二宮翁夜話 / 巻之四
翁曰、世界、人は勿論、禽獣虫魚草木に至るまで、凡天地の間に、生々する物は、皆天の分身と云べし、何となれば孑孒にても蜉蝣にても草木にても、天地造化の力をからずして、人力を以て生育せしむる事は、出来ざればなり、而て人は其長たり、故に万物の霊と云、其長たるの証は、禽獣虫魚草木を、我が勝手に支配し、生殺して何方よりも咎なし、人の威力は広太なり、されど本来は、人と禽獣と草木と何ぞ分たん、皆天の分身なるが故に、仏道にては、悉皆成仏と説り、我国は神国なり、悉皆成神と云べし、然るを世の人、生て居る時は人にして、死して仏と成ると思ふは違へり、生て仏なるが故に、死て仏なるべし、生て人にして、死して仏となる理あるべからず、生て鯖の魚が死して鰹節となるの理なし、林にある時は松にして伐て杉となる木なし、されば生前仏にて、死して仏と成り、生前神にして、死して神なり、世に人の死せしを祭て、神とするあり、是又生前神なるが故に神となるなり、此理明白にあらずや、神と云、仏と云名は異也といへども、実は同じ、国異なるが故に名異なるのみ、予此心をよめる歌に「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」「世の中は草木もともに生如来死して命の有かをぞしれ」、呵々。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、世界、人は勿論(もちろん)、禽獣虫魚草木(きんじゅうちゅうぎょそうもく)に至るまで、凡(およ)そ天地の間に、生々(せいせい)する物は、皆天の分身(ぶんしん)と云ふべし。何となれば孑孒(ぼうふり)にても蜉蝣(ぶゆう)にても草木にても、天地造化(ぞうか)の力を仮(か)らずして、人力を以て生育せしむる事は、出来ざればなり。而(しか)して人は其(そ)の長(ちょう)たり、故に万物の霊と云ふ。其の長たるの証(しょう)は、禽獣虫魚草木を、我が勝手に支配し、生殺(せいさつ)して何方(いずかた)よりも咎(とが)めなし、人の威力は広太(こうだい)なり。されど本来は、人と禽獣(きんじゅう)と草木と何ぞ分たん、皆天の分身なるが故に、仏道にては、悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)と説(と)けり。我が国は神国なり、悉皆成神(しっかいじょうしん)と云ふべし。然(しか)るを世の人、生(い)きて居る時は人にして、死して仏と成ると思ふは違(たが)へり。生きて仏なるが故に、死して仏なるべし、生きて人にして、死して仏となる理(り)あるべからず。生きて鯖(さば)の魚が死して鰹節(かつおぶし)となるの理なし、林にある時は松にして伐(き)りて杉となる木なし。されば生前仏にて、死して仏と成り、生前神にして、死して神なり。世に人の死せしを祭(まつ)りて、神とするあり、是(これ)又生前神なるが故に神となるなり。此の理明白にあらずや。神と云ひ、仏と云ふ名は異(こと)なりといへども、実は同じ、国異なるが故に名異なるのみ。予(よ)此の心をよめる歌に「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」「世の中は草木もともに生如来(いきにょらい)死して命の有かをぞしれ」、呵々(かか)。
現代語訳
翁が言われた。この世界で、人はもちろん、鳥・獣・虫・魚・草木に至るまで、およそ天地の間に生きて増えていくものは、みな天の分身というべきである。なぜなら、ぼうふらでも、かげろうでも、草木でも、天地の造化の力を借りずに、人の力だけで育て生かすことはできないからだ。そして人はその長である。だから万物の霊という。その長であるしるしは、鳥獣虫魚草木を自分の思いのままに支配し、生かすも殺すもどこからも咎められない。人の威力は広大だ。しかし本来は、人と鳥獣と草木に何の区別があろう、みな天の分身なのだ。だから仏道では「悉皆成仏(すべてが成仏する)」と説く。我が国は神国だから「悉皆成神」というべきだ。それなのに世の人は、生きている時は人で、死んでから仏になると思うのは間違いだ。生きながら仏だからこそ死んでも仏なのであって、生きて人であるものが死んで仏になる道理はない。生きた鯖が死んで鰹節になる道理はなく、林にある時は松であって、伐って杉になる木はない。だから生前が仏なら死んでも仏、生前が神なら死んでも神である。世間には死んだ人を祭って神とすることがあるが、これも生前が神だから神になるのだ。この道理は明白ではないか。神といい仏といっても、名は違うが実は同じで、国が違うから名が違うだけである。私はこの心を歌に詠んで「世の中は草木もともに神であって、死んで命のありかを知るのだ」「世の中は草木もともに生き如来、死んで命のありかを知るのだ」――はっはっは。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)、某(それがし)の寺に詣(けい)す、灌仏会(かんぶつえ)あり。翁曰(いわ)く、天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)と云ふ事を、俠客(きょうかく)者流(しゃりゅう)など、広言(こうげん)を吐(は)きて、天下広しといへ共、我に如(し)く者なしなど云ふと同じく、釈氏(しゃくし)の自慢と思ふ者あり、是(これ)誤りなり。是は釈氏のみならず、世界皆、我も人も、唯(ただ)此(こ)の、我こそ、天上にも、天下にも尊き者なれ、我に勝(まさ)りて尊き物は、必ず無きぞと云ふ、教訓の言葉なり。然(しか)らば則(すなわ)ち銘々各々、此の我身が天地間に上無き尊き物ぞ。如何(いか)となれば、天地間我なければ、物無きが如くなればなり。されば銘々各々皆、天上天下唯我独尊なり。犬も独尊なり、鷹(たか)も独尊なり、猫(ねこ)も杓子(しゃくし)も独尊と云て可なる物なり。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、凡(およ)そ万物(ばんぶつ)皆一(ひと)ツにては、相続(そうぞく)は出来ぬものなり、夫(それ)父母なくして生ずる物は草木なり、草木は空中に半分幹(かん)枝(し)を発(はっ)し、地中に半分根をさして生育すればなり、地を離(はな)れて相続する物は、男女二(ふた)ツを結(むす)び合せて倫(りん)をなす、則(すなわ)ち網(あみ)の目の如し、夫(それ)網は糸二筋(ふたすじ)を寄(よせ)ては結(むす)び、寄ては結びして網(あみ)となる、人倫も其(その)如く、男と女とを結び合せて、相続する物なり、只人のみならず、動物皆然り、地を離れて相続する物は、一粒の種、二(ふた)ツに割(わ)れ、其中より芽(め)を生ず、一粒の内陰陽(いんよう)あるが如し、且(かつ)天の火気を受け、地の水気を得て、地に根をさし、空に枝葉を発して生育す、則(すなわ)ち天地を父母とするなり、世人(せじん)草木の地中に根をさして、空中に育する事をば知るといへ共、空中に枝葉を発して、土中に根を育する事を知らず、空中に枝葉を発するも、土中に根を張るも一理ならずや。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、世の中、用をなす材木は、皆四角(しかく)なり、然(しか)といへども、天、人の為に四角なる木を生ぜず、故に満天下(まんてんか)の山林に、四角なる木なし、又皮もなく骨(ほね)もなく、鎌鉾(かまぼこ)の如く半片(はんぺん)の如き魚(うお)あらば、人の為弁利(べんり)なるべけれど、天是(これ)を生ぜず、故に、漫々(まんまん)たる大海に、斯(かく)の如き魚一尾(いちび)もあらざるなり、又籾(もみ)もなく糠(ぬか)もなく、白米の如き米あらば、人世(じんせい)此上(このうえ)もなき益(えき)なれども、天是を生ぜず、故に全国の田地(でんち)に、一粒(ひとつぶ)も此米なし、是を以て、天道と人道と異(こと)なる道理を悟(さと)るべし、又南瓜(かぼちゃ)を植(うう)れば必ず蔓(つる)あり、米を作れば必ず藁(わら)あり、是又自然の理也、夫(それ)糠と米は、一身同体(いっしんどうたい)なり、肉(にく)と骨(ほね)も又同じ、肉多き魚は骨も大なり、然(しか)るを糠と骨とを嫌(きら)ひ、米と肉とを欲(ほっ)するは、人の私心(ししん)なれば、天に対(たい)しては申訳(もうしわけ)なかるべし、然といへども、今まで喰(く)ひたる飯(めし)も餧(す)へれば喰ふ事の出来ぬ人体なれば、仕方なし、能々(よくよく)此理(このり)を弁明(べんめい)すべし、此理を弁明せざれば、我道(わがみち)は了解(りょうかい)する事難(かた)く行ふ事難し
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、自然(しぜん)に行(おこな)はるゝ是(これ)天理(てんり)なり、天理に随(したが)ふといへ共(ども)、又(また)人為(じんい)を以(もっ)て行ふを人道(じんどう)と云(い)ふ、人体の柔弱(じゅうじゃく)なる、雨風雪霜寒暑昼夜、循環(じゅんかん)止まざるの世界に生れて、羽毛鱗介(うもうりんかい)の堅(かた)めなく、飲食一日も欠(か)くべからずして、爪牙(そうが)の利なし、故に身の為に便利なる道を立てざれば、身を安(やす)んずる事能(あた)はず、さればこそ、此(こ)の道を尊(たっと)んで、其(そ)の本原(ほんげん)天に出づと云ひ、天性と云ひ、善とし美とし大とするなれ、此の道の廃(すた)れざらん事を願へばなり、老子(ろうし)其(そ)の隙(すき)を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、などゝ云へるは無理ならず、然(しか)りといへ共、此の身体を保(たも)つが為、余義(よぎ)なきを如何(いか)んせん、身、米を喰(く)ひ衣を着し家に居り、而(しか)して此の言を主張するは、又老子輩(はい)の失(しつ)と云ふべし、或(ある)ひと曰く、然(しか)らば仏言(ぶつげん)も失と云ふべき歟(か)、翁曰く、仏は生といへば滅と云ひ、有と説けば無と説き、色則是空(しきそくぜくう)と云ひ、空則是色と云へり、老荘の意とは異(こと)なり。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、「咲(さけ)ばちり散(ち)れば又さき年毎(としごと)に詠(なが)め尽(つき)せぬ花の色々(いろいろ)」、困窮(こんきゅう)に陥(おちい)り、如何(いか)ともすべき様(よう)なくて、売出(うりだ)す物品を、安(やす)ひ物だと悦(よろこ)んで買(か)ひ、又不運(ふうん)極(きわま)り拠(よりどころ)なく、家を売て裏店(うらだな)へ引込(ひきこ)めば、表店(おもてだな)へ出て目出度(めでたし)と悦ぶ者、絶(たえ)ずある世の中なり、「増減(ぞうげん)は器(うつわ)傾(かたむ)く水と見よこちらに増(ま)せばあちらへるなり」、物価の騰貴(とうき)に、大利を得る者あれば、大損(たいそん)の者あり、損をして悲(かな)しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽(くらく)存亡(そんぼう)栄辱(えいじょく)得失(とくしつ)、こちらが増(ま)すとあちらの減(へ)るとの外になし、皆是(これ)自他を見る事能(あた)はざる半人足(はんにんそく)の、寄合(よりあ)ひ仕事なり、「喰(く)へばへり減(へ)れば又喰ひいそがしや永(なが)き保(たも)ちのあらぬ此身(このみ)ぞ」、屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵(くら)は石で築(きず)くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒(さむさ)が来るとて、着物を先に着(き)て置(お)くと云ふ事も出来ぬ人身(ひとみ)なり、されば長くは生(いき)られぬは天命なり、「腹(はら)くちく喰ふてつきひく女子(おなご)等は仏(ほとけ)にまさる悟(さとり)なりけり」、我(わが)腹に食(しょく)満(みつ)れば寝(ね)て居るは、犬猫(いぬねこ)を始(はじめ)心無き物の常情(じょうじょう)なり、然るに食事を済(すま)すと、直(ただち)に明日(あす)喰ふべき物を拵(こしら)へるは、未来の明日の大切なる事を能(よく)悟(さと)る故なり、此悟(このさとり)こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫(それ)にて事足るべし、是(これ)我(わが)教、悟道(ごどう)の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟(さとら)ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其(その)大元(おおもと)を尋(たずぬ)れば食(く)ふと着(き)るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事(せいじ)も教法(きょうほう)も、皆此二つの安全を計(はか)る為のみ、其他(そのた)は枝葉(しよう)のみ潤色(じゅんしょく)のみ
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二宮翁夜話・巻之五或(あるひと)日光温泉に浴す、山中他邦(たほう)の魚鳥を喰ふ事を禁(きん)じて、山中の魚鳥を殺(ころ)すを禁ぜず、他の神山霊(れい)地等は境(けい)内に近き沼地山林にて、魚鳥を殺すを禁ず、是(これ)庖厨(ほうちゅう)を遠(とおざ)くるの意、耳目の及ぶ所にて、生を殺すを忌(い)むなり、而(しか)て日光温泉の制、是に反対せり、山中の殺生を禁ぜずして、他境の魚鳥を禁ず、是山神の意なりと云ふ、此理あるべからずと云へり、翁(おきな)曰(いわ)く、仏者殺生戒を説くといへ共、実は不都合の物なり、天地死物にあらず万物また死物にあらず、然(しか)る生世界に生れて殺生戒を立つ、何を以て生を保(たも)たんや、生を保つは、生物を食するに依る、死物を食して焉(いずくん)ぞ生を保つ事を得ん、人皆禽獣(きんじゅう)虫魚飛揚(ひよう)蠢動(しゅんどう)の物を殺すを殺生と云ひて、草木菓穀(かこく)を殺すの、殺生たるを知らず、飛揚蠢動の物を生と云ひ、草木菓穀を生物に非ずとするか、鳥獣を屠(ほふ)るを殺生と云ひ、菓穀を煮(に)るを殺生に非ずとするか、然(しか)らば木食行者(もくじきぎょうじゃ)と云ふといへども、秋山の落葉を食して生を保つべけんや、然れば殺生戒と云ふといへども、只我と類の近き物を殺すを戒(いまし)めて、類(るい)を異(こと)にする物を戒めざるなれば、不都合なる物なり、されば殺生戒とは云ふ可からず、殺類戒(さつるいかい)と云ひて可なる物なり、凡(およ)そ人道は私(わたくし)に立ちたる物なれば、至処(いたるところ)を推窮(すいきゅう)むる時は皆此類なり、怪(あや)しむにたらず、而て日光温泉は深山なり、深山などには往古(おうこ)の遺(い)法残(のこ)る物なれば、私に立ちたる往古の遺法なるべし、且(か)つ深山は食に乏し、四境通達の処と同じからざれば、往古食物を得るを以て善とせしより、此の如き事になれるなるべし、怪しむにたらざるなり。