満(みつ)れば寝(ね)て居るは、犬猫(いぬねこ)を始(はじめ)心無き物の常情(じょうじょう)なり、然るに食事を済(すま)すと、直(ただち)に明日(あす)喰ふべき物を拵(こしら)へるは、未来の明日の大切なる事を能(よく)悟(さと)る故なり、此悟(このさとり)こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫(それ)にて事足るべし、是(これ)我(わが)教、悟道(ごどう)の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟(さとら)ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其(その)大元(おおもと)を尋(たずぬ)れば食(く)ふと着(き)るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事(せいじ)も教法(きょうほう)も、皆此二つの安全を計(はか)る為のみ、其他(そのた)は枝葉(しよう)のみ潤色(じゅんしょく)のみ
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、仏道の伝来、祖々(そそ)厳密(げんみつ)なり。然(しか)りといへ共、古(いにしえ)と今と表裏の違ひあり。古の仏者は鉄鉢(てつばち)一つを以て、世を送れり、今の仏者は日々厚味に飽(あ)けり。古の仏者は、糞雑衣(ふんぞうえ)とて、人の捨てたる破れ切(ぎれ)を、緘(と)ぢ合せて体を覆(おお)ふ、今の仏者は常に綾羅錦繡(りょうらきんしゅう)を纏(まと)へり。古の仏者は、山林岩穴、常に草坐(そうざ)せり、今の仏者は、常に高堂(こうどう)に安坐す。是(これ)皆遺教(ゆいきょう)等に説く所と天地雲泥の違ひに非(あら)ずや。然(しか)りといへども、是自然の勢(いきおい)なり。何となれば、遺教に田宅を安置する事を得ずとあり、而(しか)して上(かみ)朱印地(しゅいんち)を賜(たま)ふ。財宝を遠離(えんり)する事、火坑(かこう)を避(さ)くるが如くせよとも、又蓄積する事勿(なか)れともあり、而して世人、競(きそ)ふて財物を寄附す。また好(よし)みを、貴人に結ぶ事を得ずと、而して貴人自(みずか)ら随従(ずいじゅう)して、弟子と称す。譬(たと)へば大河流水の突(つ)き当る処には砂石集(あつま)らずして、水の当らざる処に集るが如し。是又自然の勢なり。